前章「私の見たもの」で述べたことに若干のことを付け加えたいと思う。原爆については数多くの文章が著されているので、私がもし網羅的に述べるとするならば、今まで言われてきたことの繰り返しにしかならないからだ。
私自身は破滅を免れたのだが、教会関係者がどうしているのかと気になって仕方がなかった。教会に所属していた人たちは約300名、しかしその半分以上は市外に住んでいた。市の中心部に居住していた人たちほとんど全員に、身内の死傷者がいる。ある家族では両親と二人の娘が全員亡くなった。別の家族では父親と子どもたちが全力を尽くして火のついた瓦礫の下敷きになった母親を助けようとしたが、自分たちが火に巻き込まれる前にその場を立ち去らなければならなかった。当教会のキリスト教信者のうち、死者の数は25人かそれ以上であった。
市の中心部の住民についていえば、ほとんどの家族は1人かそれ以上の死者を出している。学生の多くがこの犠牲となった。県立女学校では一カ所で300人の女子生徒が命を奪われた。他の中学も、男子校であれ女子校であれ、状況は大して変わらなかった。前述したように、小学生はほとんど疎開していた。両親は市内で亡くなったため、子どもたちは孤児になった。また、市外に住んでいた多くの人たちも、あの日の朝に市内に出勤していたために亡くなった。例えば、私たちの修練院の周りでは、ほとんど全ての世帯で誰かが命を落としている。
火傷を負った人々は、市外にたどり着くことが出来ても、大多数はその後死亡した。その苦しみは言葉で言い表すことができないほどであった。この種の火傷は普通の火傷よりも処置が難しい。やがて明らかになったが、火傷を負った人たちは軽傷の場合を除き、全員が亡くなった。適切な処置の方法を知る人は誰もいなかった。しかも、医者もいなかった。市内にいた250人の医師のうち、200人が殺された。路上で倒れても、長い間、誰も病院に、正確に言えば病院があった場所に運んでくれる人はいなかった。多くの病院は木造であったがために焼かれてしまった。そうした場所に運ばれても地面に寝かされるだけで手当てを受けるまで二、三日は待たなければならなかった。看護師がいなかったからである。包帯も薬も、栄養ある食事もなかったのである。
原爆でいったい、何人の人が死亡したのかとよく聞かれる。これは正確に推定することが非常に難しい。戦時中、広島(市)全体の人口は約40万人だったと一般に言われている。ある発表によれば、6万人が疎開していたが、働きに来ていた人たちも大勢いた。加えて、普段から多数の兵士もいた。原爆が落とされる五日前の8月1日には、多くの兵士が入隊したので、原爆が落とされた時の兵士の数はいつもより多く、内、少なくとも2万人か3万人が殺された。私たちの教会の近くでは住民の七割が亡くなったが、もっと市の中心部に近いところでは死亡率は十割であった。9月の初めに、日本の新聞は13万人が死んだと伝えたが、その後は何の発表もなかった。死者以外にも、重傷者が約4万人いた。しかし、当時は何もかもが混乱をきたしており、全貌を把握することは不可能であった。死ぬ前に市外に出てしまったり、あるいは市外に運ばれたりした人がとても多かったからである。少し時間が経てば、正確な推定ができるかもしれない。しかし、私が話を聞いた人たちは、死者の数が20万人に達していたに違いないと見ていた。これが本当ならば、前述した憲兵が推測した数字が高すぎたことになる。大まかな数字しか出せなかったのだから十分にあり得る話である。しかも、憲兵がわざと数字を盛ったと考える理由もない。むしろその逆で、民衆の間で過剰な不安を生じさせないように、できるだけ数字を低く見せようとした、という方があり得る話である。
時折、広島の全ての建物が石造りだったら、原爆による被害がここまでひどくならなかったという意見を聞く。たしかに、石造りは燃えやすい建材ではない。しかし、広島にあった数少ないコンクリートの建物の中にいた人たちが安全だったかと言えば、それは大きな間違いである。実際、それらの建物は衝撃には耐えたが、内部では火事が起こった。事実、こうした人たちもたくさん亡くなっている。繰り返しになるが、室内のものも、いわば、「爆発物」のように危険なものになる。例えば銀行では、従業員と顧客を隔てていた鉄製の仕切りが定位置から外れ、あちこちに飛んだり、金属製の他のものが飛ばされたりした。市役所もコンクリートの建物であったが、爆心地にすごく近かったわけではないにもかかわらず、内部にいた人たちが多数死んでしまった。生き残った人たちも例外なくほぼ全員が負傷した。
目立った外傷がなかった人たちも、白血球が放射能によって破壊され、それで死亡した人が多数いた。原爆が落とされてから少なくとも数日の間は放射能が強い状態が続き、原爆投下のあとすぐに広島に来て、数日働いてから広島を離れた人たちが亡くなったのも間違いなくこれが原因となる。他方、この放射能は全ての人に同等に作用していたわけではなかった。2カ月後になっても放射能はまだ存在したが、最初のころよりはだいぶ弱くなっており、人体に害を及ぼすものではなかった。
橋の上に死者の亡霊が見えるという噂があったが、私自身はこうしたものを見たと言う人に出会ったことはない。
これらの話は、私自身の被爆体験で足りなかった部分を補うために十分であろう。原爆はすさまじい兵器であり、非常に性能が高いだけでなく非常に残酷であり、民間人の居住地区で用いるなら、これまでの戦争の中で用いた兵器の中で最も残酷なものとなることに異論の余地はないだろう。よって当然なことだが、このような兵器を用いることが倫理的に許容できるのかという質問をよく聞く。原爆でひどい目に遭った私たちはよくこのことを聞かれるし、日本人はこれについてどう考えるか、とも聞かれる。
日本人の意見については、私が知っている限り、彼らはあまりこの話に触れていないと言わざるを得ない。当然ではあるが、彼らは敗戦したのであり、自由な立場ではない。しかし、その心の内を推し量るならば、日本人、そして広島の人たちすらも、たぶん普通の兵器と区別して、原爆を決して民間人の居住地区に使ってはならないと言うだろう。私たちは日本人が焼夷弾について同様のことを話すのをよく聞く。原爆が投下される以前には、東京や他都市では空襲があって、大火災により何十万の人が亡くなった。もちろんこれは一般的な意見である。日本軍の兵士がした残虐行為はまた別の話であるが、そうした残虐行為を本国の人々が良しとすることは間違いなくあり得ないし、兵士でも大半はそれを良しとしないであろう。この倫理の問題は読者の判断に任せよう。広島の経験から確実に言えるのは、もし原爆が使われるならば、将来の戦争はこれまでの戦争よりもはるかに破壊的なものになるだろう、ということである。国際的な合意によって原爆を排除することができるだろうか。現実主義者たちはこれを否定するだけの相応の理由を持ち合わせている。今日の全面戦争においては、どんな国家もできるだけ早く勝利することを目指して、最も効率的な手段を用いる。思うに、原爆が倫理に反するかどうかという問題から出発すれば、全面戦争を倫理的に擁護できるかどうか、という問題にたどり着く。
広島にとって今重要なことは復興である。あの悲惨な出来事から数週間の間、広島は二度と元に戻れないという噂が出回っていた。実際、放射能で70年もの間、人が住めず、農作すらできないと言われていた。しかしご存知のとおり、この情報は誤りであった。春になると植物は芽吹き始めた。役に立つ植物とは言い難かったが、とにかくしばらくすると廃墟が緑で覆われるようになった。県庁と大学、その他の重要な施設が他の場所に移されるとも言われていたが、そうした計画は取り止められて久しい。県庁の旧庁舎は木造で完全に焼かれたが、今は県庁も市内に戻って、前とは別の建物になっている。市役所の庁舎は窓と扉が全て焼かれて、コンクリートの壁と天井と階段しか残っていないが、被爆後もずっと使われている。
ほとんどがバラック小屋であるが、住宅も多数建てられている。しかし、未だに市内の多く、実際には大部分が廃墟のままであり、整備されていない。あまりに多くの人が亡くなったので、ゆっくりと進める他ないが、市当局は街を再建することを堅く決意している。資材や運搬方法の欠如により、今後何年もかかることは確実だとしても、新しい都市計画はすでに出来上がっており、あとは実行するのみなのである。
この原稿は、Hugo Lassalle, Bombed in Hiroshima –by an eyewitness 600 yards from the center-, 原爆戦災誌編さん資料(広島市公文書館所蔵)の第二章の翻訳である。第一章「私の見たもの」のみが翻訳され、広島市役所編『広島原爆戦災誌』(1971年)に掲載されている。
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