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近藤 幸子(こんどう さちこ) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1983年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
佐々木智恵さんこんにちは。私は、広島の近藤幸子です。佐々木さんのお便を読みました。あなたは、名前のように智(さと)い、つまりかしこい、恵(めぐみ)のこころ、つまりやさしい思いやりのあるお子さんですね。読んでいてじーんとなりました。あなたのお便にどれだけ答られるかわかりませんが、私たち広島の被爆者のこころを、しっかり受け止めてください。

私は、原爆の落された中心地点から、およそ三キロぐらい離れた、少し高いところの己斐上町に住んでいました。八月六日八時十五分頃は、家の前の畑のカボチャが花咲りでしたから交配(めしべにおしべの花粉をつけると実が確実になると教えられていましたから)に出ておりました。

突然ピカーッと光りました。目の前すべてがまっ白い世界に立っているようでした。私の頭上で爆弾が破裂したと思いました。助からないと思いながらも、そばのゴボー畑の葉の中に伏せました。すると、ドーンというすさまじい音がして、伏せていた体が飛びそうになりました。広島のひとは、原爆のことをいつまでもピカドンと言っておりました。原子爆弾と知らされたのは、ずい分とあとのことです。それでも原爆が恐しい放射能があると分ったのは何年もあとのことです。

死んだ気で伏せていましたのに、少しづつ私は生きているとわかり、おそる、おそる頭を上げて見ましたら、東の方向の山の上に、あの原子雲が見えたのです。雲というより、グラグラ煮えたぎる火のかたまりが、赤く、白く、青く、虹色に光る雲となって、そしてだんだん灰色になり、大きな雲になりながら、それでも雲の中は、いつまでも火が煮えるようにグラグラ燃えていました。その原子雲がよく見ると私の上の方に移動して来るように見え恐ろしくてたまりませんでした。ふっと、家に置いていた子供のことを思い出して、起き上り家の方に走りました。しかし、走っているつもりでも、道は、飛んで来た木や板や瓦で近い家にも、なかなか早くたどり着けないほどでした。

家の中はめちゃめちゃでした。戸、障子、フスマなど形はなく、少し軽い、鏡台や茶ダンスなどは、家の裏の小さな池の中に吹き飛ばされておりました。でも、気が動転してしまって、取り上げて家に入れるような気分にならず、そのままにしておりました。姑が、ガラス戸の破片で背中をひどく切り多量の出血ですが、どうにもならず、脱脂綿を置いて布でしばったままにしていました。

家の側の山に隣組で掘った防空壕にみんな入りました。そのうち市中で焼け出された人たちが避難して来ました。ずるむげの六才の男の子はその晩に亡くなりました。二十才ぐらいの男の人も、だんだん眼が見えなくなって翌日亡くなりました。無傷で逃げて来た人も三日目に亡くなりました。話せばきりがありません。

私は、九日の朝、私の母のことが気になり東の方に住んでいる母の家に行くために、市内に入りました。焼野原のさまを、いやというほど見ました。まだ道にねて、「水をください」という人がいました。どの家の防火用水にも人が死んでいました。髪が用水いっぱいに広がって底に座ったまま沈んでいるのを見て体がふるえました。炭のように焼けた死体は、ほとんど四つ足の動物のように手と足を突っぱらせていましたので、トラックに積み上げている人たちは苦労していました。焼けた電車の中は、白骨死体がたくさんありました。牛や馬が荷車をつけたまま、ふくれ上って焼けていましたが、さすってやれば声を出すのではないかと思えて悲しくなりました。川にはまだ、白くふくれた死体がたくさん浮いており、長いトビ口をその死体に打ち込んで、舟に引き揚げて荷物のように積み上げていました。晴れた夏の朝なのに、心が寒いのか、寒いさむい朝であったといまだに記憶しております。

今でも、丸焼の鶏を見ると、あの日の死体が思い出されてしかたありません。赤黒くふくれ上って丸焼になった少年や少女が、いたる所に、うずくまったような形で死んでいました。九日の情況も話せばきりがありません。

佐々木さんも、一度広島の資料館に見学に来てください。よくわかると思います。でも私たち被爆体験者にとっては、あの資料館など、まだまだ言い足りないと思うのです。

近くに住んでいた、私の夫の姉夫妻の娘は、今でいう中学二年生でしたが、建物疎開に出たまま、いまだに不明です。一瞬に焼け死んだのでしょう。その娘のお父さんは、毎日毎日探し歩きました。夜くらくなるまで、あらゆる死体をひっくり返して娘を求め、もう見えなくなると、娘の名の「久美子―。久美子―。」と、声をかぎりに焼野原に叫びつづけて帰っていました。終戦となり、仕事にも出かけることになると、朝早く出て、焼野原に立って、「久美子―。久美子―。」と思い切り名を呼んで勤めに出ていました。それは三年間つづきました。そのお父さんも今は亡くなりましたが、亡くなるまで服のポケットには娘の写真が入っていました。親の子供を思う気持は、そんなものです。

黒い雨が降ったことを話しましょう。私が交配したカボチャは、黒い雨のためか、爆風のためもあったのか、成っていた実も、葉もなにも茶色に枯れたようになって、食べることにはなりませんでした。私の夫は軍人でしたが、八月二十日に帰宅しました。食べることを考えて山畑を開墾していて、「掘った土が、くさい」とよく話していましたが、とうとう二次放射能で体をこわしてしまいました。黒い雨のしみた土を耕したせいでしょう。医者もいませんし、もちろん来てくれる人もなく、骨と皮になり、「殺してくれ」と苦しむようになりました。やっと人を頼んで薬を手に入れて少しづつ直しましたが、軍人だったから体が人の倍強かったから助かったと思います。

平和公園の原爆慰霊碑に刻まれた文字「安らかに眠ってください。あやまちは再び繰り返しませんから」と書かれてあります。ほんとうに戦争の無惨さは、二度と再びあってはなりません。核兵器がいっぱい出来ているこの地球を思うとやり切れない気持です。今でも世界のどこかでは、戦争をしています。同じ人間なのに、なぜ殺し合うのでしょう。どこで狂ってしまうのでしょう。残念でたまりません。戦争しなくても、餓死する人が世界にはあるというのに、なぜあたたかい心を持って助け合うことが出来ないのでしょう。月までもゆける人間の智能を、どこで、どう狂わせるのか、ほんとうに生命の大切さを、自分のいのちを大切にすると同じように、相手のいのちも大切に考える人でなくてはなりませんね。未来に向って力強く生きてゆく佐々木さんになってください。どんなことにもくじけない人になるよう勉強してください。
さようなら
  

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