原爆のとき、八月六日八時十五分、私は神父館の二階にいたのです。ちょっと前に外でミサをささげ、部屋におって、その時、何か光があったので、近くで多分何かのエクスぺリメントかもしれない、軍のほうで何か特別のことをやって、と思いました。その瞬間、天井や家具などがこわれ落ちてきました。原爆そのものの爆発の音は聞きませんでした。おそらく家がこわれると同時だったので、音が一つになったのでしょう。何であるのか全然わからない、それでもう、その時「おしまいだ」と思いました。でも部屋から出てみると、村田さん(お炊事の婦人)が「おお神父さま」と言いました、それだけ覚えています。村田さんは幸にも自分の家にいませんでした。食事のあとで神父館の掃除をしていましたので。神父館のほうは丈夫なので、倒れないでそのまま残っていましたから。外に出てみると伝道師の家はこわれていて、二人の幼堆園の先生が下敷になっていたのです。私たちがそこで助け出しているうちに、火が近くなって来たのです。私はおもにガラスのけがをしていましたが、まだ歩くことはできました。それで駅の方に行きかけたのですが、途中京橋の辺まで行ったら、もう向うは燃えていて行けないのです。それでひきかえして縮景園の方に行って、そこも建物はみな倒れていたので、こわれた家を越えて向う側へ行きました。縮景園でしばらく待って長束から迎えが来たのです。夜中に長束までの道を、神学生の手で戸板に乗せて、歩いて連れて行かれました。途中で一人がつまずいて、私は溝の中へころげ落ちるということもありました。長束ではアルぺ神父様が、たくさんの人を手当しました。
あれほどたくさんの人が亡くなられたことを思い、何とかそのためのおみ堂をと、そのときずっと聖堂建設のことを考えていました。そう、はじめからあのような構想でした。いや実際には考えていたより大きくなりました。非常に強力な援助をして下さったかたは、その時広島県を布教地としていて、ドイツのケルンにいたイエズス会神父でした。その人に手紙を書きました。非常に賛成して教皇様に頼んでくれられたのです。あのころはドイツから出られなかったのです。もう一人、アメリカにいたイ工ズス会神父にも手紙を出したのです。その神父さんは一人のお金持の信者さん(ブラッドレーさん)と知りあいでしたので、その人に計画を話したのです。その人は日本について、何とかしなきゃならない、何か記念聖堂を建てたいと、そんな考えを持っていたのです。それでちょうど一致したのです。その人はそのために自分のお金を全部出したいでした。あとはヨーロッパから帰って日本の内地で運動をはじめました。終戦の翌年ローマでイエズス会の大会がありました。会長の選挙が第一の目的でした。その会議に集った人を、個人個人の部屋を訪問して協力を頼んだのです。それからヨーロッパの帰りに、アメリカの神父さんからたのまれてブラジルに寄りました。なぜかというと、ブラジルにいた日本人のほとんどが敗戦を信じなかったんですね。敗戦はウソだといって連盟をつくって、日本が負けた、と言った人をねらって殺したりしたんです。それで私に、行って話してほしいということでした。ブラジルに行く船で一緒になった日本人は、アメリカにおってお金をだいぶつくった人でした。その人は最初日本の敗戦を信じなかったけれど、私が話したらわかりました。その人が上塚さんに私を紹介したのです。上塚さんは以前、ブラジルの日本人移民の世話をしていた有力者で、高松宮さんと一緒にやっていたので親しかったのです。だから宮さんにも協力をお願いできました。上塚さんは大蔵大臣の池田さんに私を紹介したんです。それで池田さんにプレジデントになってもらいたいでした。それから池田さんが、実業界やらいろいろ各界の大物の人々を集めてくださいました。また広島では一般市民の家庭を一軒ずつまわって、趣旨を話し寄付をお願いしましたが、断わられた人はほとんどありませんでした。免税のことも、池田さんがくわしいので、しんせつにやってくださいました。当時広島市長だった浜井さんは、ほんとによく協力してくださったのです。
(談話・1983年1月9日上智大学にて)
出典 カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」編 『破壊の日―外人神父たちの被爆体験―』 カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」 1983年 45~46頁
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