国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
私の見たもの 
フーゴー ラッサール(ふーごー らっさーる) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島幟町天主公教会(広島市幟町[現:広島市中区幟町]) 
被爆時職業  
被爆時所属 広島幟町天主公教会 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
(1929年イエズス会司祭として来日された。被爆と敗戦の混乱の中で世界平和記念聖堂建立に全力を傾注される。禅の研究にも造詣が深かった。広島市名誉市民。1990年7月7日帰天)

日本での最初の大空襲は、昭和19年11月、東京を襲ったものである。神田周辺が、大半燃えた。そして、ほぼ8,000人が死んだ。以来、首都めがけての空襲は、頻々と続いた。大阪・名古屋、その他の大都市も攻撃を受け、大損害を蒙った。同時に九州もいたるところ爆撃された。

広島でも、いずれ順が来ると考えていた。実際、昭和20年3月19日には約130機が、広島上空に現われたが、2、3発落としたのと、機銃掃射を少ししただけで、別に何も起こらなかった。損害も無かった。

数日後、神戸の住宅地区が爆撃されて、市街の大半が焼け、逃げおくれた者が、何千と炎の中で命を失った。広島でも何度か警戒警報が発令された。時には何百という飛行機の編隊が、市近辺を通過するのを見たが、広島市は素通りで、わずかに一度四、五発爆弾を落とし、二、三人死んだ。人々はだんだんと、何故広島が爆撃されないのか不思議に思いはじめた。いろんな噂が流れた。敵機の落とした宣伝ビラによると、広島は洪水で破壊されるのだという。その洪水も、山の中の水源地の土手をこわして、大洪水を引起こすのだという。わずか二年前、この種の洪水が、豪雨のために起って、広島地方の多くの人を殺し、大損害を与えている。中には、もし洪水となれば、全市は水浸しになって、二、三の建物が残り、人間の大半は海に流されて死ぬるものと信じていた。これは、勿論誇大な言い方ではある。中には、多くの者がスパイとして、敵陣に奉仕してきているから、広島は決して爆撃されることはないと考える人もいた。

こういう噂は、私たち外国人にとっては危険であった。あるとき、私たちと親しくしていた人が、もしそのような空襲で広島が破壊されたならば、教会にとっては、噂を消す意味において、かえっていいと言った。また、他の説明では、敵側で、広島・京都など二、三の大都市に手をつけない理由は、日本に上陸した場合に必要だからとも言っていた。また、ある楽観論者などによると、広島には爆撃しても、それほど価値のあるものがないからと言う者もあった。

これらの噂も7月29日に岡山市が爆撃されてからは立ち消えた。岡山は広島の東約160キロメートルの所にある。しかし、その注目すべき点は、地理的に近いというより、不意を衝かれたということである。真夜中の出来事で、警戒のサイレンも鳴らず、起きてみれば、岡山市はすでに燃えていた。95パーセントの家屋を焼失したが、幸い人的損失は少なかった。人々は、いよいよ広島の順番が近づいたと感じ、不意を衝かれないよう、ほとんどの人々が毎夜市中を離れ、市外の何処かの寺院とか野天で夜を過した。そして、夜が明けてから自分の家に帰っていった。ほとんどの人が火災とたたかうことに望みを失っていた。が、二、三日経過しても、警報こそたびたび出たが、広島の爆撃は無かった。だんだんと人々は自信を回復しはじめ、毎夜毎夜うろついて、外で夜を過すことに疲れてきて、再び自分の家で夜を過ごすようになった。家はやはり火災の場合守らなければならぬと考えたのである。

実際、ずっと前から(戦争開始時から)、日本人は消火訓練を繰り返してきた。焼夷弾が落ちた時は、どうすれば良いかということをほとんどの人が知っていた。訓練の警報は日夜鳴らされた。小学校の生徒を疎開させ、何千もの家屋が、防火・防空用地を確保するために取り壊された。水槽も用意された。また、川が市内に七本も流れているので、緊急の場合には、そこに逃げようと、何らかの望みももっていた。

あの日の近づく最後の日々、その週のころは、警報がほとんど毎晩発せられた。ラジオは敵機の行動ニュースを放送していた。しばしば大編隊が広島湾沖に集結したと聴かされた。そのたびに今度はいよいよ市の攻撃がはじまると思ったが、また何回も何回も何処か他の方に向かうのであった。

いうまでもなく、これはみな人の神経をひどく疲れさせ、市民も、いっそのこと爆撃されて、すべてが済んでしまえばいいとすら考えた。これが八月初めの状況であった。

そして、八月六日がやって来た。美しい朝であった。空には一点の雲もない。七時九分に警報が鳴った。二、三機市の上空に現れた。私を含めて市民の多くはいっこうに構わなかった。こんなことは今まで何度となくあった。半時間後、警報解除となった。

その間、私は自室に入り、日常の仕事に取りかかった。八時少し過ぎ、またプロペラの音が聴えてきたけれども、警報は鳴らなかった。私は飛行機の様子が見たくて、階下に降りて外へ出ようと思い、立ちあがった。机の傍に立って、部屋を出ようとした瞬間は、ちょうど八時十五分であった。

この瞬間、まったく突如、不思議な光りが家の内と外で光った。それは稲妻にもたとえられるが、実はまったく同じものではない。私も稲光りとは思わなかった。しかも、その朝は雷の来るような大気現象でもなかった。

私には一体何だろうと、瞬間的に自問するだけの時間があった。一秒ぐらいのものであった。

次の瞬間は、説明するのがむつかしい。

建物全体が、大音響と共に崩壊してゆくようであった。たちまち部屋は真暗になった。光線は音波よりも速く、爆発音が聞こえる以前に、すでにその効果は届いていたのである。暗闇は決して光線のために眼がくらんだのではなく、周囲に落下してきたものの埃のために、視野が遮られたか、あるいは爆発の煙のためかとも考えられる。窓・ガラス・枠・壁・天井・家具など、それこそ建物の骨格以外のすべてが、衝撃で壊れ、大半が崩壊した。何だか、あらゆるものが起爆力を持ったようであった。後で判ったことであるが、錠のかかっていたトランクも、爆風圧のために弾き開かれ、銃は壊され、中のものは一部吹きとんでいた。ガラスも粉々に割れて飛散し、トランクや物入れの箱の下にまでくい込んでいた。私のポケットの中からも、ガラスの破片が見つかった。

しかし、私は失神もせず、倒れもしなかった。戸の方を目ざして飛び出した。部屋を走り出る間にも、ものの破片が降ってきた。炎暑の最中、私はしのぎよいように、シャツとズボンしか着けていなくて、傷や打ち身だらけになった。ともかく外に出るまでのあいだ、今にも家が倒壊するのではないかと、不安にかられた。幸い、私の住んでいた司祭館は、木造ながらも非常に頑丈な枠組みであった。材木は、何百という頑丈なボルトでつながれていたから、骨組みがバラバラにならなかった。耐震用に造られていたから、下敷きになることもなく、どうにか階段を降りて、外に飛び出すことができたのである。私は生命は助かったが、全身血まみれの負傷をしていた。周囲を見まわしたが、なお薄暗くて、何一つ見えない。聖堂も見えない。しばらくして塵埃がおさまり、明るさを取りもどしてみると、聖堂は完全に地上に叩きつけられていた。この建物は、付近の民家と同様の建て方であったから、ひとたまりも無く倒壊したのであろう。それにしても、その中に住んでいた三人の神父は、どうなったのであろうか。死んだか!と、頭をかすめる。外に出たのは私が最初であったから……。ややして、神父の一人が、血まみれの顔をして出て来た。そして次、そして最後の一人が出て来たが、最後の神父がもっとも重傷であった。這い出ることはできたが、出血激しく顔面蒼白、まったく死人の顔である。

このとき、私は、「運が悪かった! 最初の爆弾が家の近くに落ちたのだ。」と考えた。そして、防空計画でかねてから定められた所へ急いで救護を受けに行こうと思い、道路に出てみると、いずこも同じように倒壊していた。壊れた家屋の破片が、道路の上に散乱し、歩くことさえ困難なほどで、救護所へ行けるような状況ではなかった。

火の手が、あちこちに上っていたが、まだ私たちの所までには達していなかった。

私は裏庭に出てみた。すると、学生に声をかけられた。幼稚園の保母二人が、建物の下敷きになっているという。すぐに救出作業にかかった。二人は生きていたが、動くことができないで、救出は困難をきわめた。相当の時間をかけて、ようやく引っぱり出すことができた。そのとき、他にも二人、伝道にたずさわっている人を救出した。

そこで、引続き、火のついた幼稚園の消火にあたろうとしたが、消防ポンプも無く、火は急速に拡がり、不可能な状態であった。

私は、二階の自室に駆けあがった。何も取り出さずに飛び出していたからである。しかし、その室内を見て驚いた。壁に面していた大机は、前向きになって倒れており、机の上にあった本棚の姿が見えない。扉は蝶つがいの所から引き千切られている。

私は左脚に大きな裂傷を受けており、塞がった入口を這いあがることができない。周囲を見廻したが、何一つとして助かっている物がない。過去何週間か、毎夜、万一に備えて小さな小包に必要なものを入れて用意しておいたのに、それも無い。何一つとして残っていない。

ふと、助けてくれという声がした。神父の一人が、下敷きになった近所の婦人を救出するのに、手助けを求めたのである。この婦人も救出して、また、建物の方へ帰った。

この間に、みんな一応この場を離れて、神父の一人と、クラインゾルゲ神父と、司祭館の秘書である60歳の日本人の方(深井)と、私が居残ることにした。

火炎は刻々と迫って来て、立ち去らねばならなかった。が、私は今一度、部屋に帰ってみた。何も持って出るものがないとは、信じられなかった。しかし、やはりムダであった。

引き返して私は、階下にあった半壊のトランクを二つ三つ取り出して、防空壕の中に投げこみ、ありあわせの物で壕の入口を閉めた。

これが、襲い来る猛火の中での、精一ぱいの行動であった。

こうして、私たち三人の神父は、そこを立ち去ったが、老人の秘書は、負傷しているにもかかわらず、私たちと一緒に行くことを拒否した。地面に坐りこんで、行きたくないと言った。私たちは無理に外の道路に連れ出して歩きはじめた。そのとき、向こうから子供を背負った婦人が寄って来て、夫を助けて欲しいと懇願した。秘書は、自分の事をかまわずにその婦人を助けてあげてくれと言った。しかし、婦人の家が何処かわからないうえ、大火の中では不可能なことであった。私たちは婦人に、一緒に逃げましょうとすすめたが、婦人はきかず、荒れ狂う火炎の中へ向って入っていった。

火炎は、すっかり私たちの四方を取り巻いた。脱出口を探したが、時すでに遅く、逃げようがなかった。ただ、一つ、川沿いの道(上幟町側)を他の人々が逃げていたので、それらと一緒に公園(縮景園)に向かった。勿論、ここですら安全というわけではなく、園内の樹木に火が燃え移るようになったら、公園の裏の川に飛びこもうと考えていた。

ここに入る前に、私たちは老秘書を置いて行くことになった。彼は私たちと一緒に行くことを頑として拒んだ。言葉や力づくで連れて行けるようなものではなかった。

後日、聞いた話しであるが、秘書が二、三日前に洩らした言葉で、「日本帝国が亡びる姿を見るよりは、広島の爆撃で死んだ方がましだ。」と、語っていたそうである。また、これも聞いた話であるが、彼はその前日、郊外の親戚を訪れ、その晩泊まるように言われたのを、断って市内に帰り、被爆したのである。

私たちは多数の避難者と一緒に、園内に入った。そこには、教会でいつも会っているような人もいた。前に述べた重傷の神父も来ていた。まだ出血が続いていて、止まりそうもなかった。今日のうちに死ぬるのではないかと心配した。園内のもっとも奥の、河岸に坐って、川向こうの町(大須賀町付近)が、盛んに炎上しているのを眺めた。それは凄い火炎であった。幸いに風はこちらに向って吹いて来なかった。もし吹いていたら樹々は大火災となったであろう。実際には少し燃え移ったが、避難者が小さいうちに消しとめた。その時、雨が降りはじめた。同時に颶風が私たちの方に向って吹きはじめた。五〇メートル先の樹々の折れるのが見えた。枝々は千切れて川の中に飛ばされた。川岸に避難している人まで、風の力に耐え切れず、川の中に吹き飛ばされた。私たちのいた所から、さほど遠くない所では、病院全体が川の中にほうり込まれた。非常に危険が迫っていたが、辛いに颶風は他の方向に移動した。もし舟がたくさんあったら、難をのがれることのできた人があったかも知れない。舟は一隻しかなかった。それを見つけた人(流川教会谷本牧師)は、精一ぱいできるだけの人を乗せて、対岸へ何度も繰り返し運んだ。が、大半の人は、私らを含めて火災が自然に終わるのを待つほかなかった。

午後四時ごろ、火災はほとんど下火となった。私たちは教会がどうなったか、帰ってみることにした。帰る途中、余燼なお熱く、一か所に二分以上は立って居れなかった。防火水槽で衣服を濡らし、焼けないようにしながら行ったが、教会は完全に灰燼に帰していた。作っていた野菜は、地面の上できれいに煮えて料理のようにでき上っていたので夕食がわりにそれを食べた。

私は脚の負傷のため、もう歩くことができなかった。そこでグループの3人が、3マイル離れた市外(安佐郡長束)のイエズス会修練院に住んでいる友人を呼びに出かけた。そこはほとんどが外人で、10人ばかり屈強な先生が揃っていた。

夜八時ごろ彼らは軽食をもってやって来た。速やかに二つの担架が造られた。

そのうち日本人たちは、ご飯を炊いたが、それは、逃げるときに持って出たものであった。私たちは、皆一家族のような気がした。グループのなかに行きわたった非常に温かい思いやりがあった。

何時のまにか集まった人々は、何人いたかは知らないが、6、70人くらい居たのであろう。このうち20人以上は重傷で、ほとんど動くことができない。これらの人の多くは二十四時間以内に死んだ。

人々は、知人の話や助けることができなかった人たちのことについて語りあった。-人の婦人は、倒壊物の下敷きになった夫の話をした。彼女はのし掛かつた大きな木材を持ち上げることができず、生きたままの夫を、火炎のまっただ中に置いて立ち去らねばならなかった。しかし、誰一人として不平の言葉を洩らす者はいなかった。

時は戦時中であった。国のためには、あらゆる艱難に堪える覚悟であった。後に聞いたことであるが、ある婦人が愚痴をこぼしはじめたら、他の者がそれを制したという。

日本人は不運に直面したとき、それを耐え忍ぶことに雄々しさを感じる国民である。

今一人の神父と私の二人がもっとも重傷であったから、舟に入れられ、次の橋(常盤橋)の所まで行った。この橋の近くで川が大きく曲がっていた。遠くからそちらを見ると、たくさんの人がいて、皆火事の鎮まるのを待っているように思われた。近づくにつれ、私たちの方に向かって助けを求めて叫んだ。あまりにもひどい傷を負っているため、そこから動かれない人ばかりであった。しかし私たちは、何もしてあげることができず、そのまま舟を進めていった。

午後二時ごろであったか、長束の修練院に到着し、院長のアルペ神父に傷の手当を受けた。アルペ神父は、司祭職につく以前に医学の勉強をしていたのが役立った。しかし、負傷者は私たち二人だけでなく、神父や修道士に助けられた者とか、自力でたどりついた者など、総数80人以上の負傷者が収容されていた。

この修練院と礼拝堂は、共に爆心地から四マイルほど離れているが、ひどく損害を受け、広島市の中心に向かっている窓は全部壊れた。ガラスだけでなく、木製の窓枠も壊れた。礼拝堂の外壁の三本の柱が祈れ、内部の扉もほとんど潰れ、天井はわん曲して形を変えた。ガラスの破片が到る所に飛散しており、天井のタイルは爆風圧のために吹き飛ばされていた。ここが、そのまま病院として変ったのである。

市内で社会福祉事業に従事していた修道女は、その修院を焼失し、ここに避難して来たが、その日から収容負傷者の看護に力をつくした。私はここで、これら院長・先生・修道女たちが、懸命に救助の仕事をしたことを詳細に述べることはしない。ただ、言えることは、これらの多くの人々がキリスト教が何であるかについて、眼を開いたということである。

翌日、私たちは、たった一発の原子爆弾が、あれだけの惨禍を招いたということを知った。二、三日後に聞いたことであるが、憲兵隊では、多分20万人から25万人の生命を奪ったと推測したという。

戦争はまだ続いていた。毎夜、そして時には、同じ晩に何度も、警戒警報が鳴らされ、そのつど窓の破れた家は、すべて灯を消した。負傷者はすべて防空壕に運ばれねばならなかったが、私は部屋から動かなかった。が、爆弾が落ちれば.すぐ窓から飛び出せるように用意していた。勿論、死ぬる覚悟もできていた。

長崎に原子爆弾か落とされたこと、他の都市が焼夷弾攻撃を受けたことが報道されたが、原子爆弾被爆の結果、戦争は終結すべきだという声は、一つも聞かなかった。それがたとえ如何なる条件であっても、私の判断するところ、日本人はまだ最後まで闘う決心をしていて、日本が降伏することはないとかたく信じていた。八月十五日、天皇陛下が全国民にラジオを通じて話をすると伝えられた。このような事は、いまだかつて一度もなかったことである。中には、これで戦争も終結するのではないかと考える者もいた。歩ける者は、ラジオのある部屋に、メッセージが何であろうかと聞きに行った。

日本が敵国に降伏したと発表されたとき、中には泣く者がいた。原子爆弾のあの恐ろしい威力を見た者が、戦争の終ったのを悲しむとは、まったく驚かざるを得なかった。

彼らの祖国が、天皇を中心にして過去から現在まで、栄誉に満ちていたことが、日本人の心の中に壮大な建造物として聳えていたのである。勿論、彼らとしても、原子爆弾が使用される以前から、戦争の局面が危機に瀕していること、そして、戦争に勝つ望みは、も早少なくなったこと、また、たとえ平和条約が結ばれるとしても、日本の条件は、戦争開始のときと比較して、程遠いものであることは判っていた。が、この降伏は、今一つの原子爆弾が落ちたようなもので、古い日本の壮大な建物が、まさしく地に叩きつけられたようなものであった。それは、広島の原子爆弾よりも強烈なものであった。原子爆弾の悲惨さに、涙もこぼれなかった人たちでさえ、降伏が発表された時には泣いた。

私の知っている一人の若いキリスト教徒の婦人が、友だちのキリスト教徒でない者と一緒に、祖国の名誉のために、自殺しようと考えていた。キリスト教徒の彼女は、神父の一人に、どうするべきかを尋ねた。神父は、「天皇陛下が降伏を決断されたご意志は、国民の生命を救うためであったのであって、決して自殺して欲しいためのものではなかった。」と、彼女に答えた。それでその事はケリがついた。

この降伏が、日本人にとって、どういう意味であったかは、戦争中、彼らと生活を共にした者でないと、理解できないであろう。

陸海軍共に、降伏は毛頭考えていなかったから、素直に陸海軍が、天皇の言葉に服従したとは、信じられないことであった。国民すべてが天皇の命に従うように教育されていた。天皇以外の権威である全智全能の神とか、教皇のようなものを認めた上で、天皇というものに、何故、何ら抵抗なく従うことができるのであろうか?

すべての試練を、カトリックの神父は経験しなければならないが、多く発せられる質問は、「あなたの信じる神は、天皇より優位なるものか?」である。また、時々キリスト教徒は、次の質問を受ける。「もし教皇が政敵となった場合、カトリック教徒はどうするか? 天皇に向って戦うのか?」これは、私たちにとって難問ではあった。

八月十五日、日本国民が天皇の命に従わなければならなかったことは、神の恵みであった。何故なら、天皇自身にとっても、また自分の親愛なる国民のためにも、降伏声明は、英雄的な自己犠牲であった。天皇は、国家を完全な崩壊から救ったのである。

(註) このフーゴ・ラッサール神父の手記は、「広島で被爆――爆心地から千二百メートル離れた所で、自ら視ての証言――」の中の一部である。( )内は、編者註記。

出典 カトリック正義と平和広島協議会編 『戦争は人間のしわざです』 カトリック正義と平和広島協議会 1991年 35~44頁
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針