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戦いの果て 
横木 八枝子(よこぎ やえこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1990年 
被爆場所 広島市幟町[現:広島市中区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
今から四十五年前の頃の幟町教会には今は天国におられるラサール神父様、クラインゾルゲ高倉神父様、斉藤神父様、そして今も健在でおられる上智大学理事長のルーメル神父様方が現在と全く同じ形の建物である司祭館に住んでおられました。

お聖堂は南北に横長く日本建築で平屋建、一番北側が更衣部屋でその次がお聖堂で畳敷でした。お聖堂の右側にはドイツから送ってきた足ふみの大きなオルガンがあり、ふすまを境に信者の控室、その次がホールで幼稚園が使用しておりました。

幼稚園と云っても設備が悪く園児も五十人位で園長先生はラサール神父様、主任は佐々木先生と松江教会から伊藤先生がおいでになり、年令の若い者は私一人で子供達と共に教会の中庭を駆け廻っておりました。昼食をすませられた神父様方が揃って聖体訪問される時に、聖堂の前に松の木が十本位ありましてその枝に子供達がぶらさがっているのをご覧になって、叱らないで、悪いのは子供ではなく私達ですよと云ってにこにこし乍らお聖堂に入っていかれました、そのお姿が今も走馬燈の如く思い出されます。

十九年の春頃でした、戦争も激しくなり食糧も不足がちとなりましたので今の信者会館と通路の半分位迄は神父様方が耕やされてじゃがいも畠になり、ラサール神父様もルーメル神父様もドイツの方なので、見事に出来たじゃがいもを主食に召上がっておられました。

教会の真中には、ルルドのマリア様を真似て小高い築山があり、マリア様の前で園児達は入退園の時ご挨拶をしたり一つの愛のお祈りをしておりました。

十九年の秋頃だったと思います、園児達と庭の芝生で遊んでいましたら一人の若い青年がカスリの着物姿で司祭会館の中から出て来て私達に話しかけてこられた事が五、六回ありました。後になって解ったのですが実は憲兵だったそうです。暫らくして斉藤神父様が憲兵隊に連行され、一ヶ月位スパイ容疑の拷問にかけられ息が出来ない程叩かれ、そのために体が悪くなり早く亡くなられました。

佐々木先生も一週間位取り調べをうけられたと思います。

私は兄も弟も戦地で活躍中で銃後の守りをしている、と話していたので取り調べをうけないですみました。

ラサール神父様は、当時陸軍幼年学校へドイツ語の指導に国民服姿でゲートルを巻いて通っておられ「日獨伊」の三国同盟の協定を結んでいる時でもあったので取り調べをまぬがれたのだと思います。

ラサール神父様が云っておられました。軍の圧力が余りにも強いので宣教師として広島に残る以上、又カトリック教会をそのまま残す以上、軍に従はざるを得ない。現在の様に自由な発言は許されない時代であり、凡て軍を通しての物資の配給であり又外出の場合、神父様は軍の許可が必要だったのです。そんな時代ですので、何故カトリック信者は戦争に反対しなかったのかと云われるかも知れませんが今の様な時代でなかったからです。だから私達も神社へ武運長久を祈りに学校からも行き隣組からも町内からも当番で行っておりました。行くだけ行かないと国賊だと云われ食糧の配給も受けられなく店には何もないのです。闇から闇へと凡べての食糧や衣類は皆物々交換で取り引きされておりました。

こんな時に、ルーメル神父様はまだ神学生で修練期だったようですけれど、時々司祭館や幼稚園のホールでピアノコンサートや演奏会を開かれ、又レコードコンサートもされて当時の青年将校を慰安しておられました。私達も陸軍病院へ園児の遊戯や舞踏をお見せしてケガをされた軍人の慰問に度々出て行きました。

十九年の終り頃から二十年の初めにかけてからは、宇品の暁部隊の通信兵が教会の中庭で演習をしていました。土曜日は幼稚園も午前中だけでしたので、午後からは幼稚園のホールで通信の演習をされ、私達もお茶などサービスしていました。

ラサール神父様もクラインゾルゲ神父様も、ゲートルを巻いて隣組の方とともに競争で櫓の木板に水をかける訓練を強制的にやらされた等、今は此の世を去っていらっしゃる神父様方との思い出が、私の心の中に人生の一ページとして懐かしく刻み込まれています。教会の正門の右側には、星島さんと云う傳道士の方がおられました。原爆で亡くなられましたけれど、その子供さんの一番末の方で、私達はよく「やっさん」とよんでおりました。旧制中学の二年か三年だったと思います。よくミサの待者をしておられたけど、現在も立派な信仰を受け継いで倉敷の方で活躍しておられるそうです。教会の正門から少し入った所に防空ごうが掘ってありました。八月六日の原爆投下の次の日、私は防空ごうを訪れて見ましたら、怪我をされた神父様方や信者の方々が口ーソクに火をともして祈っておられました。八月五日の晩は一晩中空襲警戒警報のくり返しだったと思います。六日の八時十五分には警戒警報のサイレンが鳴り私は家の中に入ろうとした瞬間でした。パッと窓際が真赤になり、凄い音と共に建物は全部破壊されました。私は破壊された建物の中で気を失い、暫くの間何にもわかりませんでした。

原爆が投下されて何分たったかわかりませんが、ふと気が付いた時、破壊された建物の中に小さな光が差し込んできました。私は思はず、イエズス、マリア、ヨゼフ様お助け下さいと祈りながら、光に向かって壊された建物の間から這い出て行くことが出来ました。出て見ると、広島の市内は全滅で、あちこちで火が燃え上がっており、「オバケ」の様な人間がぞろぞろと現在の縮景園の方へと向かっていました。私の真向側には、大きな柱の下で助けを求め叫んでいる人がいましたけれど、だれも助けることの出来ない状態でした。歩いている人は皆、怪我人とやけどの水ぶくれで其の柱をのける事すら出来ないのです。私も怪我をしていたので、何人かの人からの助を求められたがどうする事も出来ず、縮景園の方へと逃げていきましたが、又そこで爆風に吹き飛ばされ、川の中でおぼれている所を助けて戴きました。川の岸にはたくさんの人が水を求めておられ、何人かの人に川の水をのませてあげました。そして其の晩は牛田の農家の土間で夜つゆをしのいだのをおぼえています。何人も何人も負傷した人、やけどをして息絶える人達で足の踏み場もない程でした。川の中には数へ切れない程の死体が浮いており、饒津神社の境内には、魚をあみで焼く様に死体がいくつもいくつも並べてあるのには驚きました。日中は夏の陽差しが強く、やけどで火ぶくれしたはだがつぶれ皮膚に「ウジ」のわいている人、怪我をして歩けなくて、東練兵場を這い廻っている学徒動員の少年達、そして医者も看護婦も病院も凡て全滅し、まるで此の世の地獄を見た様でした。喉がかわいて水を探して歩き、やっと破れた水道に口を潤すと、何故か気分が悪くなったのでその水も呑まなかったことをおぼえています。一週間位すると、頭の毛がぼろぼろと抜け、前の方が薄くなり体の調子が悪く、「カボチャ」「ナシ」等が良いとのことで、母が四国の松山迄買い出しに行ってくれました。やはり悪いガスを吸っているためでしよう……毎日の新聞にも、広島には草木も生えない、原爆にあった人は長く生きられない、毎日何十人も何百人も死んで行くというニュースが報道されました。現在でも、原爆後遺症のために苦しんでおられる方々が多くいらっしゃいます。私も現在は元気ですけど、何時の日か其の放射能に犯された肉体は朽ち果てる時がくるのではと不安をいだかない日はありません。

毎年行われる原爆慰霊のミサには、今日まで元気で生かされている事に感謝し、亡くなった多くの犠牲者のために祈りをお捧げしています。

二度と使ってはならない爆弾、人類を全滅する兵器です。何時までも何時までも人間が生きている限り平和であります様にと祈りつつペンをおきます。

出典 カトリック正義と平和広島協議会編 『戦争は人間のしわざです』 カトリック正義と平和広島協議会 1991年 153~156頁 

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