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神はもう一度、生きることを望まれた 
長谷川 儀(はせがわ ただし) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 太田川 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆の直撃を受けた筆者と
アルペ神父との奇しき出会い。
今、司祭として平和を祈りつづける。

太田川の土手で

昭和二十年八月六日 午前八時十五分。ヒロシマの地で「ピカドン!」の直撃に逢ったのは、爆心地から北へちょうど二キロ離れた太田川の土手でした。私は中学二年生で、十四才の時でした。

当時の日本は、敵機のたび重なる激しい空襲に見舞われ、自由にあしらわれ、軍事基地ばかりでなく都市の多くも、大きな打撃をこうむっていたのでした。それなのに、軍都の広島が殆ど無傷であったことは、不思議なことでした。そのことから「次の攻撃目標」とだれ言うとなくささやかれるようになったのでした。

昭和十八年。国民学校六年の児童であった私たち子供の身のまわりにも、戦争から来る緊迫したものが、少しずつ伝わって来ました。それは先ず、避難訓練であり、校庭の片隅での防空壕造りであり、敵機の爆音を聞き分けるための録音されたレコードを聞かされたり等で、一つ一つが私たちを戦争の深みへと巻き込んでいったのでした。

こうした背景の中で、私たちが中学生になった頃には状況がもっと悪化していて、学校の授業とは名ばかりで、ほとんどが勤労奉仕にかり出されていたのでした。当時、広島市内には沢山の中学校・女学校がありました。その生徒の男女を問わず、一、二年生は全員軍司令部の命令一下、建物疎開のため、市街中心部へ強制され、労働に従事させられていたのでした。私も同級生の仲間たちと、七月末日までは空腹を忍び暑さと闘いながら、汗を流して共に作業をしていたのでした。

ところが、学校に軍隊が駐留するようになったので、私は八月一日より学校警備隊の一員として、配属されることになったのでした。条件は、自宅から徒歩で十分以内に登校出来る者と言うことでした。任務は、緊急事態が起こると昼夜を問わず、直ちに登校し、割り当てられている部署に着いて、その警備に当たることでした。

熱線が私の体を焼いた

八月六日。朝七時四十分頃。突然警戒警報に次ぐ空襲警報のサイレンにせきたてられて、大急ぎで学校へ集まりました。そして、各人が部署で警備に着いたものの、敵機は広島の上空から素早く逃げ去ったと見えて、直ぐに全ての警報は解除になりました。緊張から解放された私たちは、通常の集合時間までに暫く間が出来たので、仲間たちと川泳ぎを楽しむことにしたのでした。

ジリジリと照りつける真夏の太陽は、雲一つない青空を一人占めしているかのようでした。水しぶきをあげてどれ程の時間が経っていたであろうか。土手にいた何人かの仲間が「オーイ、Bの爆音が聞こえるぞ!」と私たちに向かって叫びました。にわかに緊張した私たちは水から上り、簡単に衣服をまとって空を見上げ、かすかな爆音を頼りにその機影を探しました。その時、青空の中にキラリと光る米粒大の飛行機を見付けたのでした。「オイ、あすこだ!」と指差し、口々に勝手な事を言いながら、見失わないよう目を凝らして眺めていると、今度は赤い落下傘のようなものが、頭上に迫って来るのを見つけました。視線をそちらへ移した私たちは「広島を偵察するためサイパンから飛んで来たので、逃げのびるのに機体を軽くし、燃料の節約から不要となったものを捨てていくのだろう」と想像もよろしく話し合い、見詰めていました。

すると突然、目の前が一瞬暗くなりました。変だ!と本能的にか反射的にか生命の危険を感じ、土手にうつ伏したのでした。それと同時に、黄色のものすごい熱線が、私の体を焼きつけたのでした。瞬間的に「爆弾の直撃を受けた」と思いました。熱線の熱さと火傷の痛さの入り混じった激痛が、全身を包んだのでした。後頭部、背中全面、両腕から両手先、そして両足先まで完全に焼き焦がされていたのでした。四千度の熱を、一瞬のうちに浴びせられていたようです。

目の前に迫って来た落下物が、頭上五百米位のところで炸裂したのだから、仰ぎ見ていた仲間たちの何人かは、正面からまともに火傷を負ったのでした。そのため、焼けただれた顔は形相が変り、どれが誰だが判別出来ない程になっていました。

焼けただれた皮膚、
悪寒と嘔吐におそわれ

我に返って自分の姿を見ると、身に着けていた衣服は燃えてくすぶり、両腕の皮膚も焼けただれてボロボロでした。焼けた手で服の火を消すことも出来ず、つい先程まで仲間達と泳いでいた川の中へ避難したのでした。しかし、塩分を含んでいる水の中に、顔だけ出して何分間もつかってはおれませんでした。痛みと寒さに襲われて我慢が出来なくなり、恐る恐る土手にあがって辺りを見廻しました。驚いたことに、爆弾が落ちたらしい跡もなく、確かに建ち並んでいたはずの民家は見当たらず、土手に並んでいた桜の木々までが、燃えたりしていたのでした。私はなすすべもなく、しばらく土手にうずくまっていました。

喉は渇き始めるわ、傷の痛みはズッキンズッキンと全身を刺し始めるわで息苦しくなり、そのうち悪寒と嘔吐が襲ってきました。誰の目から見ても、私が生きのびられるなんて思いもよらない状態だったとおもいます。それなのに気が立っていたのか、よろめきながらも崩壊された我が家へ辿り着き、無傷だった父と、左半身火傷を負い痛々しい姿に変わり果てていた母の姿を見付けるや、三人で再び安全な場所を求めて、土手の防空壕へと引き返しました。

頭上からは瓦やガラス類の破片に、火の粉など色々なものが舞い落ちて来るし、負傷で体のあちこちから血を流している者、火傷でどす黒く腫れあがった者たちが逃げまどうのと出会ったり、倒れた建物の下敷になって身動き一つ出来ないのか、金切声をあげて助けを求める者の断末魔のような叫びを背中に浴びながら、わずか数十米の道程をどのようにして逃げたのか、覚えていないのです。今から思えば、市街をすっぽり包み、その中のあらゆるものを天高く吸い上げていくかのように、ムクムクとふくらんでいったあのキノコ雲の下に、私もいたわけでした。

生を求め逃げながら、
黒い雨にも体を打たれた

安全と思っていた場所にも煙が襲いかかり、火の手が迫って来たため、更に川上の公園へ避難しなければならなくなったのが何時頃であったろうか。痛む体、苦しい息使いのなかにあっても、生を求めて逃げ始めた時、思わぬ黒い雨に体は打たれ、身をちぢこませる事も度々でした。

逃げ道に川底のかわいたところを選んだので、そこでも沢山の負傷者や火傷者と出会いました。やっとの思いで辿り着いた公園、そこにも、まるこげになった柱が転がっているかのような人たちでごったがえしていました。負傷者はいても救護所一つ無い悲惨な修羅場。喉の渇きを訴えて「水、水、水をください」と叫んでみても、誰もが自分の体を、傷を、もてあましていたので、どうして他人のそんな求めに応えることができたであろうか。

激痛におそわれながら野宿

末期の水さえ与えられないままに、多くの人々が死んでいく場所で、昼間は真夏の直射日光に生傷は晒され、夜はじっとりと露に濡れて過ごさねばならない生き地獄。全身は休みなく駆け巡る激痛と苦しみに、脈が止まれば楽になるのにと思いながら、苦しい三日間を両親と共に野宿したのでした。

やっとの思いで人間らしく屋根の下で生活出来るようになったのは、四日目のことでした。しかしそこは、学校の連絡所兼臨時避難所であったため安静など出来ず、安心して横たわれる場所を求めて移動せざるを得なかったのでした。

私の体をこれ以上動かすと生命の危険が余りにも大きくなると思われ、姉の友人に農家のお方があったので無理にお願いし、一部屋だけ借り受けてそちらへ移ったのでした。その時にはかなり衰弱していて、手のほどこしようもありませんでした。助けを求めて近郊の町医者を訪ね歩いても、何処も負傷者で一杯。往診なんて望む方が無理。

「丘の上の外人さん」に助けを求めて
――イエズス会長束修練院を訪れる――

途方に暮れていた父に「丘の上に住んでいる外人さんが、手当てをしているらしい」と農家の方が教えてくださり、ワラをも掴む思いで早速訪ねて行きました。

そこは、イエズス会長束修練院だったのです。郊外なのに、爆風でここも建物がかなり痛めつけられていました。四十畳余りあろう大部屋(聖堂)の中には、すでに沢山の負傷者が収容されていて、うめき声や水を求める声、うわごととしか思えない叫び声などが渦巻き、そうした人々の間を縫うように、見馴れない外国人や日本人(神父様やシスター)の方々が世話をして居られる姿が見えたのでした。これでは無理だ、と思ったもののそれでも助けを求めて外から声を掛けると、日本人の方が出て来られて、用件を聞かれると「お気の毒ですがご覧の通りです」と即座に断わられてしまったのでした。全く仕方の無いことでした。

アルペ神父との出会い
心のこもった治療を受ける

あきらめて修院の坂道をトボトボと下っていると、後ろから耳馴れない日本語で呼び止められたのでした。振り向くと、外国人の方が素足で走って来られ、もう一度修院へ引き返すように促されたのでした。このお方が当時の院長アルペ神父さまだったのです。父の願いを聞かれた神父さまは心よく引き受けてくださり、治療のためその日から早速出掛けて来て下さることになったのでした。

約束の時間通り、柱時計が十二時を打つのと同時に自転車で乗りつけて来られた神父さまは、私の状態を見るなり、持参されたホウ酸で水溶液を作り、焼けただれたままの皮膚、化膿しているウミや泥、ウジ虫などを洗い流し、傷口を潔めてくださったのでした。

アルペ神父さまとの出会いは、このようにして始まったのでした。その日は被爆後六日目のことでした。その時から四~五日続けてきてくださり、手際よく治療をしてくださったのです。しかし、八月十五日の終戦を迎え、武装解除になってから社会の情況が急に変り、進駐軍と言う言葉の裏にデマが飛び交い、何が起こるか予測もつかない不安と、憎悪の雰囲気が漂い始めたので神父さまも外出するのを控えられることにされたのでした。

九月に入って台風が追い打ちをかけ、焼跡は水びたしにされたのでした。洪水は私たちにも打撃を与え、またもや住まいを変えなければならなくなったのでした。神父さまとの縁も切れたまま、更に郊外のしかも会社の寮に移ったものの、風邪引きが原因で、腎臓、肋膜、腸カタル等の病魔に次々に襲われ、その都度危篤状態に陥入ったのでした。寮では、洪水による伝染病の流行で医者との出会いがあっただけに、気持ちの上では救いがあったようですが、十月末頃より容態は悪化へと傾き、十一月下旬には四度目の危篤が迫ったのでした。衰弱し切った体には、分を争う程の事態にたまりかね、父は「もう一度お助けを願いに行こう」と行って、大急ぎで長束の修練院へ向かったのでした。その日は十一月三十日でした。

三ヶ月振りに私の枕元に座られたアルペ神父さまは、あまりにも変わり果てた私の姿をじーっと見詰め、「人間の手では、もうどうしようもありません」と言われると大粒の涙を流されたとか。神のご加護を願い、あきらめてお帰りになられたのでした。

「信じますか」
瀬死の病床で洗礼

入れかわりに当時副院長を務めて居られたネーベル神父(故岡崎裕次郎師)さまが突然現れて「此処に死にそうな子が居るでしょう」とたどたどしい日本語で話され、私の枕元に坐るなり「天主さま、救い主イエズス・キリストさま、罪の赦し、天国」のことばを、吃りながらも(第二次欧州大戦に従軍された際、後頭部を負傷され、その時以来軽い言語障害になられたもの)やっとそれだけを言って「信じますか」の質問に、母は私を助けたい一心で「ハイ」と答えると、お水を求められたのでした。我が家の焼跡から拾い集めて来た湯呑みに水を注いで渡すと、突然一人で何やら言いながら私の額に水を注ぎ「この子は一週間眠りますが、決して触らないでください。この子が何か言った時には、そのことだけをしてあげなさい」と言って帰っていかれたのでした。

「そんな無茶なことを!」と思ったものの、約束は約束。痛みと苦しみで殆ど眠ることの出来なかった私が、それからと言うもの、まるで死人のように眠るばかり。不安を通りこして気味悪くなった母は、私の鼻先に自分の手の掌を近づけて、吸う息吐く息を頼りに、生きていることを確かめたのでした。

約束通り一週間が過ぎ、再び私の枕元に坐られた神父さまは「もう触ってもよろしい(治療のこと)」と言われたので、複雑な気持ちを押さえながら、母は傷の手当を始めようとしたところ、異変に気付いたのでした。

あれ程難儀に難儀を重ねて来た傷口は、薄いピンクの皮膚で完全に包まれていたのでした。皆の驚きようと言ったら口では上手に表現ができません。神の恵み、無償の愛、とはこう言うことなのでしょうか。

「私も神父さま方のようになりたい」

私の生涯は、ピカドンと共に終わっていたはずなのに、神さまはこのようにしてまでも、恵みのうちにもう一度生きることを望まれたのでした。その時から、私は神父さま方シスター方の、苦しんでいる人、助けを必要としている人たちに対する愛や奉仕や犠牲を捧げて居られる姿に接して来たことから、許されることなら自分も同じように人助けをしたいものと考えるようになったのでした。

ある日のこと、アルペ神父さまを訪ね、自分も神父さま方のようになりたい旨を相談しました。すると「神さまから戴いた恵みに応えなければならない、と言った考えだけでは義理で司祭になるようなもので危険ですよ」と教えてくださいました。その時、他の神父さまは「この身体では無理だと思うが、神父になりたいのなら祈祷書の中にある「お召しを求むる祈り」を何日続くか試してみなさい」と助言してくださったのです。

何気なく言われたことばは、私の心に蒔かれた種のように育ち、昭和四十年三月十八日、晴れて広島教区司祭に挙げられたのでした。

その年、奇しくもアルペ神父さまは、ローマにおいてイエズス会総長に選出されたのでした。私の叙階式に参列してくださることになっていた約束は、このようにして実現されなかったのですが、お祝いとしてプレゼントにカリスを残してくださったのでした。

今も毎日のごミサで使用させて頂いているのです。

此の日を誰よりも一番喜び、感謝のうちに待っていた母は、「愛は犠牲をともなう」の言葉を毛筆で一枚一枚書き、そのご絵の裏に餞としてエフェゾ五章二節のことばをもって祝ってくれました。

「平和は犠牲の代償なり」

私はキリストの平和を求め、戦争犠牲者の一人をも決して無駄にしないように、と毎日のミサの中でいけにえとして捧げているのです。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」

出典 カトリック正義と平和広島協議会編 『戦争は人間のしわざです』 カトリック正義と平和広島協議会 1991年 165~172頁
  

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