私が原爆から奇跡的に難を逃れたあと、多くの人が私の幸運を祝ってくれた。周りの何千人もの人が命を落としたのに、私が生き残ったからという。確かにとても親切なことで、友人たちが心配してくれて非常にありがたいと思ったが、正直に言えば、私自身は何週間にもわたって、他人が考えているほどには嬉しくはなかった。変な言い方かもしれないが、むしろ申し訳ないと思った。私は、生きている人々の中にあって大きな孤独を感じ、むしろ亡くなった人たちと一緒になることを待ち望んでいた。私が何年も世話をしていた信者で、今や亡くなってしまった人たちのことを考えずにはいられなかった。彼らと一緒に逝けたらよかったと思ったし、司牧者として彼らと一緒でなければならなかったと感じた。しかし、こうした思いは叶わなかった。もちろん主が私を召されなかったのは、私が主ご自身のために、そして日本の人々のために、これからもさらに働くことをお望みになったからだ、ということが、私にははっきりと分かっていた。理屈は明快だが、心は伴っておらず、むしろあの世の方にあった。内的な葛藤のあの日々に、あるとき、私にはある考えが浮かんだ。亡くなった人たちのために、彼らを記憶するために、何かをしなければ、と。この考えはやがて記念聖堂を作るというものに発展した。私たちの聖堂は建て直されねばならない。立派な記念聖堂として建て直されねばならないのだ。
この考えが私から離れることはなかった。長く思いを巡らせば巡らすほど、これを実行しないといけない、そしてきちんと実行しないといけないという確信が私の中で強くなった。彼らは史上初めて使用された原子爆弾の犠牲者で、あらゆる戦争の中で最もひどかったあの戦争が、彼らの犠牲をもって終結したのだから。彼らの犠牲がなかったなら、少なくとも戦争はしばらく続いていたであろう。日本への上陸作戦が必要になり、時間ももっとかかっていたであろう。日本は最後まで戦うつもりだったので、双方の被害はとてつもないものになっていたであろう。広島の犠牲者たちによって、何十万人、もしかすると何百万人の命が助かった。日本、そして米国の人々も、原子爆弾で亡くなった人たちに対して計り知れない恩義があるのだと、私は思わずにはいられない。この恩に報いるには何ができるのだろうか。
まずは、彼らをいつまでも記憶しつづけることである。私たちキリスト者にとっては、彼らを記念する美しい聖堂を建てることが、そのための最も優れた方法である。私はこの計画を多くの日本人と米国人に話し、聖堂建設のための基金もできた。友人たちの寛大な支援によって資金が充分に集まり、この仕事を立派に果たすことを私は切に願っている。しかし、将来建てられる広島のこの聖堂が、資金面の都合で質素になろうと壮麗になろうと、記念するための聖堂であることに変わりはない。
言うまでもないが、カトリック教会の他の聖堂と同様、この聖堂は彫像や他の記念碑等と違って、単に眺めるためだけのものではない。この聖堂では、毎朝礼拝が行われ献身的な人々が日中いつでも祈りを捧げることができる。それは、広島の人々の教会だ。この世を去った人々のため、そして広島で生きている人々のための。愛する人々を亡くしてこの世で孤独になった兄弟姉妹たちがそこで祈り、天国に続く道を歩んでいくための光と力を、見出すであろう。
この聖堂建設は計画の最初の一歩である。私が当時の広島市長にこの計画を話したとき、市長は大いに喜び、この記念聖堂建設に適した土地を確保できるように、市の新しい復興計画を作らせることをすぐさま約束してくれた。
次に、できるだけ早く孤児院を開設することである。言うまでもなく、これは広島で急を要する問題である。戦地で父親を亡くした多くの子どもたちもいるが、おそらくそれよりも多く空襲で親を亡くした子どもたちがいる。というのも多くの場合、子どもは疎開したのに、親たちは都市部に残って仕事をしていたからである。多くの親たちは命を落としたが、戦争が終わった今、子どもたちが市内に戻ってきた。そこで自分たちの家が燃やされ親たちが死んだという事実を目の当たりにしている。孤児院はすでに一、二カ所存在しているが、キリスト者によって運営されておらず、特に資金不足と人手不足で、大変困難な状況にある。
幸いにもこれに関する事業はすでに始まっている。昨年の1947年に、オーストラリア軍の聖職者たちからの寛大な援助を受け、広島から約10キロ離れた祇園にある一軒の家が購入され、20人の子どもたちを初めて受け入れた。そこでは、「光の園」の日本人修道女たちが子どもたちの面倒を見ている。また一方では、広島市が私たちのために土地を用意してくれたため、そこに大規模な孤児院が建てられた。ブラジルに移民した日本人たちは、多くはキリスト者ではなかったが、この計画に対し多額の寄付を行った。
福祉だけでなく、教育にも貢献する必要がある。広島では多くの学校が焼失したため、急いで女子高校と男子高校を一校ずつ建てる必要がある。
最後に、私たちの復興計画の中では講堂建設が重要な地位を占めている。講堂があれば、私たちは地域全体の文化事業のための拠点を持つ。文化事業が大変に重要であるということは後に詳しく説明することにする。日本では圧倒的多くの人々がキリスト教徒ではないが、こうした文化事業こそが彼らと接する最良の機会となる。そしてこの講堂は、日本の若い世代の人たちが好む音楽演奏にも適している。
以上述べたように、私たちは廃墟となった土地に新しい広島を築くために、記念聖堂、慈善福祉施設、教育文化施設という三つの施設を作っていきたいと考えている。広い道路と公園、そして遊び場を持つ新しい都市が明るく楽しい場所となるよう、私たちは願っている。しかし、人口は以前よりもかなり少なくなるだろう。以前は40万人であったが、今後の人口は13万人程度になるだろうと予測されたこともある。だが、これからも広島は県庁所在地であり、大学その他の教育機関を抱え、周辺の他の町や農村部に対して影響を与え続ける。広島は広島県、岡山県、鳥取県、島根県、そして山口県という五つの県からなる中国地方の最も重要な都市であり、さらに、その有利な立地のおかげで再び成長することは確実である。やがては人口も以前の40万人の水準に達し、それを超えていくかもしれない。実際、今でも人口は20万人を超えている。復興事業は1947年以降、順調に進んでいる。このように将来の展望は明るいので、私たちもこれに励まされて、可能な限りキリスト教を広めていきたい。
この原稿は、Hugo Lassalle, Bombed in Hiroshima –by an eyewitness 600 yards from the center-, 原爆戦災誌編さん資料(広島市公文書館所蔵)の第三章の翻訳である。第一章「私の見たもの」のみが翻訳され、広島市役所編『広島原爆戦災誌』(1971年)に掲載されている。
|