私達家族は六四年前の八月六日午前八時一五分爆心地から一・四キロメートル離れた稲荷町の自宅で被爆しました。父は二階にいて家ごと吹き飛ばされ一時行くへ不明に、洗濯をしていた母と子供達は、私が口唇に少し火傷をしただけで、すぐに庭にあった防空壕に避難しました。
あまりの静けさに気持ち悪くなった母が外に出て見ると家々は倒れ福屋百貨店が見えました。私達も外に出て途方に暮れていると、父が帰って来て両親はお互いの無事を喜び抱き合って喜こんでいました。
家の下敷になっていた自転車を引っ張り出しパンクしていましたが子供達を乗せ尾長の山に逃げる事にしました。家の周りからは切れた電線からピューピューと青い光を出し全身が火傷をした婦人が無事な赤ちゃんを抱き、子供だけは助けてと泣きわめいていました。又後か前か分からぬ程全身火傷で体が腫れ上っている人、破れた布をまとったように皮膚が垂れ下った人が多くいて死の街と化していました。自分達は我が身の事で精一杯で何もしてあげる事が出来ませんでした。
途中で女の子が一人ぽつんと立っていて、名前をひろ子といい五才との事、この子を連て途中で破れた水道管から吹き出ていた水をひろ子ちゃんに一番に飲ませようとすると私は一番後でいいといって優しい子でした。
無一文となった両親はこの子を育てる自信がなく尾長の山の近くの派出所へ預けました。山に着いた母は、私の腫れた口唇を冷たい水で一晩中冷やしてくれました。
山は避難して来た人で一杯でその中に男の人が今妻と別れ自分だけが逃げて来たと泣いていました。妻が家の梁の下敷になり引っぱり出そうとしたが自分一人の力ではどうにもならず、火が迫って来た妻は自分はどうなってもいいから早く逃げてと懇願するので泣く泣く握手をして避難して来たと話してくれました。
火災も治まり叔父の家に避難する為下山するとひろ子ちゃんが派出所を出入りして遊んでいて、父母は後ろ髪を引かれる思いで見付からないようにそっと通り、向洋の叔父の家に着きました。
祖母、叔父、叔母がまだ行くへ不明との事私達は毎日中心地へ探しに出掛けました。祖母は三日くらいして兵隊さんに担架に乗せられ全身火傷の姿で連れて来て下さいました。生きているのにうじが湧き皆で取ってあげました。薬もなく八月一五日敗戦を聞き亡くなりました。叔父、叔母はとうとう見つからず、遺骨さえありません。この世に生を受けた証として慰霊碑の過去帳に名前が記載されている事だけです。
生活が安定した父はひろ子ちゃんがもし施設にいるなら養女として引き取って育てると言って毎年クリスマスになるとお菓子を持って何個もあった孤児院を尋ね歩きましたが見つからず、自分も肺ガンで亡くなりました。六四年経った今でもひろ子ちゃんが今どうしているか気にかかります。今一度お逢いして、お互いの無事を確認したいのです。
広島市中区江波南二丁目
空 民子
二〇〇九年 平成二一年 七月二十八日
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