神様、神様はおられるのですか。それならなぜ広島、長崎に原爆を落とされ多くの犠牲者を出し、その肉親を悲しませるような事をなさったのですか。
亡くなった人達はどんなに悔しく、もっともっとこの世に生き自分らしく輝いた人生を送りたかった事でしょう。
幸いにも生き残った多くの人達も後遺症に苦しみ病院通いを余儀なくされ、又不幸にも孤児になった数知れぬ子供達は厳しい生活と戦い、人生が一変しどのような苦しみに耐えて今日まで生きてこられた事でしょう。
お願いです。二度と戦争のない世の中にして下さい。
今も内戦に苦しみ核保有国が増えています。人類を滅亡させないで下さい。
高彦兄ちゃん、ヒサエ姉ちゃん、天国でやすらかに眠っていますか。
戸籍謄本で調べてみると、高彦兄ちゃんは一九四五年昭和二十年八月六日午前八時二十分広島市基町番地不詳にて死亡。ヒサエ姉ちゃんは同八時二十分広島市中島新町番地不詳にて死亡と記載されています。
即死だったのですか。それとも五分でも全身火傷で痛み苦しみ水を求めて亡くなったのですか。思えば思う程切なく悲しくお二人がいとおしくさえ感じるのです。
母と私達は廃墟となった爆心地近くを捜し歩きました。多くの死体が各所に山積みされいたる所で火葬されていましたが、とうとう見付ける事が出来ませんでした。私は叔父叔母であるお二人をお兄ちゃん、お姉ちゃんと呼び体の弱かった私をよく抱っこしてくれたそうですね。又お兄ちゃんが抱っこしてあげると病気が治るよ泣かないでとやさしく可愛いがってくれたそうですね。当時三才だった私はこんなに可愛いがってもらったというのに残念ながら覚えていません。母から聞いて頭の中でこんなに可愛いがってもらってたんだなと思い浮べるだけです。それでもとても懐しく写真さえないのにお二人の顔が思い浮ぶのです。
今年の七月三十一日、お二人と原爆を受けその後亡くなった祖母、父など合わせて六人を、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ登録しました。
体調をくずしていたこの五、六年平和記念式典に出席出来ませんでしたが、今年は元気になり登録を済ませたひとくぐりの年でもあり、久し振りに早朝から慰霊碑にお参りし、式典に参列、平和の歌大合唱の時は、天まで届けとばかりに精一杯歌いました。
又供養塔ではもしかしてここに眠っておられるのかと思い、いつまでも立ち去りがたくしばらく想いをはせ、又夕方からは灯籠流しに行きました。
高彦兄ちゃん、ヒサエ姉ちゃん、いっぱい可愛いがってくれてありがとう、やすらかに眠って下さいと書きましたよ、読んでくれましたか。お別れしたくないのかもう少し一緒にいたいと言わんばかりに何度も岸に当りながら流れて行きましたね。
お二人はいつも私の心の中で生きています。十九才と十三才、早すぎる死はさぞかし無念だったでしょう。もっともっと人生を楽しみ輝いた日々を過したかった事でしょう。
現代の平和はあなたがた多くの方々の犠牲の上にあるのです。私達は戦争のない平和な世の中になるよう訴えていく義務があるのです。祈念館で又お逢いしましょう。
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