被爆体験記
吉村克隆 当時一四才
昭和二十年八月六日、当時私は広島市立中学校の三年生で学徒動員で広島市観音町にある三菱重工の主機工場(船のタービン製造)に勤務していました。
当日七時前に家を出ました。横川一丁目停留所で電車は満員でステップに足をかけ途中の十日市で車内に入りました。
次の土橋では既に下級生の一、二年生が建物疎開の作業準備をしていました。
私は一日置きに下級生の作業の手伝をして居り今日は工場出勤の日です。
彼等一、二年生の職員生徒三百十四名は一時間後の八時十五分全員黒コゲとなって死んで行きました。
建物疎開とは昭和二十年日本各都市の空襲による火災の延焼を防ぐ方法として家屋を倒し空地帯を作った。家屋の柱を切りロープを軒下にかけ大勢で引き倒す作業です。
八時前工場事務所に入りました。
八時、工員学徒二千人が事務所前の広場に集合。工場長の訓辞があり八時十分各現場に入りました。
私も机に向い椅子に座った瞬間、東北方向に青白い火柱が立ちバリバリと音を立てながらゆっくり天空に昇って行きます。
皆んな何が起きたか判らず立ちすくんで居りました。その直後私達の背後(南)より爆風が襲って来ました。それは六、七十米の風速があったと思います。
窓ガラスはとび散り書棚、つい立、机、椅子と一緒にとばされました。その最中戦地帰りの課長が大声で「あわてるな!!落ち着け!!」と叫んでいます。私達は我に帰り折り重なった中からはい出し出口へ急ぎました。腰を強打していた。窓側にいた人達は割れたガラスで全員血だらけになり体にガラスがささったまゝでした。外に出ると二階建の食堂が倒壊しており工場は鉄骨を残しスレートの屋根壁が全て吹きとばされていました。
皆が見上げる空はどす黒い雲がごうごうと音を立て盛んに吹き上げ空へかけ登っています。
雲の中に無数の黒いものが舞っています。トタン板でせうか時々稲妻も走っています。
私達はようやく工場地域内にいる危険に気付きました。工場の埋立地の向い側にある防空壕へ急ぎました。着いてほどなく対岸の草津の町全体より砂煙りが立ち登りました。時間的に可成りずれていますが爆風が襲ったに違いありません。川添に市内を見ますといたる所で火災が発生しています。
それにしてもあの雲は何んであらう。空襲警報は解除となり飛行機に気付きませんでした。家族が心配です。帰宅の許可を要求しましたが市内の状況が全く不明の為許可が出ません。市内から火傷、怪我をした人達が疲れはてた状態で収容されています。
私達は十二時帰宅の許可が出ました。
私は近所に住む西本長生君と二人走った。
上半身火傷の男の子が道端にしゃがんでふるえている。道の左右に大勢の人が横になったりしゃがんであえいでいる。
可哀そうだが私達にはどうすることも出来ない目をそむけて走った。
行く手は左右の家が盛んに火を吹いている。通り抜ける自信がない。やむなく迂回して川端へ出る。木造の橋の欄干が燃えている。
橋を渡り畑地へ出る。此処も避難民で一杯である。横になっている人を踏まない様気を付けながら急いだ。突然女の人がよろよろと立ち上った。「私は横川三丁目の者です。避難先まで連てって下さい」と懇願される。気は急ぐがほって行けない。
焼けちぢれた髪が顔にたれ顔は真赤にふくれあがり胸はどろどろで両肩から皮がむけ指先から垂れ下っている。私達はその手を握った。ぬるっとした感触だ。
よろよろするその人を助けながら歩いた。
私達は女の人を町の指定避難場所で預け又走った。行く手は又左右両側の家が盛んに燃えている。迂回して山陽線の線路に上る。横川駅が見えて来た。横川駅に列車が停り機関車が蒸気をはいていた。駅前の電車通りに出る横川一丁目の停留所にたどり着いた。
しかし既に家は燃える炎の向だった。庭にある石灯籠が炎の間から見えかくれしている。馬が一頭たずなを電柱にかけたまゝしょんぼり立っている。馬の右半身が焼けただれている。馬主は吹きとばされたのか見当らない。
私達は町の指定避難場所へ走った。線路添いに引き返し鉄橋のたもとで近所の若い奥さんに会う。母親と弟が逃げるところを見たとのこと、まずは一安心する。
避難場所を探す内川岸の砂地で母親、弟、従姉妹四人を見付けた。母親は失神している弟を抱いている。母親、弟共右こめかみから出血が可成あったと思われる。従妹の一人は右大腿部を大きくえぐられ骨が見える。それでも気丈に鬼畜米英をやっつけると叫けんでいる。
山芋の芋蔓を屋根替りにかけてやる。一安心して気が付くとすぐ近くに中学生らしい姉妹が体のほとんどが焼けたゞれ妹が姉の頭を膝にのせ横にさせているがすでに虫の息である。妹が声をかけるが答えるのもつらそうである。せめてと思い芋蔓を屋根にし陽をさえぎってやる。
空は吹き上げる噴煙で真黒くなっていった。四時頃突然烈しい雨(大量の放射能を含んだ黒い雨)となった。芋蔓をかけてやって良かった。町は全て火の海と化して燃えている。
川向かうの竹薮から兵隊の声が聞える「隊長殿、自分は頑張ります」「目が見えなくなりました」「助けて下さい」「水を下さい」色々な声が聞えて来る。広島の五師団の兵隊が多く逃げて来たものと思われます。その内とぎれとぎれに天皇陛下万才の声が聞える様になりました。死んで行くのでせう。
横川駅附近からドラム缶が爆発し空へ舞い上っています。
夕立の暗さがそのまゝ夕暮れとなり夜となって行きました。
近くの練炭工場の練炭が真赤な火の山となって燃えています。雨でずぶ濡れになった服を友人と乾かしていると遠くの方から克隆やい、克隆やいと云う声が聞えて来ました。
祖父が生きて元気に帰って来ました。涙が出て仕方がありませんでした。
残りは祖母と伯母、従妹達です。西本君もお父さん(五師団の大尉)が燃える家に水をかけていた姿を見たとの情報を得ていた。
夜十一時頃祖父が五日市(広島より西十キロ)の親戚の人と大八車を曳いて帰って来た。
母親、弟、従妹を乗せ出発する。
近くにいた姉妹に頑張る様声をかける。何もしてやることが出来なかった腑甲斐無さに泣きながら別れる。
山手の道を大八を曳いて行く。足元から次々と「助けて下さい」「水を下さい」「助けて」の声が起きる。いつまでも声は続いた。
私達は申し訳けないと詫びながら急いだ。
己斐の町(広島西部)に入った入口で焚き出しの握り飯を貰う有難かった。
翌日朝四時頃親戚にたどりついた。
伯父、伯母、従姉妹は抱き合って無事を喜んだが従妹二人の消息は不明。祖母も不明のまゝ被爆二日目の朝を迎えた。
祖父は祖母の遺骨を叔母の家の床下の防空壕で収容して帰って来た。やはりだめだった。父親が岡山県井原の工場(被服廠の要請でミシン針を作り軍需工場へ供給)から夕刻帰って来ました。
翌日父親と近所に住んでいた叔父一家を探しに出た。横川の町は全て焼野原となり黒コゲの遺体がいたる所にころがっている。馬も死んでいた。叔母は台所で横たわっていたが下側は焼けていなかった。手をさし延した先に三才の女の子の遺骨を見つける。抱きしめたかったであろう、涙が出る。五才の男の子は工場事務所の隣の勝手口の中で半ズボンのボタンが四つ並び真中に遺骨があった。何かにはさまれ立ったまゝ焼死んだと思われ一人で恐かったであろう熱かったであろうと涙をさそう。叔母の遺体をトタン板に乗せ荼毘に付した。荼毘の煙が至る所から上っている。
死者を積んだ馬車が次々焼場へ向う。荷台に死体を間にこもを敷き四段に積み上げている。手を合せて見送る。
叔父は当日発見出来なかったが後日事務所の椅子の上で遺骨となっていた。
従妹の二人の内一人は発見されたが全身火傷で死亡、他の一人は近所の人の証言で商店街の氷屋の前から爆風でとばされて行くのを見たとの話が最後となる。
友人西本君は翌日父親を探しに出かけたまゝ消息不明となった。
今でも八月六日の一日は時間の経過ごとの情景は鮮明に記憶している。生涯忘れることはない。
二〇〇四年十月七日義兄と友人の見舞いに広島へ帰ったが二人共年末までに肝臓ガンと肺ガンで亡くなる。
原爆資料館に久し振りに行く。当時を偲び感慨無量であった。
今年は被爆六十周年で特別番組等で色々な人のそれぞれ言語に絶する苦難な六十年であったことを改めて知る。
私も被爆後一ヶ月放射能による下痢が続いたが幸い回復した。その後年代ごとに内臓や骨に異状が起き体調をくずしたが早期治療で何んとか病気と付き合って来た。しかし考へて見ると一日違いで六十年も長生きさせて貰った。有難いことだと思う。
残された老後の人生全ての人に感謝しながら穏やかに過ごして行きたいと思います。
平成十七年九月六日
祖父の証言 当時五十九才
その時食料倉庫にいました。突然青白い閃光が走り爆風で瞬間真暗くなり気を失いました。気が付くと俵の中でした。もがくこと一~二時間ようやくはいだしました。屋根壁は吹きとんでいました。太田川雁木に急ぎました。火をかいくぐりようやく川岸に出ました。すでに大勢の人が避難しています。火の手が近ずく度に人々は川岸から川の中へと逃げました。
船が四隻もやってあり人々は先を争って乗り込みました。一瞬に船は水びたしになってしまい人々は火傷や怪我で体力なく流される者、船にとり付いていた人達も力つきたのでせう次々と水の中へ消えて行きます。正にこの世の地獄です。私は船のロープを体に巻き船べりにしがみ付きました。火の手が延びる度水に潜りました。四~五時間の内に他の船は流れて行きました。
火勢がようやくおさまり岸に上ることが出来ました。太田川雁木で四~五百人の人が亡くなったと思います。
助かったのが不思議です。
母の証言 当時三十四才
その時私は子供部屋に四男と姪二人でいました。突然青白い閃光の後真黒くなり一瞬気を失いました。気が付くと子供達を探しました。三人無事でしたが一人は顔と手に火傷を負っていました。三人に動かないよう云って西側の押入にある非常袋を取りに行きました。襖は残っていましたが爆風が南から北へ吹き抜け北側の風呂場、台所と家具全てがなくなっていました。子供の所に帰ると火傷をした子が居なくなっています。必死で探しましたが見つかりません。その内近くの家から火が吹き上りました。仕方なく二人の子供を連れ家を出ました。まわりの殆どの家は倒れて居り近所のおばあさんが泣きさけんでいます。土壁の下に孫がいる助けて下さいと手を合せています。二人で何度も持ち上げましたがびくともしません。又近くの家から火の手が上りました。逃げ道がなくなります。おばあさんに手を合せて屋根の上を火を避けながら子供を背中と前で抱え逃げ出すことが出来ました。
家が倒れなかった為助かりました。
居なくなった子は横川橋の上で親戚の人に助けられました。
従姉の証言 当時十六才
私は二階で掃除をしていた。外で青白い光が走った直後猛烈な爆風で瞬間真暗くなり気が付くとうす暗い中に水道管らしきものが見えた。最初は全く自分の場所が判りませんでした。どうも床下に居る様うだと気付き先づ柱に挟まれた右足をはずすことに懸命でした。幸いはずすことが出来うす明りの方向へはい出しました。近くで叔父の助けを求める声がしています。何時間もがき苦しんだせうかようやく屋根の上に出ました。助かったと思うと涙が止りませんでした。
度々聞えていた叔父の声が聞えません。
何度も呼びましたが応答がありません。叔父も逃げたと思いました。すでに火は近くまで迫っています。屋根の上を必死で逃げました。よくガレキの下からはい出たと思います。
妻の証言 当時十二才
私は学童疎開で広島市より六〇キロ北にある山県郡原村の学校にいました。突然窓の外を光線が横切りました。何んだろうと皆んなでさわぎましたが原因は不明でした。翌日広島市が空襲でやられたらしいとの情報がありました。広島から叔母二人が迎えに来ました。
祖母は九日全身火傷で亡くなり母が危いとのことすぐ帰りましたが一日掛りました。
母は外傷はありませんでしたが放射能特有の病状で髪が抜け粘膜が全て侵されて行きます。毎日高熱が続き八月三十一日亡くなりました。父は昭和五十五年九月白血病で亡くなりました。生家は爆心より八〇〇米の榎町でした。
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