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(昭和20年)1945年8月~12月 
山口 茂(やまぐち しげる) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立廿日市工業学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は昭和6年(2才)から広島市(西区)東観音町2丁目の観舟橋(旧橋)西へ約40メートルの処に住んでいた。昭和20年4月に県立廿日市工業学校へ入学した。

通学には自宅(現:西区東観音町)から市電天満町電停まで徒歩約8分、市内電車で己斐まで行き、広電宮島線に乗り換え楽々園で下車して通っていた。

昭和19年には「戦争に夏休みはない」と学校も夏休みは無くなった。8月6日は前日の深夜から出ていた空襲警報が夜明け前に警戒警報に変わった。

いつもなら警戒警報が解除になってから家を出ていたが「どうせすぐ解除になるだろう」と解除前に登校した。

校庭で朝礼を済ませ新館二階(木造二階建て)にある教室に入る、私の席は教室の西側の窓際にあり観光道路(国道二号線)は目の下で、極楽寺山麓を走る山陽本線や広電宮島線もよく見え、校舎の東は校庭・畑・広島湾と続きよく晴れた日には江波の三菱造船所のクレーンも小さく見ることができた。

雑談をしながら先生を待っていたとき、突然右の頬が暖かく感じたのでその方を見ると広島の上空に太陽がもう一つ出たような白い光が一瞬見え、その光が消えたとき「キノコ」のような黒い雲に変わった。教室の皆は一斉に東側(広島方面)の廊下に走り出た。広島湾の上空にはところどころに薄い雲がかかっていたが、その雲が早い速度で近づき学校の上空に来たとき「ドーン」という音と振動、同時に開け忘れてあった窓ガラスが割れ、誰かが「退避」と叫ぶ、廊下に散ったガラスを踏みながら校舎を出て校庭の東南隅に掘ってある壕(長さ約3メートル幅1メートル深さ1メートル)に走る。しばらく壕にいたがその後は何も起こらず教室へ帰った。「何があったんかの?」「弾薬庫の爆発かの?」などと話をしていた。2時限くらい授業をしたと思うが先程のことが気にかかり勉強どころではなかった。

先生からは何も話が無く不安な気持ちで道路の方を見るが汽車も電車も通っていない。暫くして観光道路をトラックが多勢の人を乗せて広島方面から宮島口の方に走る、しかも乗っているのは軍人だけではない、怪我をした民間人らしい人も乗っている。「これは唯事ではない」と思った。

昼食後に先生から「広島が空襲された、広島市内の者は帰れ」と話があり帰宅することにする。楽々園の電停迄帰っても電車は動いていない、仕方なく広島まで歩くことにする。20キロくらいはあるだろうか、五日市迄帰ると広島方面からの人数がだんだん多くなり無傷の人は少ない。八幡橋近くまで帰ったとき、顔が血だらけになった近所のおばさんに出会う、おばさんは「茂ちゃんあんたの家の前に爆弾が落ちたらしいよ」と云ったので「父も母も駄目かもしれない」と覚悟を決めていた。

3時過ぎにやっと己斐の旭橋を渡り西大橋(放水路は未完成)に向かう、道端には多くの怪我人がうずくまっていたがその中から「茂さん、茂さん」と母(※1)らしい声がするが何処に居るのかわからない、あたりをよく見るとほんの2メートルほど先にボロボロの雨カッパを着た母がいた。母は私が学校へ出た後二階で仮眠中に被爆し爆風で潰れた屋根や壁の下敷きになり頭や腕、背中に傷を負っていた。顔は血と埃で薄黒く汚れ途中で落ちていた合羽を着たのだそうだ。

私は「家に帰ってみる」と母に言って西大橋を渡り県立二中(現在の観音小学校)の正門近くまで帰ったが、(原爆投下から約7時間、爆心から約1.8キロメートルの処)校舎や付近の民家から火の手が上がっており誰一人として火を消す者もおらず燃え放題だった。これ以上進むと火に囲まれると思い帰るのを断念して母のいる処へ引き返す。しばらくして父(※2)が逃げてきたが怪我もヤケドもしていなかった。父は被爆当時一階に居たが一階は潰れなかったそうだ。

母が下敷きになっているとき隣(大家)の綿平のおじいさんの声らしい「助けてくれ」と言う声が聞こえたが自分が這い出ることが精一杯でどうにもならなかったそうだ。(綿平家はお爺さんとお婆さん孫の照彦さんが死亡)

父母や近所の人と己斐方面へ逃げる途中、私と同じ年くらいの学生が全身にヤケドを負い帽子だけのすっ裸のまま歩いて行く、帽子の校章を見ると県立一中(現在の国泰寺高校)の生徒だった。肩から背中・両腕にかけてまるで水に濡れた半紙をひっつけたように皮膚がぶら下がっていた、たぶん建物疎開作業に動員されていたのだろう。

また、30才前後の女性は太さが3センチ、長さ15センチ程の障子の桟のような木を目にたてたまま己斐方面に歩いて行った。

道路には怪我やヤケドのため力尽きて座り込む人、血だらけになって肉親を捜す人、着ているシャツはぼろぼろに破れたり焼け、血と雨が乾いてどす黒くなりさながら地獄絵を見るようだった。

当時父は隣組の組長をしていたので逃れてきた近所の人たちとひとまず草津町の山麓にある海蔵寺の本堂横の林の中で野宿をすることにした。夕食には握り飯1ヶと小さなミカンの缶詰1ヶだった。「それ以来今でもミカンの缶詰を食べると当時の夕食を思い出してならない。」

夕食後まだ明るかったので近くの草津国民学校へ行ってみると重症者が講堂(体育館)に入れきれず運動場にもたくさん寝かされており、「水をくれ」「痛い痛い」と呻き辺りはヤケドに塗った油の臭いが充満していた。座り込んでいた人の中から「山口君」「山口君」と私を呼ぶ声がした、見ると同じ隣組の田頭さんだったがヤケドで人相が変わりすぐには判らなかった。「うちの家内を知らないか?」と問われたので「僕らと一緒ですから」と寺に登る石段を肩を貸して登る。

田頭さんは一人で登る力はもう無かったようだ。(田頭さんは翌々日亡くなったと聞く)私の家の前に住んでいた上月の文子ちゃん(観音国民学校1年生)は学童疎開に行かなかったので学校で被爆し全身にヤケドを負い、うわ言で学校で習った唱歌を何度も何度も一晩中歌っていたが翌7日空がかすかに白みかけた頃突然その歌声が止み、母親に抱かれて私の横で息を引き取った。

炊き出しの朝食を済ませた後また学校へ行ってみるとあれだけ多く寝かされていた怪我人が3分の1くらいに減っていた、おそらく我が家に帰ることも出来ず亡くなったのだろう。

父や母は野宿した人たちと、かねてから決められていた避難先の佐伯郡地御村(現廿日市市地御前)の地御前神社に行く。私は廿日市に住んでいた同級生の高田君の家に2日ほど泊めてもらいその後は父母と一緒に神社の拝殿で2~3泊し父の勤め先の寮(地御前村)に落ち着く。

その寮は海岸から200メートル程の処で、時折広島市内の川に逃れて死んだであろう遺体が流れ着くことがあり、遺体が見え始める前から凄い臭いがして「あっ、また遺体が流れて来たな」とすぐに判る、その度に身内を捜す人であろうか胸まで海水に浸かりながら傍に寄り遺体を確認する人の姿をよく見かけた。

父も母も体一つで命からがら逃げたので何一つ持ち出す事ができなかった。私も6日の時間割の教科書以外は失った、兄(※3)から貰った2冊の百科事典等も焼け以後は苦労した。それからの生活は惨めを絵に描いたような暮らしだった。布団、鍋、釜から箸調味料にいたるまで全部借り物や貰い物ばかり、米はかろうじて配給があったが玄米のため近所の農家で石臼を借りて搗き、副食は母が毎日海岸に行ってアサリ貝を掘って来たが、8月から12月下旬までテーブル代わりの木箱の台上に出ていない日はなかった。8月一杯は学校を休む。15日正午から重大放送があると聞いた。隣室の住人のラジオがかすかに聞こえたがはっきり判らず、夕方になって「日本は負けた」と聞いた。

思えば勉強を割いてまで強制的に軍隊に協力させられ、食料や衣料を制限され、一発の新型爆弾によってたった一人の兄と家財の一切を失う。

終戦後我が家の跡に行く。市内電車は己斐から天満町まで2~3両が往復していた。天満川に架かる鉄橋は枕木がほうぼう焼けて穴が開き電車は通れなかったので己斐から天満町で折り返し、紙屋町方面からは小網町迄で天満橋を徒歩で渡るといった不便さだった。

焼け跡に行き辺りを掘り返して見たが何一つ使える物は無く、風呂釜はとっくに盗まれていた。昼は近くにあった缶詰を作っていた軍需工場の焼け跡で破裂していない牛肉の缶詰を探して食べ、消火栓から漏れ出ている水道の水を呑んで昼食代わりにした。父は堺町にあった製氷工場の焼け跡で塩を石油缶に詰めて帰りそれを農家に持って行き僅かな野菜や漬物と交換したが疎開してあった僅かな荷物を取りに行く時も塩は貴重な交換品だった。

広い道路に散った瓦などは整理されていた。被爆から10日以上たっていたが身内の人であろうかあちこちで遺体を焼く姿をたくさん見かけた。父はみんながしているように「あれでも兄が生きていて私たちを捜すのでは」と焼け残った風呂場のセメントの壁に避難場所の住所を書いた。

ある日父母と3人で兄の消息を探すため部隊の連絡所があった二葉の里に行くため己斐から歩いて行ったが、途中相生橋の西詰では被爆前材木店があった家の地下(法下)に十数体の白骨が並んでいた。相生橋の欄干の上流側は川の中に落ち下流側は歩道に倒れその歩道はところどころ20~30センチも盛り上がっていた。爆風が水面から反射して橋の下から歩道を押し上げたのだろう。

骨組みだけになった電車は道路のわきに寄せられている。ハエの発生は物凄く歩く時もしょっちゅう手で顔や腕にとまらないようにした。

二葉の里に着いて部隊の連絡所で兄の安否を尋ねたところ、たまたま兄を知っている人が居て聞いてみると「山口軍曹はあの時間は事務所におられたので恐らく駄目でしょう」と絶望的な返事でそれを聞き母はその場に泣き崩れた。

その当時の地御前には上水道は無く寮には共同の手押しポンプがあるだけで、銭湯が無いのでポンプの水で体を拭く、月に一度は廿日市の銭湯へ行ったが、そのたびに帰ってから「シラミ」退治が大変だった。(この時初めてシラミを知った)家にはラジオも新聞も無いので明日の天気、2日先の天気など判りようがない9月17日枕崎台風が来襲した前日に両親と私は僅かばかりの家財を預けてあった安佐郡伴村(現安佐南区沼田町)のN氏宅に受け取りに行ったが、帰る頃になって風雨が強くなり帰られなくなったので一晩泊めてもらい荷物は後日取りに行くことにし、風雨が少し弱くなった夕方帰ることにして己斐峠を目指す。途中石内で己斐と古田との分かれ道に着いたところ増水のため橋が流され己斐側に渡ることが出来ず仕方なく宮島線の古江電停に向かう、全身ずぶ濡れになりながらやっと電停に着いたがなかなか電車が来ない。やっと来たが車掌が「廿日市までは行くがそれから先は廿日市に着いてみないと宮島口まで行くかどうか判らない」と云う。幸いにも宮島口まで運行した。部屋に帰ると寮の屋根は漏るし雨戸は無く障子は穴だらけでまるで鳥篭の中に居るように風が吹き抜ける。3人は八畳の部屋でばらばらに散って寝た。

後日父と2人で大八車を借り地御前から五日市―八幡―石内―伴へと行き預けてあった荷物を積んで来た道を帰る。しかし、15才の体にはこたえた。八幡(現佐伯区八幡)まで帰ったときは足がふらついてまっすぐ車を引っ張ることが出来なかった。距離は20キロくらいあっただろうか。

その後父は広島市内に就職して20年12月まで一人で宿舎に寝泊りして週末には帰って来た。その年の12月30日に5ヶ月ぶりに市内元宇品町に転居してやっと悲惨な間借り生活に別れを告げた。     
                                                               山口 茂


※1 母 山口トシヨ(明治33年6月12日~昭和45年2月18日)

8月6日は二階の六畳間で仮眠中に被爆し、屋根の下敷きになる。二階の天井は剝いであったが、頭・肩から背中・腕などに壁の木舞竹が刺さり、それを一本一本折って這い出る。その時枕元に現金や貴重品を入れた非常持ち出し袋を置いていたが、這い出ることが精一杯で何一つ持ち出すことはできなかったそうである。(二階にいたのに家から出たときはすぐに路面だったそうで、かなりの時間がたっていたのかその間に一階が潰れたのかもしれない。何度聞いても二階から飛び降りた記憶はないようである。)

かねてから避難所に指定されていた佐伯郡地御前村の地御前神社に向かうべく己斐方面に逃げる途中に大雨にあい、落ちていたゴムびきのカッパを拾い、それを着て西大橋と旭橋の中間の路上で近所の人と一緒に座り込んでいるときに、廿日市から徒歩で帰った私と出会う。


※2 父 山口 喜助(明治21年9月24日~昭和39年2月27日)

8月4日建物疎開作業中に右手に打撲傷を負い、6日には勤めを休んで自宅一階で被爆。一階は潰れなかったので、家の裏から4軒ほど東にあった西高等女学校の校庭を通り、観音本町から西大橋へ避難する途中放置してあった自転車を拾い、福島町で母や私と会う。


※3 兄 山口 政道(大正11年1月24日~昭和20年8月6日)

広島市基町広島城東南にあった第11連隊第5師団第2部隊所属、陸軍軍曹で当時は部隊の炊事班長、兄を知る人の話によると、「あの時間は班の事務所にいた頃で、おそらく建物の下敷きになったのではないか」ということで遺骨、遺品ともにない。
  

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