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昭和20年8月6日の5歳児の記憶 
藤田 義臣(ふじた よしおみ) 
性別 男性  被爆時年齢 5歳 
被爆地(被爆区分)   執筆年 2025年 
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は昭和19年から広島県佐伯郡石内村湯戸に住んでいましたが、昭和29年12月父の勤務の関係で村立三和中学から2年2学期末に兵庫県姫路市立廣峯中学校へ転校して姫路市に住んで以来、自分の転勤で損害保険会社東京本社から広島支店に昭和56年から59年の3年間勤務し広島市西区庚午北に居住した以外ほとんど広島にはいませんでした。
首都圏の勤務がほとんどで現在居住の船橋市には通算55年間住んでいます。
今まで原爆体験は思い出すのが辛く話すことは殆どありませんでした。

昨年3月腰椎の圧迫骨折で入院手術を受け「介護保険の要介護1」に認定されました。
その際被爆者健康手帳の話題が出て、昭和53年5月に「第1種健康診断受診者証」を交付されていたことを思い出し(1度も使用したこと無し)、令和6年11月「被爆者健康手帳」の交付申請し、令和7年2月に認可され3月から使用できるようになりました。
手帳の交付時に送付されてきた「冊子・まきの木」(千葉県)の中に原爆死没者追悼平和祈念館に被爆体験記が掲載・保管されている記事を知り今まで避けていた原爆被爆の記憶を思い起こし体験記として残す事で何かのお役に立てるのではないかと思いました。
私も今年の5月に誕生日を迎えると85歳になりますので、まだ気力があり割と記憶が明確である今しかないと思い、重い腰を上げパソコンに向かっています。
 
*被爆時に居住していた場所
「広島県佐伯郡石内村字湯戸」
爆心地から直線距離10㎞ 広島市の西部・広島市との間には己斐峠や山田地区を擁する山があり、南の五日市港から八幡川を遡り石内川と分岐する沿岸から4~5kmの地区です。湯戸地区は石内村の最南端で隣村の八幡村利松に隣接しています。集落は数十戸、稲作の農家が大半で林業や広島市の会社・工場や公共機関に勤務する人もいました。
広島市への交通ルートは国鉄と広島電鉄宮島線の五日市駅まで自転車(20分)や徒歩(1時間)で行き己斐駅で市内電車やバスに乗り換えるか、国鉄で横川や広島駅方面へのルート。
もう一つは石内村北東部の五月が丘から己斐峠を越え徒歩(約2時間)か自転車(時間は?)で己斐駅へ向かうルートがありました。
私の父が通学で広島第2中学に通っていた大正時代から昭和初期は太田川を「渡し船」で観音町の学校に通っていたそうです。
 
*藤田家の状況
母から聞いた話によると、私は昭和15年5月愛知県豊橋市で父義喜・母幸恵の長男として誕生し、その後父の転勤に伴い千葉県四街道町(現在は四街道市)・再び豊橋市(昭和17年10月弟誕生)・福岡県小倉市北方、昭和19年父の東京転勤の際 母・私・弟の3人は父の実家である石内村に転居し父は東京へ単身赴任したとのことでした。
父は陸軍軍人(砲兵)で、当時千葉方面の任務に就いていたそうです。 

当時の藤田家には沢山の人が住んでおり、私たち3人、父方の祖父母、叔母・従弟(2歳)、被爆の2週間前母の実家・広島市南区皆実町から疎開して離れで暮らしていた母方の祖母、女学生の叔母2名、義理の叔母等11名でした。
動物もたくさん飼っており農耕用の牛・馬・食料補給用の山羊2匹(ミルク)・ウサギ数匹・ニワトリ20数羽(卵と食用)ほかに犬と猫がおり餌をやるのも大仕事でした。 
藤田家は主に米や麦を6反くらいの田んぼで作っており祖父母が担当、父方の叔母が畑の担当でサツマイモやジャガイモ、野菜(広島菜・白菜・大根・人参・里いも・きゅうり・ナス・ちしゃ・ほうれん草・大豆・さやまめ・えんどう豆等)果物(甜瓜・スイカ・柿・イチジク・ザクロ・グミ・琵琶等)をつくっており、母が家の中の家事一切を受け持っていました。

5歳の私にも担当があり朝起きたら1番に井戸水を汲み、台所の土間にあった水瓶と樽を満タンにすることの手伝い。(井戸水汲みは縄の両端に木桶が括り付けてあり滑車を使い手で縄を引っ張り井戸水の入った木桶を上げる方法)
台所と井戸が離れていたためバケツで井戸水を運ぶのが幼児の私は結構重労働に感じていました。ニワトリの卵を採取し餌を与え、運動と餌拾いのため小屋から出し庭で遊ぶのを監視し時間が来たら小屋に入れることでした。ウサギの餌やりも担当でした。
 
*8月6日の状況
藤田家の朝食は朝7時頃に皆でそろって食し、終わり次第各自がその日の仕事の準備にかかる習慣がありました。私も鶏の世話を8時頃には終わり庭で叔母たちと立ち話をしていたようです。当日は快晴で空を見上げると日差しが強く太陽がまぶしく目が明けていられないくらいでした。

突然東の山の上の空が「ピカッツとひかりドカンという大きな音」と共に突風が吹いてきて家の中の障子や襖がバタバタと一瞬に全て倒れました。
{広島では原子爆弾のことを「ピカドン」と呼んでいました}
飼っていた動物も騒がしく鳴いていました。
何か起こったのかさっぱりわからず側にいた叔母に抱きかかえられ「押し入れ」に飛び込み布団をかぶりしばらくじっとしていました。

どのくらいの時間が経過したのか思い出せませんが周りが静かになったので恐る恐る「押し入れ」から出て周りを見れば、天井板が上に押し上げられいびつな形になっており部屋中の物が散乱していました。

祖父が牛小屋の前から大きな声で「皆来てみんさい!」と呼ぶので土蔵の前に行くと15cm以上ある蔵の扉が倒れており一体何が起こったのか解らず皆不安を口にしていました。
庭に出てみると東の空が赤銅色にどんより曇っていました。
少し経つと空から何か「ひらひらと白いもの」が降ってきましたので拾い集めてみると新聞紙や書類のようなものや紙切れが焼け焦げたものでした。
母から何かわからない物には触るなと叱られました。
あの時空から「きらきら光る白いものがひらひら」と落ちてきた光景は今でも思い出せます。
暫くすると(30分から1時間の間か?)冷たい風と共に激しい雨が降ってきました。
私は身体が汗ばみ暑苦しかったためか庭に飛び出し激しく降り注ぐ雨に当たっていました。
すると着ていたポッキリ(ランニングシャツ)が黒くなっていました。
母か叔母が驚いて井戸端で私を裸にして頭から井戸水を何度もかけて洗ってくれました。それがのちに言う「黒い雨」です。

午前10時過ぎたころから我が家の裏の県道をぞろぞろとぼろ切れのような衣服を纏い頭や顔・手足に怪我を負った人達が広島市方面から五日市町方向に通って行かれます。
その数がだんだん増えてゆき我が家にも「水を飲ませてください」とか「疲れたので少し休ませてください」と立ち寄られた人が多くおられました。
母と叔母が中心に家族全員で応対にあたりました。私は井戸の水くみが主な仕事でした。
その人達の情報で今広島市内で何が起こっているのか徐々にわかってきました。 
広島市内は何かわからない熱光線と激しい爆風で殆どの建物が崩壊し街が瓦礫に化し、あちこちで火の手が上がり直接被爆した人々は殆ど即死 生き残った人は水を求め川にたどり着き息絶えた人で死骸の山ができているとの事でした。
我が家で応対した多くの人達は宮島の対岸大野町の方で、8月6日が広島市内の建物や道路の整理する当番にあたっていたとの事でした。

翌日から母、祖父、叔母は肉親・親戚・知人の捜索や安否確認のため広島市内に出かけました。母の兄は歯科医でしたが応召で陸軍広島師団の本部にいたため即死だったそうです。
母の皆実町の実家に一時住んでいた人も死亡されたそうです。
広島市内の学校に通っていた父の従妹は数日後見つかりましたが背中全体ケロイド痕が残り白血病に悩まされました。

後に叔母から聞いた話によると、原爆投下の直後から被爆され怪我をされた人や行き場所のない人が石内小学校に収容されており介助のため婦人会で怪我人の傷の手当てのため大量のジャガイモをすりおろして傷の上に張り付けて治療したそうです。(解熱のためか?)
5歳児であった私はその後小学校に入学するまで当地で暮らしていましたが、8月6日の記憶以外は全く思い出せなく思い出せるのは小学校に通っていたころからの記憶です。いかに強く原爆の記憶が心に刻まれていたか今回久しぶりに文字にしてみて初めて気づかされました。
 
*その後の広島での生活
昭和22年4月石内小学校に入学し6年間の小学生生活・昭和28年4月に石内・八幡・河内の3か村で設立した三和中学校に入学し2年生の2学期末まで当地で過ごしました。
広島の小・中学生時代は勉強・運動・遊び等何事にも全力で取り組む優等生でガキ大将でした。

小学生時代、情報はラジオ・大人との会話・高学年になってからは「中国新聞」から得るものが大半で、娯楽の映画や音楽・美術鑑賞・スポーツ等のイベントは殆ど広島市内で開催されていましたので学校から学年ごと団体で己斐峠を徒歩で越え参加・観覧していました。
昭和・平成を代表する故新藤兼人映画監督・脚本家は石内小学校出身の大先輩であり、氏の制作・監督された映画「原爆の子」には大変感銘を受けると供に恐怖を感じたこと覚えています。

なお私の父は石内尋常小学校で新藤兼人氏の1年後輩でした。
父は終戦直後東京で軍の残務整理を終え昭和20年9月末に広島の実家に帰ってきました。  
軍人(終戦時は陸軍少佐)であった為戦後数年間は公職追放にあい、慣れない農業と製材事務所や村の青年団のお世話等をしていました。公職追放が解け村の教育委員長に選出され、広島県佐伯郡教育委員会の役職にもついていたそうです。
戦後10年近く少年時代を被爆地広島で過ごした私は、肉親に死亡された人・ケロイドの傷痕に悩まされた人・白血病のため入退院を繰り返された人等沢山見てきました。
原爆の恐ろしさや後々までも影響が残る怖さを身をもって感じています。
私事になりますが33歳の時難病の「潰瘍性大腸炎」に罹り治療のため6回入院し50歳まで通院していました。40歳からは糖尿病を発症し今まで19回入院、現在はインシュリン注射を1日4回打ち月に1度東京の病院に通院しています。
私には弟・妹2人がいますが幸いに全員後期高齢者の仲間入りし住まいは全国各地に離れていますが、肉親や地域の人たちの手助けを得て無事(通院しながら)暮らしています。
原子爆弾等の核兵器は人類・地球を滅亡させるものだと確信しています。
核兵器製造も保持もまして使用など論外だと思います。
戦争のない平和な世界の実現を祈念いたします。
                                                                                                                                                                                                                                                 以上
           令和7年4月10日 

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