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一発の爆弾がもたらした恐怖 
前田 又三郎(まえだ またさぶろう) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2024年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島高等師範学校附属中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
父・常次郎(つねじろう)と母・ヨシ、長姉・和子(かずこ)と次姉・朋子(ともこ)、長男の私と、妹・満子(みつこ)の6人家族でした。小さい頃は幟町に住んでいて、東練兵場の裏にトンボが飛んでいたので、釣り竿のような棒に、チューインガムのような粘着力のあるものをつけてよくトンボ採りをして遊んでいました。夢中になってずっと上を向いて走っているので、練兵場の沢山掘られた塹壕によく落ちていました。また、当時の産業奨励館には、虫取り道具が豊富に揃っており、2~3か月に1回は訪ねてトンボ採りに使う道具を買っていました。トンボ採りの他にも、広島駅近くにあった操車場に行き、展望車を見るために柵をよじ登り一生懸命のぞいていました。とても懐かしい思い出です。
 
父は広島県製薬株式会社の社長をしており、会社の組織変更に伴って、私が幟町国民学校2年生の時に大手町七丁目に引っ越しました。万代(よろず)橋の近くにあり、平屋建ての大きな家でした。引っ越してからは、長姉・和子(かずこ)は広島市立第一高等女学校、私と他のきょうだいは広島高等師範学校附属国民学校に通いました。附属国民学校は国立の学校ということもあり、裕福な学校であったと思います。教室にはヒーターが設置されていて、その上に弁当を置いて温める子もいました。
 
戦争が始まると、夜は家の電球全てに黒い布をかぶせて外に明かりが漏れないようにしました。また、艦載機(かんさいき)と戦闘機(せんとうき)が攻撃しあうついでに広島へ爆弾を落としていくのです。我が家から数百メートル離れた場所に1発落ちたことがあり、爆弾が落ちた場所に住んでいたおばあちゃんが亡くなったことを覚えています。この他にも機関銃を我が家に目がけて撃たれて、慌てて防空壕に逃げたこともありました。
 
昭和20年4月に、広島高等師範学校附属中学校の特別科学学級に進学しました。この「特別科学学級」というのは、国が第二のアインシュタインを生み出そうという考えの下、優秀な子どもを集めた学級です。私は成績が良かったこともあって、選ばれて進学しました。
 
科学学級では、1クラス14~15人で、物理や生物といった理系の科目を中心に学んでいました。カリキュラムは存在したと思うのですが、実際はほとんど授業ができていない状態でした。正規学級の生徒は軍需工場などに動員させられましたが、科学学級の生徒は学徒動員が免除され、原爆投下の約1か月前の7月に、比婆(ひば)郡東城(とうじょう)町(現在の庄原市)に疎開することになりました。疎開する朝、母が広島駅で見送りしてくれたことを覚えています。
 
東城町では、幼稚園を借りて生活していました。机といすは中学生の体格からすると小さく使い辛かったです。勉強を続けるための疎開だったはずですが、あまり勉強はしなかったと思います。また田舎ということもあって、食糧に不自由することはありませんでした。
 
●原爆投下、そして広島市内へ
8月6日も東城町にいました。原爆の閃光、音は届かず、きのこ雲も見えなかったため、原爆が落ちたことに気が付きませんでした。しかし、時間が経つにつれ怪我を負った人たちが次々と町にやって来て「広島に大きな爆弾が落ちた」という噂が立ち始めました。
 
その後、8月15日に玉音放送を聞きました。戦争に負けたとラジオから聞こえてきた途端、皆へなへなと座り込みました。東城町にいる理由も無くなりましたので、翌日あたりには列車で広島に帰ったと思います。東城町から双三(ふたみ)郡三次町(現在の三次市)を経る芸備線に、疎開していた教師と生徒全員が乗ったので、車両は貸し切り状態でした。
 
5~6時間かけてようやく広島駅に到着しました。原爆投下から1週間以上経っていたにも関わらず、広島駅は荒れ果てており、別の駅になったかのようでした。駅から出てみると、瀬戸内海が見えるほど辺り一面何もなく、また凄いにおいでした。その後、各自自宅に戻ることになり、ここで友達と別れました。当時、私はよく護国神社にお参りに行っていたので、まずは神社の鳥居を目指して歩くことにしました。護国神社から南に向かって、電車通りから1本隣の道を歩いたのですが、倒壊した建物ばかりで、現在のアンデルセン辺りには黒焦げで体が膨らんだ馬の死体が立っていました。
 
やっと自宅に着くと、あったはずの家は無くなっていました。家族は自宅の裏庭に造った防空壕にいると思いましたが、そこにもいませんでした。これからどうしたらいいのか困っている時、ふと「親戚の家に避難したのかもしれない」という考えが頭に浮かびました。母の実家が厳島町(現在の廿日市市宮島町)にある旅館の岩惣(いわそう)だったので、母の実家に行くことにしました。
 
●家族の捜索、別れ
自宅から己斐(こい)駅までは、路面電車に乗ったり歩いたりして向かいました。電車に車掌さんがいたのか覚えていませんが、屋根が灰で真っ黒になっていたことは記憶に残っています。己斐駅からは宮島線の電車に乗り、その後船に乗せてもらい厳島に行きました。
 
岩惣に到着して裏木戸から中に入ると、祖母が泣きながら出てきました。そして「かわいそうに」と言って私を抱き締めました。その瞬間「母は死んだ」と直感しました。母の死を感じた途端、腰が抜けてしまいました。当時は悲しさよりもショックの方が強く、胸が痛くなりました。母の死を聞き、このまま祖母のところにいても仕方がないので、岩惣を出ました。次の目的地を考えた時、長姉の和子から友達が己斐に住んでいる話を聞いたことを思い出しました。姉は結婚して片山(かたやま)姓になり、実家を出ていました。夫は陸軍兵で鳥取県に赴任中だったので、姉は広島県庁付近の自宅に一人で暮らしていました。姉の友達なら姉の行方を知っているかもしれないと思い、その友達の家を目指しました。
 
同日、姉の友達の家に着きました。家は少し傾くくらいで、壊れていませんでした。姉の友達によると、姉は在宅中または家の近くで被爆して、夫の実家がある安佐郡八木村(現在の安佐南区)へ避難したというのです。また、姉が妊娠していたことも教えてもらいました。この日は時間も遅かったので一泊させてもらい、翌日八木村に向かいました。そしてついに姉と再会することが出来たのです。しかし、姉は瀕死の状態で、布団にくるまっていました。姉のそばに寄ると、姉は私の手を握り「〇〇に連れていかれる、助けて」と、どこかに連れていかれると言いながら亡くなりました。お腹の赤ちゃんも死産でした。亡くなって産まれた赤ちゃんは、姉の夫とそっくりな顔をしていて、それがとても印象深かったです。
 
●家族の被爆状況
八木村には父と妹も避難していました。二人がいつからいたのかは分かりませんが、二人とも体中に斑点が出ており、元気もなくげっそりと憔悴しきった様子でした。この時に原爆が落ちた瞬間の自宅の様子を聞くことができました。
 
あの日、自宅では父、母、次姉の朋子(ともこ)、妹の4人で朝食中でした。原爆によって家の屋根が崩落し、母と姉はそれに巻き込まれたのです。隣同士で座っていた父と妹は、背後にあった茶箪笥と屋根との間に空間が生まれたお陰で無事でした。家の近くで火が燃え始めたので、父は必死に崩落した屋根に穴を開けて、妹を抱えやっとの思いで脱出しました。妹を裏庭の防空壕に入れると、父は母と姉を助け出そうと家に引き返しましたが、既に家は火の海で、二人を助け出すことはできなかったそうです。被爆死を免れた父と妹も、その後の人生は原爆症で苦しむ毎日でした。
 
●造賀(ぞうか)村での生活、父の死
枕崎台風が広島を襲った時はまだ八木村に滞在しており、近所の高台にある公民館の2階に避難したのを覚えています。台風が過ぎ、私たち家族は賀茂郡造賀村(現在の東広島市高屋町)に行くことにしました。当時の造賀村の村長が父の義弟だったので、それを頼ることにしたのです。荷物を全て積んだ自転車を父が、妹を乗せた自転車を私が押して、八本松駅まで歩き始めました。途中、八本松駅の隣駅の瀬野駅に寄ることになりました。その時は、何故寄り道するのか分かりませんでしたが、瀬野駅に着くと父の義弟が待っていました。そこからは父の義弟も加わり、4人で八本松駅を目指しました。ここからの道のりはとても大変でした。瀬野駅からは元鉄橋の枕木の上を通って歩くのですが、瀬野駅と八本松駅の間には急勾配の坂があることで有名です。その坂も自転車を引きずりながら登っていきました。そしてなんとか八本松駅にたどり着きました。駅からは木炭バスという、炭火を焼いてガスを発生させエンジンをかけるバスが出ていたので、それに乗り造賀村へ行きました。
 
造賀村での生活は長かったと思います。私は造賀村で暮らし始めてからも、附属中学校に通いました。西高屋駅まで自転車で山を下り、駅からは列車で広島駅に行くという通学経路でした。当時の自転車は今のタイヤと違いガタガタしていて、漕ぐのも一苦労です。通学に片道1時間以上かかりますが、当時はこれが当たり前だと思っていました。
 
附属中学校卒業後は、そのまま附属高等学校に進学しました。私はデザイナーになりたかったので、大学は東京藝術大学を受験することにしました。しかし入試初日、東京の学校宛に、家族から「父が亡くなったからすぐに帰ってこい」という電報が届きました。父は被爆してからずっと原爆症で苦しみ、闘病生活を続けていましたが、昭和27年3月8日に54歳でこの世を去りました。私は、父が亡くなったことで東京藝大を諦め、広島大学工学部に進学しました。
 
●その後の人生
戦後、私には「トルーマンをやっつけてやる」という思いがあり、それがアメリカに行きたい動機でした。しかし、進駐軍の乗っている車を見て気持ちが大きく変わりました。彼らの乗っている車は、それはもう素晴らしいものでした。車を目の前で見せてもらった時には、アメリカのすごさを見せつけられたように感じたのです。この出来事がきっかけで、アメリカに行きたい理由が「アメリカで勉強したい」になりました。
 
私が大学を卒業する頃、日本は就職難の時代でした。現在のマツダに入りたかったのですが、新卒では入社することが出来ず、まずは熊平製作所という会社に入社し、数年後マツダに転職しました。当時の日本では自動車のデザインについて学べる場所がありませんでしたので、転職後すぐに留学試験を受けて合格し、昭和39年、アメリカに留学しました。2年間の留学でニューヨークとロサンゼルスに滞在しました。
 
マツダでデザイナーとして働き、退職後は『GKデザイン総研広島』というデザイン会社を設立しました。この会社でアストラムラインの車両、駅舎のデザインに携わりました。これが私の最後の作品となりました。幼いころから動く物に興味を持ち、操車場で展望車を見るため柵をよじ登っていた子どもが、自動車、電車のデザインに関わる人生を送ることとなりました。
 
昭和32年に結婚し、息子と娘が生まれました。今では孫もひ孫もいます。息子は私と同じ道を歩み、カーデザイナーとして活躍しています。
 
●平和への思い
少年時代、学校に科学学級をつくるという話が出たとき、私は「これはすごいことになる、日本も平和に貢献するだろう」と思い科学学級のすばらしさを夢見ました。しかし、これは大きな間違いでした。
 
原爆投下後の広島市内に入った直後は、原爆症と思われる体調不良は起きませんでした。しかし加齢を重ねて、弁膜症、心筋梗塞、脳卒中など大病を患いました。これらの病気が、被爆が原因なのかは分かりません。一方、直接被爆の妹は、被爆直後から体に斑点が出て、髪の毛も抜けて坊主頭になりました。そのせいで妹は少女時代一度も笑顔を見せたことはありません。妹は62歳で亡くなるまでずっと原爆症の恐怖に追われていたと思います。可哀想でなりません。
 
当時は放射能が体にどういう影響を与えるかなど知りもしませんでした。放射能の怖さが知られる時代になったはずなのに、世界は再び核兵器が使われるのではないかという状態です。核兵器を使おうとしている人たちに「もう使うのはやめておけ」と言いたいです。
 
  

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