被爆者 高塚(旧姓:吉田)妙子
昭和4年生(現在93歳、被爆時16歳)
現在広島県呉市在住 女性
被爆の場所は広島市三篠本町で爆心地から2.0キロメートル
〇私の家族構成
父(明治36年生まれ、当時42歳)
母(明治40年生まれ、当時38歳)
私=長女(昭和4年生まれ、当時16歳)
弟=長男(昭和8年生まれ、当時12歳)
⇒8月6日当時は賀茂郡造賀村(現東広島市)に学童疎開中
妹=次女(昭和11年生まれ、当時9歳)
弟=次男(昭和16年生まれ、当時4歳)
弟=三男(昭和18年生まれ、当時2歳)
〇8月6日までの状況
家族とともに建物疎開のため、一時的に呉市蔵本通りに住んでいたが、呉市や海軍工廠の空襲により、多くの知人を失った。この時の焼夷弾の匂い、衝撃は忘れられない。住んでいた家も失い呉を離れることになった。父は軍の関係上、呉に残り、母、妹、弟達五人で広島市三篠の親戚を(母の兄)頼り身を寄せた。だが次第に居づらくなったことからまた引っ越すことになり、その引っ越し先は横川駅に近い小田種苗店の近くの借家であった。
〇8月6日
呉市の空襲以降学校に通えていなかった妹の転入手続きのために、病気がちの母に代わって8月6日の朝、借家から妹と二人で三篠国民学校に徒歩で向かっていた。三篠国民学校の塀から道路を挟んだ向かい側にはたくさんの住宅があり、その日は天気もよく、ちょうど出勤時間帯であったことから横川駅に向かうたくさんの人が行列をなしていた。
そして、もう少しで校門というところでピカドンが落ちた。落ちた瞬間の光、音は大変すさまじいものであり、太陽が落ちてきたのだと思った。気が付くと体が動かない。住宅の下敷きになっていた。大きな声で助けを呼んだところ、近所の女の人が自分の子供が下敷きになっていると思って助け出してくれた。するとそこはさっきまで天気がよかったのに景色は一変し紫色のような暗闇であった。私達は国民学校の塀側を歩いていたはずが、助け出され気付いた時には国民学校の塀から道路を挟んだ向かい側の住宅側に飛ばされて下敷きになっていたようだった。
茫然と変わり果てた街並みを見渡していたところ、妹がいない。さっきまで隣にいたのに妹がいない。すると妹の声が遠くから聞こえ駆け寄ってきた。その姿は頭から白いブラウスに掛けて手でほこりを払いのけるほどに汚れ、首の後ろにはやけどを負い、紺色のモンペがわかめのようになり、靴はなく裸足で右足甲の内側親指からかかとにかけてやけどを負っていた。私は、顔全体がはれあがり目は細くなって目が開けづらく、唇はたらこ唇のようになってしまっていた。周りの状況はというと、先ほどまでの横川駅に向かう人の行列はなく、建物の姿形は全てなくなっていた。少し離れた防空壕の上に人が一人立っており、服も髪もバサバサでまるで幽霊のようだったことがすごく印象に残っている。
何かあり罹災したら、安村(現在の安佐南区)の国民学校が避難場所というのを思い出し、妹と二人で安村の国民学校まで歩いて向かった。道中には腕の皮膚が垂れ下がり着ている服はぼろぼろで、まるで幽霊のような人たちをたくさん目にした。三滝あたりだったか雨が降りだした。途中、テントが張られたところがあり、軍医さんだか最寄のお医者さんだかわからないが、確か腕に赤十字のマークをつけた人に、頬のやけどに一斗缶に入った白絞油を筆で塗ってもらった。被爆時の治療はこの時の油が最初で最後だった。妹は足にやけどを負っていたので裸足で歩くのは相当痛いはずであるが、一切泣かずにずっと歩いてくれた。
そして、安村の国民学校に向かう途中で母の妹である叔母さん(当時楠木町在住)と合流でき、安村の国民学校に到着した時にはすでに被爆者の行列ができていた。楠木町の叔母からはもうお母さんは亡くなっているだろうから覚悟しないといけないと言われた。
その日の夜は、近所の農家に5、6人ずつ割り当てられ泊まるように指示された。こちらはその叔母さんと私と妹の3人、あと知らないもう一家族の3人と合わせて計6人で農家に泊まった。その一家族には男の子がおり、その子の背中は真っ白だった。それはびっしりとウジがわいてもぞもぞしていた。それなのに男の子は一切泣いていなかった。
後で知った事だが、頼りにしていた楠木町の叔母さんの娘は、広島市立高等女学校(現在の舟入高校)の一年生で建物疎開作業中に被爆し、遺骨すら残っていなかった。
〇8月6日以降
翌日農家から出ないといけないため、私達は母は死んでいると思い、父のいる呉を目指して歩くことにした。すると死んだと思っていた母親と弟二人(次男・三男)と奇跡的に合流できた。生きて対面できた事を抱き合って喜んだ。母と弟二人は自宅である借家にて被爆したにもかかわらず三人に大きな傷はなかったが、母の顔には家の柱が倒れて顔面に当たり、左眉毛に沿って横に3センチメートルくらいの傷を受けており、その傷には拾ったぼろきれを当てていたがそれは血で真っ赤になっていた。母は終生その傷を、事あるごとに色んな人達に触りながら原爆での傷だという事を説明して、「この傷さえなければ」と繰り返し話していた。次男は右耳の後ろに小さな傷があっただけで、三男には傷らしいものはなかった。まさに奇跡である。
道中、目にいやおうなく飛び込んでくる光景は赤ちゃんの骸骨、男か女かわからない死体、太腿が異常に腫れている遺体などがあっちこっちに山積みにされていた。皮膚が垂れ下がりやけどを負った人達が「水をちょうだい」と訴えるように言い、川にはひどいやけどを負った人たちでいっぱいだった。「たすけて、たすけて~」その声は首から下が瓦礫に埋まり身動きが取れず迫りくる炎におびえ泣き叫んでいた。だが誰も助けに行く事もできず助け出されないままであった。まさに地獄に迷い込んできたようだった。
こんな光景を見ながらひたすら歩き、父のところに向かっているとまた奇跡的に父と合流できた。父は広島に原爆が落ちたという事で家族を心配し広島に入っていた。父は入市被爆である。周りがこのような状況で家族に再会できたことはとてもうれしかった。どのあたりだったかはよく覚えていないが、真っ白なおにぎりを積んだトラックが来ていて、そこで二つおにぎりをもらって、食べながら呉を目指した。駅舎が見えた海田駅だっただろうか、そこから列車に乗って呉へと帰った。
呉に戻ってからは、父親の軍の関係で三角兵舎の一棟で7、8年暮らした。そんな時、弟(長男)から学童疎開の話を聞くと五番町国民学校に通っていた子供たちは造賀村(現東広島市)のお寺に疎開していた。そこでは夜になると子供が一人泣くと次々と泣く連鎖がおきていたそうだ。中には両親が被爆死した子供もいたそうでその話をすることが辛かったようだ。
思い出したくもない辛くて怖かった体験だがこんな悲惨な出来事が現実にあった。それを実行したのも同じ人間である。だから一人でも多くの方々に広島・長崎の事を知っていただければ原子爆弾(核兵器)がこの世の中に必要ではない。廃絶するものであるという事は理解できるはずだ。
この世から核兵器がなくなることを切に願う。
代筆(共同)
松田美野子(被爆者の長女)
昭和30年生 広島市
松田善樹(被爆者の長女の子)
昭和54年生 広島市 |