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看護学生が体験した被爆の惨状 
林 信子(はやし のぶこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2022年 
被爆場所 広島市千田町 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島赤十字病院救護看護婦養成部2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
実家は世羅郡津名村(現在の三次市三和町)で、農業を営んでいました。父・佐藤逸太郎、母・マスミ、長兄・一人、長姉・一江、次兄・馨、私、妹・トミ子の7人家族です。父は婿養子で、津名村は母親の実家です。父の実家は双三郡板木村(現在の三次市三和町)にあります。
 
家の前には田んぼ、裏には畑があり、農耕用の牛も飼っていました。田んぼでは春は麦、秋は米を作り、その作物を出荷して生計を立てていました。畑では、なすび、きゅうり、ジャガイモなどを栽培し、これらは自家用でした。農家でしたので、食べ物には困りません。しかし、戦時中には麦飯を食べなくてはいけなかったので、白いご飯は隠れて食べました。じゃがいもが食卓に上る日が多く、今日もじゃがいも、明日もじゃがいもの日々で、母に「今日のご飯はなに?」と聞くと「聞かなくても分かるじゃろ」と言われていました。
 
幼少期には、友達とかくれんぼをして遊んでいました。近所に同級生の男の子が住んでいたので、よく一緒に遊んだことを覚えています。小学校4年生のときに日中事変が起き、それから終戦までずっと戦争の中で育ちました。小学生時代は戦争が起きても、授業内容に変化は特にありませんでした。
 
●勤労奉仕が記憶に残る高等女学校時代
小学校を卒業後、私は森本高等女学校に進学しました。母は教育熱心な人で、農家の子が高等女学校に行くことが珍しい時代に、私や妹を進学させてくれました。学校は豊田郡川源村(現在の東広島市豊栄町)にあり、実家から3里ほど離れていたので自転車で通学していました。降雪地域のため、冬は雪が降ると自転車を漕ぐことができないほど積もります。その時は学校の近くにあった寄宿舎で寝泊りしていました。
 
高等女学校時代は、授業よりも勤労奉仕の方が記憶に残っています。広島市内の学校に通う生徒は工場に動員されますが、田舎には工場がないため、私たちは出征兵士の家で田植え、稲刈りなどの手伝いをしていました。朝、父に鎌を研いでもらい、怪我をしないよう縄も締めてもらって、自転車の後ろに乗せて勤労奉仕先の家に向かう日々でした。田舎の学校ということもあり農家の子が多かったので、農作業はみな上手でした。
 
高等女学校を卒業しましたが、家に残ることはできず、師範学校や看護学校に進学する、または進学せず軍需工場に動員されるかの二択しかありませんでした。私の家は金銭面が厳しい状況でしたので、当時学びながらお給料をもらうことができた、赤十字病院の看護婦養成部へ進学することに決めました。卒業式の日は学校にトラックが待っていて、式が終わると動員される同級生たちはトラックに乗せられ、そのまま呉方面などに連れていかれました。私は進学組だったので、見送る立場でした。
 
●救護看護婦養成部に進学して
昭和19年4月、私は広島赤十字病院の甲種救護看護婦養成部に入学しました。国語や数学など一般教養、看護婦としての教養の他に、軍事教練というものがあり、軍から教官が教えに来ていました。
 
担架教練では、教官の「駆け足ー!」という合図で千田町一丁目の病院から比治山まで担架を担いで走っていきます。院外に出る教練の時には制服着用が義務付けられていましたが、私たちは紺色の制服を1枚持っているだけで、季節とは関係なく同じ制服を着なければいけませんでした。厚い生地の制服に丈の長い靴下、そして編み上げ靴を履いての教練です。あの頃は「そうするもの」と思っていましたので「こんな暑いもの着られるか!」と言うこともしませんでした。
 
他には水泳教練もありました。戦地に召集されたらいつ輸送船から放り出されるかもわかりませんので、看護婦も泳げないといけません。舟入にあった学校のプールで行われました。私は山に囲まれた田舎で育ちましたので、泳げませんでした。しかし、教官はいちいち私たちに泳げる、泳げないかどうか確認はしません。教官が「飛び込めー!」と言えば泳がないといけません。私は泳げないのでどうしようかと考えていると、教官に「何しよんか!」と背中をバーンと押され、プールサイドからプールの中に突き落とされたこともありました。
 
1年生の時の看護実習では、先輩たちについて回ることがほとんどでしたが、2年生になると赤十字病院の主力として働いていました。看護婦が外地に派遣され人手不足だったので、代わりに学生が働くことになっていたのです。
 
看護婦の人手不足から看護学生が増え、看護婦養成部も既存の寮だけでは部屋が足りなくなるなど影響が出ていました。病院のすぐ裏、広島市役所の裏、広島電鉄(株)の近くの三か所に寮を増やし、院外の寮は第一寮~第三寮と呼ばれていました。私は広島市役所の裏にあった寮に住んでいましたが、当直が増えて病院で寝泊りすることが多くなっていました。しかし、贅沢を言えるような状況ではありませんでした。
 
当時の赤十字病院には『赤十字病院』と『陸軍病院』の2つの看板が立てられていて、入院患者は全て陸軍の軍人でした。私は将校病棟を受け持っていて、入院していた将校から「日本は負けるよ」と教えられたことがありましたが、私は日本が勝つと信じていましたので「そんなことはない!」と言い返していました。
 
 
 
●8月6日
当直明けの朝でした。この日は夜中に空襲警報が発令されたため、夜のうちにしなければいけなかったガーゼの洗浄と消毒ができずにいました。申し送りをする前に「あ!ガーゼを洗っていない」と気付き、私はガーゼを洗いに3階の汚物処理室に向かいました。
 
汚物処理室に入り、南側の窓際の流し台に立った時に原爆が落ちました。強い光を感じた瞬間、頭に何かが直撃して私は気を失いました。しばらくして意識が戻り、棚の上に置いてあった物が頭上に落下して気絶したことが分かりました。また、汚物処理室は南側の部屋だったので、爆風で窓ガラスの破片が飛び散ってくることもありませんでした。
 
原爆投下直後に意識を失ったので、何が起こったのか状況がつかめずにいましたが、すぐに受け持ちの患者の安否確認をしなければと思いました。有事の際には患者を避難させることが私たちの使命でしたので、急いで避難場所になっていた地下室に患者を集めました。怪我をした人はいましたが、全員無事でした。
 
病院は鉄筋コンクリート造りであったにもかかわらず、爆風や爆発の衝撃により建物の中はぐちゃぐちゃで、寝る場所もありませんでした。院内の寮は木造だったので、6日の夕方には燃えて倒壊しました。
 
同級生には即死の子もいれば、怪我をした子もいました。患者第一で行動していたので、同級生たちと無事を確かめ合うどころではありませんでした。私も大きな怪我はなくとも、体のあちこちに傷ができていました。しかし、あの状況下では私の傷は怪我とは言えないものでしたので、自分で包帯を巻いて処置しました。
 
 
●救護活動と体の不調
薬も道具も何もない状態でしたが、すぐに赤十字病院で救護活動が開始されました。収容された人の中には、「水、水」と言うのが精いっぱいな人もいました。市内のあちこちで水道管が破裂して水が噴き出していたので、器を探してその人たちにお水を与えたこともありました。救護以外にも、あちこちに転がっている遺体の処理も行いました。亡くなってしまった人たちの体を山のように積み重ね、油をかけて焼くのです。身元の分かる遺体は記録を残しましたが、誰なのか分からないものの方が多かったです。「この人はもう長くないな」と思えるような状態の人には、せめて名前だけでも残しておきたくて「あなたお名前は?お名前言える?」と聞きましたが、名前を言うこともできませんでした。
 
救護活動は昼夜を問わず続きました。眠る時には仲の良かった同級生たちと「どこで寝る?」と相談し、やっとムシロを1枚手に入れると、三人くらいでくっついて外で眠っていました。8月15日は、救護活動で玉音放送を聞くどころではなく、後から戦争が終わったことを教えてもらいました。戦争が終わったと言われても、広島の状況を見ていると「なにそれ」という気持ちになるだけでした。
 
終戦後も、私たち看護学生の救護活動は続きました。すると9月の終わりころ、婦長さんから「あんたらはよう働いてくれたけん、少し体を休ませに故郷に帰りんさい」と言われてやっと1週間の休暇をもらうことができました。市内の様子は救護に必死でこれまで見に行っていませんでしたので、休暇をもらったこの時に初めて見ました。
 
広島駅から甲立駅まで汽車で行き、そこから実家までは歩きました。実家に着き、板の間で「ただいま」と言ったことまでは覚えています。それから急に発熱して鼻血も出て、歯ぐきからも出血しました。当時は疲れが原因か、原爆症だったのかはよく分かりませんでしたが、生きているのか死んでいるのか定かじゃないような状態で、何日も寝込むことになりました。被爆して田舎に帰ってきた人たちが次々に亡くなっていたので、母親も私の状態を見て、このまま死んでしまうのではないかと思っていたそうです。私は当時17歳と若く、体力もありましたので、そのお陰かなんとか快復しました。
 
快復後、赤十字病院に戻り再び救護活動に従事しました。あのころの私は本当によく頑張ったと思います。
 
●家族の被爆状況
当時実家には両親と長兄の嫁が住んでおり、この3人は被爆しておりません。長兄の一人は衛生兵で、昭和20年には被服支廠に勤めていました。被爆時は東雲町にいたと聞いています。
 
姉の一江は段原に嫁いでおり、実家に疎開していて時々市内に出てくるという生活をしていました。実家から持ってきた食べ物をごちそうしてもらいに、友達と一緒に姉の家へよく行ったことを覚えています。姉は6日もちょうど実家に行っていた時でしたので直接被爆は免れましたが、その後入市しています。
 
次兄の馨も召集され、陸軍の工兵隊でした。牛田町で防空壕に入っている時に原爆が投下されたそうです。光った瞬間、兄は防空壕のさらに奥に逃げたため怪我をせずにすみましたが、兄と一緒に防空壕に入っていた他の兵隊さんたちは、何の光かと様子を見るために防空壕から出てしまい、被害を受けました。
 
妹のトミ子は学徒動員で岩国にいました。原爆投下後すぐに汽車で広島に戻ってきました。その時に広島駅を通過したため、放射能を浴びることとなりました。
 
私が実家に戻ってすぐ病気で寝込んでしまったこともあり、他のきょうだいたちと再会できたのはずいぶん経ってからでした。原爆から何年も後に、長兄と妹が、被爆が原因の病を発症して亡くなりました。きょうだいの中で一番爆心地から近い場所で被爆した私が、一番長生きをしています。きょうだいの中で生きているのは私だけになり、寂しさを感じています。
 
●その後の生活
救護活動も終わり12月に入ると、看護婦養成部での授業が再開し、勉強をすることができました。そして3月に卒業、4月からは看護婦として赤十字病院で働き始めました。このころには軍人の患者さんはほとんどいなくなり、一般の患者さんが来院するようになりました。患者さんには原爆で怪我をした方、後遺症で苦しむ方などが、まだまだ沢山いらっしゃいました。
 
次兄から「これからの時代、着物じゃなく洋服を着るようになっていく。お嫁に行っても自分の服も縫えないようじゃいけん。洋裁学校に行け」と言われ、昭和21年の秋に赤十字病院を退職し、今度は洋裁学校に通い始めました。学校と言っても今のような立派な学校ではなく、先生が自宅で開いているようなところでした。次兄は私のことをとても可愛がってくれていて、次兄が洋裁学校に通わせてくれました。また、姉が戦時中に実家へ疎開させていたミシンが残っており、そのミシンを使わせてもらっていました。
 
夫との出会いは、夫の大学時代の同級生が姉のご近所さんで、そこの母親が「見合いせえ」と言ったのがきっかけでした。昭和23年に結婚し、24年には長男が産まれました。結婚後は洋裁学校も辞めて、半年間を能美島で生活し、その後広島市の塚本町に引っ越しました。その後次男が産まれ、また病院で勤め始めることとなりました。
 
初めは広島市民病院で臨時職員として働き、昭和33年ころに同級生が紹介してくれて、広島県病院で正職員として働きました。その後、昭和42年ころに現在の家に引っ越しました。この時に県病院は辞めていましたので、次はどこの病院で働こうかと悩んでいると、近所にあった個人病院の先生から「県病院並みの給料を出すから」と声をかけられ、その病院で働くことにしました。先生は厳しい人でしたが、自分の信念を貫くとても優秀な人でした。先生に信頼されてからは、先生の右腕として働きました。
 
定年退職後は、何かしようと思い剣舞を習い始め、教室も開きました。孫は小さいころ「僕もやる!」と言って私の教室に通っていました。そんな孫も今では教える立場になりました。
 
●証言活動と平和への思い
小学校から被爆証言の依頼を受けると話をしに行っていました。それから証言をする機会がどんどん増えていき、気づけば証言活動をするようになっていました。特に小学校にはずいぶん行ったものです。少しでも役に立てばと思い沢山の学校に行きましたが、体力的に今は難しくなってしまいました。
 
戦争とはつまらないものです。戦争や原爆のことを分かって話すことが出来るのは、私たちの世代がおそらく最後だと思っています。私たちが話さないといけません。しかし、まだまだ十分に惨状を伝えられるほど話せていません。戦争があった時代のことを、今の若い世代の人たちに分かってもらうこと、語り継いでいくことは難しいと感じています。しかし、以前、私の体験を聞いた小学1年生の子に「わあ怖い!怖かったねー!」と言われたことがあります。その時は、少しは伝わったのかなと思えました。 

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