「当時を思い出したくありません。」これは平成7年度に厚生省が実施した被爆者実態調査の際に、私の父が返信した言葉だ。そんな父だった。毎年7月になると戦争に関する特集が組まれ、いろんな番組が放送される。番組が始まると父は必ずチャンネルを変えた。自分の体験についてほとんど語ろうとはしなかった。
昨年2021年11月26日父が亡くなった。一周忌を迎える今、私は娘として、何より世界中の平和を願うひとりとして、父の意に反してまでも父の被爆体験を未来に残すことにした。
彼は広島市寺町で生まれた。昭和17年父が病死。長男が戦死。昭和20年6月6日母が病死。当時彼は、12歳。本川国民学校高等科に通っていた。兄弟二人だけの生活を姉が心配し、宇品の姉宅に来るよう勧める。昭和20年8月6日、朝6時頃、寺町の自宅を17歳の兄と出発。大八車に荷物を載せ御幸橋を渡る時、親切な娘さんが車を後押ししてくれる。その後娘さんは、あの相生橋の方角へ歩いて行く。宇品にさしかかった時、彼と兄は被爆。
戦後、父と伯父は廿日市市津田にある、空き家になっていた乙出家で生活することを決め、宇品から二人歩いて津田に向かった。途中では、吊るし柿を食べ、植えてある芋を掘って食べながら…。津田に帰宅すると、戦後の農地改革で、あるはずの土地はほとんどなくなっており、荒れ果てた家屋が残っていただけだった。それでも近所の方々に助けられながら、18歳と13歳の兄弟二人の生活が始まった。食べ物も何もない兄弟二人だけ…。どれほどの辛い思いをしたであろうか。「当時を思い出したくありません。」という父の言葉の重みを感じる。
努力家で頑張り屋の兄弟は、周りの方々に助けられながら、学力をつけ、経済力もつけていった。当時父は、お金が無く大学に進学できなかったが、結婚後も含めると通信教育で5つの大学に通い、様々な修了証書を取得している。
父はやりがいのある仕事に出会い、温かい家庭を持ち、素晴らしい人生を生きたと思う。私は、そんな父を尊敬している。しか「戦争さえなかったら…違う人生もあったはずだ。」とも思っていたのではないだろうか。「わしは会社を経営してみたかったのう。」とも語った父である。
ほとんど戦争について語らなかった父ではあるが
「あの大八車を押してくれた娘さんはどうなったかのう。」
「本川小学校の同級生にはもう会えんじゃろうのう。」
「月命日の6日じゃったけえ、母が命を守ってくれたんよ!」
この3つだけは言葉にして残してくれた。ひとつひとつが胸にしみる。私たちには、この父の、被爆者皆さんの体験を語り継がなければならない責務があると考えている。
2022年11月26日
乙出兼宗 娘 高橋真弓
※乙出兼宗(おといで けんそう)様につきましては、お名前とご遺影の登録がございます。
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