被爆体験者として労働会館にて発表さして頂きました内容を前段のみ抜粋して見たいと思います。
五十年前のあの惨劇が二度と起こらない、私達の子供や孫がこの様な憂き目に合わせない小さな歯止めになるのなら…私の受けた体の傷も心も、少しは癒やされるのではないかと思い再度ペンをとりました。
終戦前より動員学徒として旧国鉄(現、JR)広島車掌区の車掌として勤務して居りました。その当時の寮として爆心地より一・二キロメートル離れたところの山口町の中国ホテルが当てられて居ました。それは非常に立派なレンガ作りの三階建で皇族方がお泊りになると聞いて居りました。現在はその町名も、電車の停留所も無くなっているようです。その寮内に居合わせた時、世紀の惨劇が起こり、苦痛に満ちた体験を経ることゝなりました。天地を裂くような物凄い大きな音と共に、稲妻が?私の見たものは、赤色、橙色、黄色、白色の様な火の玉が一面に明るく、拡がる光線でした。映画で見たことのある、あの火焔放射器の炎だなと直感しましたが…三階建の立派な寮は前の道路に吹きとばされてペシャンコでした。やっとの思いで這い出た時はもう三~四米先は燃えて居ました。二、三軒隣りも火の手が上がっていました。体には爆風によって無数にシャツの上から硝子が食い込み血が滲み出ているのです。それを指で探ぐっては抜き、歩いては休み、休んでは抜いて広島駅方面へと逃げました。左大腿部の硝子傷は大きな口を開け血がとまりません。さりとて包帯らしき布切れは何一つありません。京橋川へ来て見ると大勢の人が岸辺で水を飲み、川に飛び込み泳いで死人の浮ぶ中を向う岸に行っていました。誰れも、彼れも水、水を求めたのでした。
無情なまでに照りつける太陽の暑さの為か、灼熱の熱光線の影響か?川に入ることも出来ない私は橋を通らなければなりません―、が裸足では通ることが出来ないのです。アスファルトが熱く柔かくてめり込むようなのです。やっとの思いで転がって居た薄っぺらの下駄を見つけて片足につけ片一方に紙と荒縄をぐるぐる巻きつけて進もうとしましたが下駄のはがめり込んで動きがとれませんので、それを逆さまにして荒縄をぐる巻きにして橋を渡りましたが、その先は、又、またの地獄の入口のようで倒れた家屋が道路を塞ぎ燃えているのです。遠回りして倒れた家屋を踏み越え辿り着いた広島駅舎、私の勤務地、駅舎の二階に在る車掌区は、全員退避した後でした。舎内は空洞。
無数に散った硝子の破片がダイヤを散りばめたように太陽に映えていた。
その後、東練兵場へ、又国立西条療養所(陸軍病院)へと収容され三年間の闘病生活となりました。 |