原爆の話をすると泣けてくる。肉親の死を人に知られたくない。思い出したくない。やはりこれが真実です。
あれから五十五年、広島市元柳町で親兄弟を亡くしました。私も七十才を数えることになり、ここで始めてあの日あの時を語る機会を得ました。八月六日の原爆、そして十五日終戦の日までの十日間は、十四才の私には三年にも四年にも匹敵する日々でありました。
満員電車にゆられて舟入川口町電停に着く。朝の七時、この頃の私は「花も蕾の若桜、五尺の命ひっさげて」の学徒動員として、桐原容器工場で仕事についていた。
八月六日八時十五分、運命の時である。
青白い異様な光線が窓から目を掠め去った。電気がショートしたのかな……、それにしても未だ一度も見たことのないすごい火花、ドオーンと底力のある音響と同時に四辺はうす暗くなり、工場の建物は倒壊した。土煙と共に私は建物の下敷きになり機械のシャフトに足をはさまれ、衝撃によってしばし気を失ってしまう。しかしその後すぐ起き上がって障害物を取り払い、何とか外へ這い出た。
倒壊した建物の付近は煙でもうもうとしていた。建物の下敷きになったことが灼熱の閃光から救われた(あとで判明)。さあ大変だ、どうしたらいいのか。足の負傷で血がどんどん流れてくる。しかしこんなことを苦慮してはおれない。自分の家族や家はどうなっているのか。怪我よりその方が心配である。
学友、行員、挺身隊の人、みんな這い出してきた。それぞれ自分は助かったが、家族や家がどうなっているのやら心配なので、帰宅することになる。電車道に沿って自宅(元柳町)へ向かう程に被害の凄まじさにびっくり、建物は全部倒壊している。
飛散した瓦、木片、たれ下がった電線、道路上のあらゆる障害物を排除しながら電車道を舟入本町、仲町と進んでくると、この辺から悲惨な格好の人がゾロゾロと見え出した。土橋までくると更に多くなり、今朝電車に乗った時とは何という変転ぶりだ。まるで地獄絵を見るような状態の中、ようやく新大橋(現・平和大橋)に辿りつく。
そこで後を振り返ってみると倒壊家屋が燃えている。今迄歩いてきた道中は燃えていなかったのに驚きである。不安と恐怖で頭が一杯。ふと足元を見ると息絶えている人、横倒れの電柱や電線。焼けただれて身体が赤むげになり、あちこち血だらけの赤黒い顔。
皮膚が手・足に垂れ下がっておばけの様相をした人達が水・水と叫びながらヨロヨロと歩いてる。橋の上には十数人の瀕死の人々に混じって、はや息も絶え絶えで断末魔のうめき声のする中を交差して何とか渡っていく。
橋の横の雁木(がんぎ・石段)や土手には火傷の人が大勢うずくまっている。川瀬、川の中には赤茶けた身体を胸までつかっている人、天を仰いで真っ黒になっている人、老若男女の人々の無数の死体が点々と散在している。この生き地獄をずっと見てきて頭の中がすっかり狂い、何が何だか分からなくなってきた。この辺は朝通ってきたばかりで、どうにも考えられない出来事だ。
前方の瀬川倉庫、坪井産婦人科医院もものすごい音を立てゝ燃えている。私の家はその前だ。もうこれから先は火の海。どうしょうもない。この辺にいる負傷者は今朝、建物疎開の整理作業に来ていた学生や挺身隊の人々だという。
ここで隣家の兼本・福田さん達と遭遇する。彼等は三菱の祇園工場に徴用され出勤していて助かり、やはり家と家族を案じここへ駆け付けたそうだ。途中市内横川に入ったがそれから十日市にかけてはそれは大変で全部家屋は倒れ、それが道路まで散乱して、歩くところもなく、そのうえ火災となり煙が辺りを包んでいる。負傷者も多くてその程度もひどいもので殆どが火傷の人。顔面をやられている人は人相、男女の見分けが付けられない程だ。
また地方人よりは兵隊の方が多くてウロウロ歩いていた。その中には傷口から血を吹かせている者や目玉の飛び出た兵隊、火傷だらけの学童、全裸の婦人、路傍に倒れたままになっている人、今来た道を逆に逃げていく人、その中を彼等は命がけでここまで来たのだ。
全く生き地獄だ!おかっぱ頭の様になっているのは、帽子をかむっていて、光を受けなかった所の髪だけが焼け残ったからだ。何も被っていなかった女性の頭は丸坊主で髪が無くなっていた。屋外にいた人は光と熱で身体が大火傷となり、屋内にいた人はドカーンといった時のすごい爆風で、一瞬のうちに倒壊家屋の下敷きになって負傷したり、そのまま逃げられなくなったのだった。飛び散ったガラスの破片が体にささり出血して、それが乾燥してこびりついて黒くなっている人もいる。負傷して助けを求める人ばかりだから倒壊家屋が火を出しても消火活動の出来る人は誰もいない。
家屋の下敷きになり助け出してもらえなかった人々は、無惨にも迫り来る業火に生きながらにして焼死してしまった。
残虐の極み。修羅場だ!
顔も腫れ上がったというか膨れてしまい目もあかなくなった人もいれば、目と口の周囲だけ涙と汗で白く縁取られている人もいる。此れでは誰だか全く見分けが付かない。
私達の前まで火焔は迫り、風を呼び炎と狂い、煙を巻き上げ地上をなめていく。ぐずぐずしていると自分達も煙にまかれ焔に呑まれてしまう。集まった人達で情況分析をしてみた。
「家族に会いんさったか」「会わんかったんじゃ」「集合(避難)場所が平良村(へらむら)となっているので中島の人達は直行したんじゃろ」心を鬼にして去るほかないのだ。
これ以上この場所にいても仕方がない。一刻も早く避難場所平良村へ行こうということになる。一部の人は何とか火がおさまる迄此処にいて家族を探し続けるというので残留した。
ここで自分の足の痛みに気付いたが今はそれどころではない。母が「いざという時は平良村に避難して、そこで皆集まるんだよ」と言っていたのが無性に気にかかった。途中天満橋鉄橋を渡る時黒い雨に見舞われたが、夜通しかけて歩き平良村へ七日午前四時頃ようやく到着した。
そして村役場、小学校と母の消息を尋ねて廻った。学校の講堂、グランドは負傷者で一杯だったが母はいないし、私の知った人もいなかった。此れから再び母達を尋ねて焼け跡へ戻らねばと思い、昼過ぎに出発の救援トラックに乗車する。
何処をどう通って広島市内に着いたか分からない。余燼くすぶる瓦礫の中を、市役所付近で下車した。灰燼と化した市中は四方八方見渡せた。その中にポツーンと灰色に焼け残った鉄筋コンクリート建て市役所が非常に印象的だった。
太陽は無心に照りつけている。避難所の人は少なくなっているが死骸はずいぶん増している。革屋町を通って元安橋を渡り中島に入る。
火災で全て焼き尽くされて、ブスブスと僅かに燃えくすぶっていた。焼け跡に入っている人も相当いた。黒焦げの死骸。水槽に入らんとしたのか片足を入れたまま孤立して息絶えている人。腹部が裂けて内臓が露出し、ジブジブと泡の輪をつくっている哀れな馬の死体も転がっていた。
焼けただれた人がヨロヨロと家族に支えられて、破れた水道管の水を手ですくって飲んでいるのが目についた。破れた水道管からは水がチョロチョロ流れている。焼け跡に何故水が出ているのか不思議に思った。
川土手の死体は悪臭を放散している。収容作業が始まっているが、やはり生きている人が優先で、まだ沢山な焼死体には手も付けられずに捨てゝある。黒焦げになった死体にも遠慮無く八月の真夏の太陽が照り付けている。川中には膨れあがった死体が浮かんでいる。
木陰の無い屍体のみの砂漠の様な中で、木片で屍体をひっくり返して側にある骨をバケツに納めている二人連れに出会った。此処でも眼球が鼻の辺りまで飛び出している負傷者に会い驚いた。一面灰と屍体と骨ばかり。
わが家の瓦礫の中からは真っ白に焼けた兄俊秀(十六才・旧・山陽中学校卒業後、引続き呉工廠に動員中で当日は自宅にいた)の骨を探し出して、持ってきた袋に入れた。まだ生温かった。
此処で、「お母さんが傷ついて雁木のところでうづくまっていたが、兵隊さんに何処かの救護所に運ばれて行ったよ」という証言を得た。母は生きているのだ。勇気づいた。昨日からずっと此処で家族を探していた人が又「土手の下で出会ったよ。きっと貴男のお母さんだった。」という。何度も確かめてみたが堀毛さんの親戚の人らしい方で、これで母の生存は確認出来た。
妹・巴(ともえ・七才)の小学校一年生の分教場(中島国民学校低学年の生徒は、家の近くのお寺・誓願寺で学習をしていた)に行ってみた。誓願寺には沢山の死体があり、大人と違って少し小さめのお骨が重なりあうように散乱していて、皆目見当がつかなかった。
その場にたまたま居合わせた方に尋ねると、「私の子供も同じく一年生で此処で亡くなりました。母親は自宅で、子供は此処と、全く別れ別れになってしまいました。」と泣いていた。その男の人に教わって、そこにあったお骨を少しずつ拾って持ち帰った。おそらく授業中のまゝみんな抱き合って死んでいったのだろう。
その男の人は放心状態でいつまでも突っ立ていた。それからは、元柳町の怪我人が運ばれた収容所は何処でしょうかと、毎日聞きながら各国民学校、救護所、収容所を歩き廻った。苦しそうなわめき声、泣声、うなり声の中を一人ずつのぞき込んで確認して廻ったが、探せど探せど母を見つけることは出来なかった。
瓦礫の中を足を棒のようにして歩き続けて四日目の八月十日。神崎国民学校でやっと母を見つけることが出来た。そこは臨時の治療所になっていて、校庭にワラムシロが敷いてありその上に寝ていた。何処の救護所も同じで、異様な臭気が満ち溢れていたましい姿の人が多かった。何とか生きていてくれた母の姿を見たとき、我ながらよく探すことが出来たと感無量であった。
「お母さんですね。そうですね。宍戸ですね」と声を掛けたところ、微かに震えるような声で小さくうなずき起き上がろうとしたのであわてて制止し、再び寝かせた。
本当に、良くまあ深し出して逢うことが出来たものだ。早速一番知りたかったこと。あの時どうであったのか。兄や妹の事も聞いてみた。母は炊事場で朝御飯の後かたづけの時に下敷きになり何とか這い出した。兄は二階におり家の梁の下になり、這い出す事が出来なかったのか、その時即死してしまったのか、とにかく声はしなかった。何度も兄を呼んだが応答が無くて、その内すぐに火が付いたように思う。
妹・巴は七時四十分頃鞄を背負って何時ものように元気良く「行ってきます」と出発したので、あの時間は授業が始まったところと思う。一年生であんなに小さな子が本当に可哀相でたまらないと話しながら母は泣いた。
母は前の道路まで這い出したが周囲で「川へ」と言う声を聞いたので、土手から雁木へ走ったような気がするが、その時にはもう燃え上がっていた。川に入ったりして、その晩は雁木の所で一夜を明かして、次の日兵隊さんに此処へ連れて来て貰った。「あの日は土手の辺で何となくウロウロしていて、家族の事が心配でたまらなかった」と母は手振りを加えてボソボソ話してくれた。私はこれであの日の事がようやく分かってきた。
その夜は一睡もしなかった。電気は付かず真っ暗闇の中で、口元を水で浸してやろうと思いロウソク懐中電灯を借りて体と共に冷してやった。それから熱が下がらなくなり下痢も続いた。火傷のひどい人は、毎日のように死んでいった。隣に寝ていた女学生は、母と同じく本川の土手で収容されたが傷口に蝿が卵を産み付けウジがわいていた。
彼女は意識朦朧としていて時々手を上げて蝿を追っ払っていた。時々「お母ちゃん!痛いよう」と泣き叫んだ。母と同じ本川から運ばれて来たので、他人では無いような気がして看護してあげたが、母より一日早く亡くなった。妹を同じ中島で亡くしているので一入寂しさを痛感した。夜になればローソクの明かりだけで一様に小さな泣声で死の寸前でもあろうか、微かに母を呼ぶ声、妻の名を呼ぶ人、夫を呼ぶ人等々実に哀れな情景であった。
母もとうとう十二日早朝、眠るように静かに息を引き取りました。たとえ三日でも母と一緒で精一杯看病出来た事を感謝しています。何処で死んだか分からない人が大勢いるのだからと自分に言い聞かせて母をあの世に送りました。これで私も孤児になってしまいました。それからは大変な苦労の連続でした。
弟隆(九才)は、中島国民学校四年生で、学童疎開で双三郡三良坂町にいて生き残りました。私も弟も、とうとう元柳町に帰る事は出来なくなり、共に育った家の所は今では平和公園として多くの人に愛されています。
毎年八月六日には此の消えた町、元柳町を訪れ、あの日、あの頃を偲んでいます。
川土手に並んでいる数々の慰霊碑を見ると、あの時の光景が甦って来ます。
ノーモア原爆・広島を祈っています。
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