あの朝、私はどんな事態が発生したのか、何も判らないまま、勤務先の中国新聞社と広島師団司令部へ駆けつけるべく、翠町の自宅を飛び出した。師団司令部へは、私がそこの報道班員でもあったためであるが、都心はすでに猛火に包まれており、行手はさえぎられていた。引返して、御幸橋西詰の交番所前に到着したときは、炸裂後すでに2時間ばかりたった10時半ごろであった。そこには、ただ一人の警察官が、半裸で群がって来る何百人もの被爆者の傷の手当をしていた。一人残らず火傷で、火ぶくれが破れ、皮膚がボロボロになって垂れさがっていた。なかには、「痛い、痛い!」と、泣き叫びながら、路上をのた打ちまわっている者もある。
油の一斗罐をぶち抜いて、応急手当をしている警察官も、頭を負傷しているらしく、無造作に巻いた包帯が、帽子の下からのぞいている。
時がたつにつれて、負傷者の数はぐんぐん増えて、あの長い御幸橋の両側が、負傷者で一ぱいになった。髪は焼けちぢれ、衣服は引き裂かれ、男女の識別もつかない。全身焼けただれて意識もうろうの母親の体にすがりついている幼な子は、泣き声も出ないらしい。
「熱い。助けてくれ。どこかへ連れて行ってくれ!」
「水、水、水を飲まして…」
絞るような断末魔の声が肺腑を突く。鬼も顔をそむけるであろう空前の惨劇のなかで、今、私はカメラ・マミヤシックスをかまえている。それを撮ろうとしている。この「私」を、尋常な神経を持つ人間ではないと言うであろう。冷酷無残な行為と思われるに違いない。
私は一瞬心を殺してシャッターを切った。いつの日にか告発すべき証拠として、この惨状をありのままに撮影しておかねばならない。私には、新聞社のカメラマンとして、また陸軍の報道班員としての使命がある。
呻吟する多数の負傷者に、許しを乞う気持ちで、非情なシャッターを切ったのであったが、2枚目を撮るとき、私は泣いていた。ファインダーがうるみ、かすんでいた。
それから半月後、安芸郡温品に疎開していた新聞社で、このフィルムを現像した。暗室は横穴防空壕を予定していたが、設備があるわけではなし、折りからの月明りを利用しておこなった。仮眠テントのそばを流れる岩清水で水洗いし、近くの木の枝にぶらさげての乾燥であった。これほど心のやり場もない苦しい撮影は、決して二度とこの世にあってはならないと願っている。
出典 広島市役所編 『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』 広島市役所 1971年 984~985頁
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