弔辞
―篠沢 正勝君へ―
捨てて甲斐ある我が命、君のおん為国の為、若いこの身を捧げんと、集ひ来れる我が身なり、我等は特幹候補生……
と、陸軍船舶特別幹部候補生の歌を北海道と東北の戦友達と一緒に昨年の6月、八幡平リゾートホテルで歌ったのが最後になってしまいました。
思いおこせば大東亜戦争の末期アッツ・マキン・タラワ・サイパン島の玉砕があいつづき日本の危機が身近に感じ、身を挺しても国を護り、親・兄弟・同胞を守る決意も固く学業を半ばにして小豆島の陸軍船舶特別幹部候補生隊に二期生として入隊したのは昭和19年11月、貴兄はまだ童顔も残っている16歳のときでした。貴兄は体も小さく年齢も少なかったので保育隊である第5中隊第5区隊に編入された。しかし、元気だけは人一倍で特に詩吟を得意とし演芸会では満場の喝采を受けたものでした。
小豆島では軍人勅諭を主とした精神講話をはじめ、学科としては陸軍刑法・陸軍礼式令・内燃機関・電磁気学等の講義・水泳・手旗・モールス信号・舟艇の操法・上陸戦闘訓練など船舶兵としての基礎的訓練がなされ、内務班での規則正しい厳しい生活から軍人精神が涵養されたことが、これからの軍隊生活と復員してからの生活に大いに役立ったものであった。吹雪の中での舟艇訓練の際、大発動艇の先端で進路の見張りに立ったときは、体に吹きつける雪が氷りつき、余りの寒さのため感覚もなくなり、睡魔におそわれ失神しかけたときもあった。
しかしこのような激しい訓練も20年1月には一応終了し、やさしく我々を迎え入れてくれた小豆島の人達とも別れ、貴兄は徳山市櫛ヶ浜の海上駆逐大隊暁16711部隊に配属され重機の射手となった。私は貴兄の部隊と小川一つ隔てた機動輸送隊16712部隊に配属されBS艇の機関部員となった。貴兄の部隊から夜船の焼玉エンジンの音が聞こえるときは兵員・物資を朝鮮に送り出すときで特幹の仲間も何人か出て行ったとの噂であったが、無事船が帰って来た話は殆ど聞くことがなかった。貴兄のことを知ったのは徳山市がB29の大編隊で空襲されたときだった。我等の頭上でザーッという雨が降ってきたときのような音がして大量の爆弾が投下されたとき、すさまじい銃撃の音がした。B29を護衛してきた戦闘機に対し貴兄と今日ここに来ている同級生の福田氏とで重機をブッパなしたのであった。群がり来る戦闘機に猛然と戦いを仕掛けた貴兄達の勇敢な行為は今もって我々の間で語られている。貴兄のかかる行動と優秀な成績により広島の部隊に初年兵教育の教助として選抜され転属したのは17歳のときであった。
また、その頃のアメリカ軍は比島を押え沖縄に上陸、流黄島の日本軍は玉砕するなど戦況はますます緊迫した状態となり、我々と一緒に特幹を受験した1期生達は次々と突っ込み、未成年者の部隊としては未だかつてない多数の犠牲者を出していた。
本土決戦・態勢の挽回のため各部隊に配属された特幹二期生の大部分が、江田島の幸ノ浦に集められ水上特攻隊が再び編成された。その時貴兄と福田氏は第53戦隊、私は第43戦隊であった。陸軍の秘密部隊であったためその戦果も部隊の全容も未だ世間に知らされずにいるが、船舶司令部直属で防諜上第10教育隊と称していた。正式には海上挺進隊○○戦隊といって、長さ5.6m、巾1.8mのベニヤ製1人乗りのボートで銃器類を有せず、ただ爆雷250㎏を積み、時によっては、艇の先部に爆薬をつめ、敵艦に体当たり敢行するもので、大部分は17歳から18歳の特幹生によって構成されていた。毎日のように真っ暗な海での航行と体当たりの訓練、そして死に対する精神講話がなされた。
兵舎は砂浜に板を敷き並べたバラック小屋、粗末で不十分な待遇、休暇もなくきびしい軍規の中でつづけられた訓練の合間に、夜空の星を眺めては望郷の念にかられ、見る夢は腹いっぱい食事した夢であった。国に殉ずる覚悟はできているつもりだが、生きて帰ることのない前途を思うと無性に寂しさが胸いっぱいに込み上げてくることもあった。しかし、軍人としての使命感とお互いの励まし合いがかろうじて挫けそうな気持を支えた。そして、敵艦を確実に葬ることのみを考え訓練にはげんでいた8月6日の朝、突然周囲がオレンジ色に明るくなり一瞬何も見えなくなった。原子爆弾の爆発である。広島市全滅との斥候の報告により直ちに救援の出動命令が出され宇品港より広島市内に進出した。いたる処で火災が発生していた。建造物はくずれ、焼けただれた人達、救を求める怪我人、焼死体等地獄絵図そのものであった。我々が市の中心部に一番のりをしたようだ。この日から8日間市内で生存者の救助、死体の処理、道路啓開作業を行ったが、我々の活動は広島市誌に「幻の少年兵」と題して記録され永久に伝えられることになっている。
放射能を多量に浴びてしまったので原爆症となって死んだ同期生も多くいた。また、ガンで死んだ同期生の大部分は広島で救援活動をしたもので、悪性脳腫瘍で倒れた貴兄もその1人と思われるが、これを証明することができず誠に残念である。
復員後、混乱した社会での生活に必死であったため戦友間の連絡も一時跡絶えたが、昭和48年特幹二期生会宮城地区会・東北地区会設立の機運が盛り上がり、貴兄の積極的なご協力により設立できたことについては同期一同感謝申し上げているところであります。また、貴兄は緻密な思考力と卓越した実行力の持主で強い者には強くあたり、弱い者にはやさしく、手柄顔することなく物事を処理、義理固く戦友達から厚く信頼されていました。また戦友会にはいつも夫人同伴で出席され、その愛妻ぶりと睦まじさは皆の羨望の的でした。
貴兄が病床につかれてからの奥様は、いかに夫婦とはいえ、本当に献身的に看病されました。特に2回目の手術後は植物人間のようになり良くなる見込みのない貴兄を半年もの間、会社で手いっぱい働き疲れている体を休めることもなく毎日貴兄を世話し夜おそく帰宅、または付添さんの都合で真夜中看病し翌朝そのまま出社されるなど、いつ倒れても不思議でないほどの重労働であった奥様に対し、お話しすることができなかった貴兄にかわり我々戦友がかわって御礼を申しあげます。奥様、本当にご苦労さまでした。
篠沢さん、5年間の結婚生活であったが後半の2ヶ年は貴兄の看病のためすごした奥様をはじめご家族の皆様を見守ってください。戦友会の最後にはいつも肩を組み船舶隊の歌を歌って別れていました。今日も船舶隊の歌を歌って最後のお別れをしましょう。
暁はゆる瀬戸の海 昇る朝日の島影に
しのぶ神武の御東征や 五条の勅諭畏みて
兵我等海の子は 水漬く屍と身を捧ぐ
ああ忠烈の船舶隊
昭和60年2月2日
陸軍船舶特別幹部候補生隊二期生会
東北地区会代表 平塚矩正
出典 みやぎの原爆死没者を悼み編 『平和を願って みやぎの被爆者の体験文集第3集』
1992年3月30日 pp.26-28 |