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父と広島原爆 
真木 典邦(まき みちくに) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2023年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
         
私が、まだ一人では、お風呂に入ることができない位の幼い時、お風呂には、父(真木薫)と一緒に入っていました。最初に父が私の身体を洗ってくれ、その後、私が、筋骨たくましく、広い父の背中を、束子で洗うのが常でした。ある日、父の背中の左の下の方に、十円玉位の緑青黒色の汚れを発見した私は、汚れを落とそうと、一生懸命に束子で擦りましたが、汚れが取れないので、父に尋ねました。
「どうして、この汚れは、とれんの?」
父は、小さな曇ったような声で、
「広島で原爆を受けた時の火傷の跡で、取れないんじゃ。」
と、教えてくれました。父のこもったような口調から、これ以上、聞いてはいけないと感じた私は、父が受けた痛みを思い、口を閉ざし、心の中では、泣いていました。
 
私が、小学校に通いだした頃、地元の町内会が、親睦行事として、貸切バスで広島へ行くことを決めました。一戸当たりの参加者数が2名であったため、我が家では、母と姉二人が留守番し、父と私が参加することになりました。訪れる場所は、宮島、原爆ドーム、原爆資料館でした。出発の前の日の夕食後、いつもは、無口で、しゃべらない父が、突然、話し始めました。
「広島に原爆が落とされたとき、儂は、少尉として、広島に居ったんじゃ。その日は、朝練を終えて、休憩となったので、日陰を求めて、兵舎の北側に行き、しゃがんで、背中をコンクリートの基礎に付けて、汗が引くのを待っとんたんじゃ。突然のことじゃが、目の前が真っ白になり、身体にドーンと強い衝撃を受けて、気を失ったんじゃ。気が付いて周りを見ると、兵舎は、なくなっているし、一緒に居た人たちの姿は、全く見えんかった。背中が傷むので、どうにかせんといかんなと思うたら、町の西の方にあった親戚の家が、頭に浮かんだ。手と足は、動いたので、西をめざして歩き始めたんじゃ。道中の景色は、凄まじいものじゃった。言葉では、とても言えん。しばらく行くと、助けてー、助けてーという子供の声がしたんじゃ。声の方に行くと、大きな梁の下敷きになっている男の子を見付けたんじゃ。なんとか助けようと、梁を持ち上げようとしたが、ビクともせん。周りには、使えそうな道具もない。助けることはできんと子供に告げるのは、とても残酷で、できない。仕方なく、助けを呼びに行ってくるから、もう少し頑張れよと励まして、後ろ髪を引かれる思いの中、その場を後にして、何とか、親戚の家に辿り着いたんじゃ。薬など手に入るような状況ではなかったから、親戚の人は、胡瓜を薄く輪切りにして、火傷した背中に並べて、熱を取ってくれたんじゃ。時間が薬で、火傷は少しづつ良くなったが、頭の髪は、全部抜けてしもうた。そして、終戦を迎え、なんとか、実家に戻って来たんじゃ。」

父の話が終わると、母が、
「結婚するまでは、原爆を受けたという話は、教えてもらえず、結婚してから、原爆を受けていると教えてくれて、ショックだったが、こんな話は、初めて聞くがな。」と。

日ごろから無口の父の突然の話に、姉二人と私は、黙り込んでしまっていた。
 
原爆資料館の前に立った私は、正直に言うと、入りたくなかった。父もそう思っているなと感じたが、町内会の人たちが次々に入って行くので、続くしかない。

資料館の中は、父が実体験した世界だ。この中で、生き延びることができた父の運の強さ、そして、父が死んでいたら今の自分はいないということ。生と死を分けるものは何なのか。何とも言えない思いが浮かんでくる。父は、展示品を見て回る間、一言もしゃべらなかった。私も、黙り込んでいた。重苦しい思いを胸に、資料館から、外に出ると、現実の世界に戻ることができた。私たち親子にとっては、ここ広島は近寄り難い場所、長く居てはいけない、できるだけ早く離れなければならない場所のように実感したバス旅行でした。
 
バス旅行から帰り、何日か経ったある日、父が、土間の隅から何かを取り出し、「被爆した時に持っていた軍刀がこれじゃ。」と、私に見せてくれました。鞘から出てきたものは、ボロボロになった金属の屑でした。被爆後十数年が経っていましたが、想像を超えたその姿に、私は、「これが、本当に刀なんか?」と、父に聞きました。お爺さんが、父のために、当時としては、結構なお金を出して、買ってくれたものだったそうです。私は、心のなかで、思いました。
「お父ちゃんの身体は、鉄よりも強かったんじゃなー。」と。
 
今、思うのですが、日ごろから、無口で、食事も忘れて黙々と働く父の姿の背景には、原爆による火傷の痛みはもとより、後遺症がいつか出るのではという不安、また、自分だけが生き残ったという後ろめたさ、そして、少年を助けることが出来なかったという悔いがありました。妻や子供たちに心配を掛けたくないという思いもあったでしょう。平成27年8月21日、父は、永眠しましたが、爆心地に近いところで被爆したけれども、力強く生き抜いて、天寿を全うした人間がいたことを記すことは、子としての務めと考えます。

生前に伝えることはできませんでしたが、「あなたを父として持てたことは、私の誇りであり、私は、あなたが誇りに思うような子でありたいと、これからも自分の道を歩んでいきます。」
 
令和5年12月8日
 
  

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