1.氏名 鵜野文夫 生年月日 大正14年5月12日生
・昭和15年 15才 尋常高等小学校(海老塚)卒業
・同年4月 日本楽器(株)入社 同年10月退社
・同年11月 名古屋市千種区「陸軍造兵所、技能者養成工として入所」
(機関銃、小銃、38式歩兵銃の製作)
・昭和18年11月 大阪市守口 作4168松井清隊に入隊(高射砲の設置・実射)
高射砲の設置は371mの高台に設置のため、物資は全て人力で 運んだ。特に弾薬は木箱に
入っていて、荒縄で背負って転ぶと爆発するから気をつけろと言われた。荒縄が肩に食い込んで
痛かった。
自分は高射砲の砲身高さ(角度)調整の任務に付いた。
・昭和19年2月 神戸市明石 辻隊に入隊(高射砲の設置・実射)
高射砲の訓練中、瀬戸内海の漁船に照準を合わせていたところ、機雷に接触したみたいで漁船が
木っ端微塵に爆発した。
・昭和19年4月 兵庫県加古川市 辻隊移動
一度、故郷の浜松に帰ってきた。再度入隊したとき期限の 時間5分前に入ったが、遅いとひどく
怒られた。
お土産に持って帰ったものはほとんど上官に取られた。
・昭和19年5月 山口県正明市(長門市) 辻隊移動(芝居小屋に宿泊)
正明市は日本海側にあり、良く鯖が取れ朝から塩鯖を食べて いた。風呂は近くの民家(運送会社)
に借りに行った。
軍人さんにはとても優しかった。
2.広島に移動
※昭和19年8月1日 広島に汽車で移動、辻隊役35名(夜7:30ごろ到着)
・軍機密のためどこへ行くかは知らされていない。
・駅のプラットホームの看板で広島と確認した。
・駅から目的地へ向かう広島の町は一切戦災にあってない。町は焼けていない
・目的地は広島市鶴見町(駅から1.5Km)、目的は高射砲の設置
・目的地の周辺は到着が夜だったので分からなかったが良い匂いがした。朝、起きたら一面ぶどう園であった。
・高射砲を設置する場所は芋畑であったため、木の電柱を敷いて基礎を作る。
・寝泊りと食事はとなりの学校を利用した。
・一日の日課は6:00起床 6:30~7:00朝食 点呼して作業開始
3.原爆の投下日(1945年8月6日8:15)
・起床する前に『空襲警報』が発令された。
・全員、陣地に行くように命令(歩いて2分ぐらい)
・全員が集まって20分ぐらいしても編隊の飛行機が来なかった。(いつもと違う)
・『空襲警報』→『警戒警報』に変わったので、半分の人が朝食に、残り半分が陣地に残るように命令された。
(自分は陣地に残った。)
・原爆が投下される直前、自分は仲間の一人と二人で陣地(芋畑)で話をしていた。
・原爆の投下された瞬間、赤紫の光がピカッと光った。
・近くに爆弾が落ちたと思った。目と耳をふさいだ受身の体勢を取った。
・西の方を見たら、ものすごい火柱が上がっていた。その後、きのこ雲が確認できた
・一瞬、暑かった。(丁度、焚き火をしたとき、火に当たっている側の暑さ)
・気がついたら、自分の帽子は10数メートルは飛んでいた。
・ぶどう園のぶどうが飛び、芋畑なのに砂利を敷きつめたようにぶどうが散乱していた。そのぶどうを腹いっぱい食べた。
(美味しかった)
・いつまで待っても、次の爆弾は来なかった。
・投下された爆弾がどんなものか、ぜんぜん分からなかった。
・朝食に行った人は原爆の投下時、食事中であった。暑いので上半身、裸で窓側を背にして食事をしていたので、爆風で
窓ガラスが吹っ飛び、背中にガラスがささり、その状態はすさまじかった。
・その後、市内は一面焼け野原となり、遠くまで一望できた。
・中隊長から集合の合図があり、点呼と爆弾は新型爆弾であることを知らされた。
・我々の任務は高射砲で敵機を撃ち落すことで、民間人を救命しないとの話があった。
・食事は他の場所から運ばれていたので、昼食以降は何もなかった。
・朝食に行ってガラスで怪我をした人は15~16名で応急手当の場所へ行った。
・その他の人は怪我もなかった。
4.投下された次の日以降
・身内で死亡した人は施設での火葬ができないので近くの堤防へ行って火葬した。その時の匂いと言ったら「強烈な匂い」
だった。
・毎日の生活物資は1回/週、宇品(陣地から南へ約2Km)受け取りに行った。
・8月15日、終戦の日、天皇陛下のラジオ放送を聴いた。
・その後の任務は毎日、高射砲の磨きに明け暮れた。
・10月中旬、故郷の浜松に帰ってきた。
・浜松に帰ってから、髪の毛が抜け、身体がだるく、白血球が減少した。
(白血病の症状)医者から栄養価の高いもの食べるようにとの指導があった。
以上 |