●被爆前の生活
当時私は叔母(母の妹)・服部ハルノと二人で広瀬北町に暮らしていました。高等女学校に通っていましたが、学校で勉強したのは最初の一年間だけです。その一年間も、一カ月に一度、三日ずつ陸軍被服支廠へ行ったり、地方専売局(現在の日本たばこ業)へ行ったりして、そこで働く女性工員さんの仕事を手伝っていました。被服支廠では軍服にボタンを付ける仕事をしました。あとの三年間はずっと学徒動員で向洋の日本製鋼所広島製作所に行っていました。
横川駅から汽車に乗って向洋まで行きました。汽車はいったん広島駅で止まって乗客がいっぱいになるのを待ってそれから出発しました。当時学徒は座ってはいけないことになっていました。たとえ座席が空いていても窓際の隅の方で立っていました。
日本製鋼所では、手榴弾を造っていました。鋳物といって私たちが、枠の中へ土を入れて、たたいて鋳型を作ります。工場の人が溶かした真っ赤な鉄をひしゃくですくって、その鋳型の中に入れて冷やすと手榴弾の形になるのです。それに火薬を詰める作業は囚人がしていました。
私は好奇心旺盛でしたので、ある日、昼休みに昼食を五分で済ませ、友達と二人で走って工場の敷地内で立ち入り禁止になっている場所に行ってみました。一畳もないような小さな建物がずらっと並んでいました。午後の作業に間に合うように急いで戻り、工場長さんに聞いてみるとそれは囚人の作業場所で、手榴弾に火薬を詰める危険な作業を一人ずつ一つの建物でしているということでした。もし事故があって爆発しても一人の犠牲で防ぐことができるという仕組みです。
また、皆で並んで手榴弾を投げるための練習もしました。「敵が来たら、手榴弾を一、二の三で投げよ」と言われ、毎朝一回は練習していました。しかし今考えるとそれが何の役に立ったのでしょう。おかしなことでした。
作業ははだしになって作業着を着てしていました。靴がないのです。靴の配給は学校でクラスに一足くらいしかなくて、くじをして当たった人がそれをもらいました。その靴も革靴ではなく、布製のズックです。それでも私はくじには当たりませんでした。下駄を履いていましたが、当時の下駄は鼻緒が弱くよく切れました。服は叔母の物をもらっていましたので、地味なものです。また、着物を着ることも許されず、もんぺや上着に仕立て直していました。
歌は軍歌しか歌うことができませんし、外国の言葉も使ったらいけませんでした。ポケットは物入れ、スリッパは上履きと言いかえていました。音楽の授業で「ドレミファソラシド」もだめでした。修学旅行も運動会もなく、学校ではあまりいい思い出はありません。
●八月六日・被爆の瞬間
被爆当時、私は一七歳でした。女学校四年生の時です。第一月曜と第三月曜は日本製鋼所が休みで、八月六日は第一月曜でしたので、一人で家にいました。家があった広瀬北町は爆心地から約一キロという近距離でした。叔母は八時前に町内会から建物疎開作業に出掛けていました。
家にいても食べる物もないし、歌を歌ってもいけないし、何もすることがありません。「そういえば着たことのない新しいワンピースがあった」と思って、二階の私の部屋へ上がってワンピースを着て、一階に下りた瞬間です。光がぱあっと来て、ドーンという音がしました。それはそれはすごい音でした。
「何の光だろう?」と思った時には家が崩れて下敷きになり、気が付くとうつ伏せになっていました。その時、「何で痛くないのかな」と思ったら、背中にふとんが掛かっていました。なぜふとんがあったのか不思議でしたが、そのおかげで全くけがはしていませんでした。もし二階にいたら死んでいたでしょうし、たとえ死んでいなくてもガラス戸があったので、ガラスの破片がいっぱい体に突き刺さっていたと思います。
辺りは真っ暗で、家から出ようにも、どうしてよいか分かりません。よく見るとほんのりと明るい所がありましたので、それを目掛けて、はって行き何とか外へ出ることができました。家はもうがたがたで、いろいろな物が床に落ちている中をかき分けて出たので、半袖から出た腕には傷ができていました。
叔母の家が直撃に遭ったのだと思い、何でこんな家へ爆弾を落とすのだろうかと思いながら外へ出たら、夕方みたいに薄暗くてシーンとしていました。寺町の家や寺も全部なくなっていて、隣の家も家の裏にあった社宅もないし、これはただごとではないと一人茫然としていました。
●直後の惨状
しばらくして、建物疎開作業に行っていた叔母が、大やけどを負って戻ってきました。叔母はぼうっと立っていましたが、体の前側はきれいで顔も焼けていませんでしたので、「ああ、良かった」と思いました。ところが後ろ側がひどいやけどで、背中は上着やもんぺの布地が焼けてなくなり、縫い目だけが残ってはだか同然でした。しかし、もんぺの下にはいていた白い肌着は残っていました。そのおかげなのかお尻も太腿もきれいで、膝から下が焼けていました。
出会っても二人ともお互いに声が出ませんでした。声を出そうにも全く出ないのです。辺りは薄暗いし、家は崩れてなくなってしまい、「これは大変だ」と思っても、どうしたらいいか分からず、ただただ茫然(ぼうぜん)としていました。
近所の若いお母さんが子どもの名前を狂ったように呼んで、走り回っていました。子どもは遊びに出ていたのでしょうか。そのお母さんはなぜかはだかで服をまったく身に着けていませんでした。お風呂にでも入っていたのかなと思いました。
家から二、三歩歩いた所で「ウーン」とうめく声が聞こえました。声のする方をじっと見ますと、隣に住んでいた男子学生が家の下敷きになっていました。足の裏が見えて逆さになっているようなのです。何とか助けようとがれきをどけて引っ張りますと、すっと出ることができましたが、体の下側に深い傷を負っていました。
ここにいてもどうにもならない、とにかく可部(現在の広島市安佐北区)に向かって逃げようと叔母と二人で歩き出しました。可部にいる母方の叔父と叔母を頼って、助けてもらおうと思ったのです。横川橋を渡って、やっと横川に出たら、大火事でぼんぼん燃えていました。横川駅前まで行くと、「目が見えんよ、目が見えんよ」と大きな声で泣いている女の人の声がしました。また、「うんうん」と人のうめき声が聞こえました。私はそちらの方に向いて見ようとしたのですが、その頃にはなぜか首が曲がらなくなっていて見ることができませんでした。
●可部への避難
三篠のお宮の前に来た時に、大きな音がしてB二九が低空で飛んできました。今度こそ機銃掃射で撃たれると思い道端にしゃがみ込んでじっとしていました。見つかったらこれで絶対に死ぬと思いました。
音が小さくなったので、立ち上がって二、三歩歩いた時、雨がぱらぱらぱらと降ってきました。ほんの何秒かですぐに止みましたので、「ああ良かった」と思って歩いていましたら、その雨がもう臭くて臭くて、ガソリンか何かの油の臭いがしました。色は分かりませんでしたが、あれが黒い雨だったのではないかと思います。その臭いで、頭が痛く胸もむかむかして歩くことができなくなり、またそこに座り込んでしまいました。吐き気がして、何も食べていないし、飲んでいないので、胃液がちょろっと出てきて、それを吐いたらすっとしました。
頭痛はまだしていましたが、また叔母と二人で歩き出しました。お互いに声が出なくて、黙って歩きました。叔母の背中を見たら、背中全体が大きく水膨れになっていて、「はあ、すごいな」と思いました。歩いているうちにそれが破れて皮膚がだらんと垂れ下がり、さらに乾いてワカメみたいになるのです。平和記念資料館にあった人形そのままの姿でした。
叔母は厚手の足袋を履いていましたが、私ははだしで、十何キロも歩くうちに足の裏の感覚がなくなり、無意識にただ歩いていました。
●叔父に助けられる
八木峠まで来た所で、三、四人の男の人から「おい、乗れ」と声を掛けられ、大八車に叔母と二人で乗せてもらいました。「うわー、助けてもらった」と思いました。その時は気が付かなかったのですが、それが可部の叔父だったのです。近所の人にお願いして八木峠まで私たちを迎えに来ていたのでした。後から聞いた話では、可部の人が私と叔母を見掛けて「あんたとこの親戚の者じゃないか?歩きよるで」と叔父に教えてくれたそうです。
叔母と一緒に大八車に乗せられてからは、目がかすんで、ものを見ようとしてもよく見えませんでした。雨が降った時の油の臭いが消えなくて、とにかくつらくて、首も上に向けられないので横の方に向けて、人の声や音を聞くだけで、目をつぶって死んだようになっていました。
「学校へ行こう、学校が全部病院になっているから」という声が聞こえました。可部に学校は二、三校あるのですが、行ってみるとどこもいっぱいで、結局、可部から少し入った安佐郡亀山村大毛寺(現在の広島市安佐北区)にある国民学校に連れて行かれました。
広い教室でしたが、やけどやけがをした人がだんだん増えて、すぐに足の踏み場もないほどいっぱいになりました。叔父たちが畳とふとんを教室の中に持ってきてくれ、そこに叔母を寝かせました。私は板の床に寝て、収容されたほかの人たちも床に寝ていました。
●国民学校の負傷者たち
私はやけどもしていませんし、けがもそれほどひどくないので腕に赤チンをつけてもらいました。しかし大やけどしている人がたくさんいるのにやけどの薬は何もないのです。治療もしてもらえず、ただ寝ているだけでした。親戚の者が配給のキュウリやジャガイモをすって薬代わりに傷に付けてくれるのですが、叔母は「こんなことせんでいいよ、これやったってどうにもならんから、こんなもったいないことしないで。もう持ってこんでいいよ」と言っていました。
みな大やけどをして、「うんうん」うなっていて、特に兵隊さんは、体中にやけどをして「丸焼け」状態になっている人もいてかわいそうでした。夏だからハエがたかって、ウジが体中に湧いていました。叔母は、私がハエを追うから大丈夫でしたが、ほかの人は傷の所にウジが山盛りになっていました。看護師さんが、「先生、このウジ、どうしたらいいですか」と聞いているのですが、先生は「ほっとけ。ウジが膿を吸ってくれるから、ほっといたらいい」と言っていました。夜中になりますと、静かな中でウジが膿を吸うチューチューチューチューという音がするのです。寝ている床にもぞろぞろとウジがはっていて、地獄のような光景でした。しかし、当時は感覚が麻痺してしまって、そんなことは当たり前で、汚いとも気持ち悪いとも思いませんでした。ただ、横になっているだけでした。
教室にどんどん人が運ばれてくる中で、最後に入ってきたのが一〇歳ぐらいの女の子でした。その子は顔も体もけがをしていないのですが、裂けた大きな木が膝下に突き刺さって、とがった木の先が足首の上あたりにちょろっと見えていました。親も付いてなく、一人で泣かずに痛みをがまんしているのです。それでも、夜中に小さな声で「痛い」というのが聞こえてきて、本当にかわいそうでした。
その翌日に軍医の先生が女の子に「痛いか」と聞くと「痛いです」と答えていて、「痛うないようにしてやるぞ」と言って女の子を連れて出ました。学校の教室のどこか一カ所が手術室になっていたのではないかと思います。何時間かたって、その子が戻(もど)ってきた時、木の突き刺さっていた方の膝下から足がなくなっていました。あの子がかわいそうで、ずっと忘れることができません。痛いとも言わず、泣かずにたった一人でがまんしていました。
それと四〇歳くらいの女性で婦長さんでしたが、お尻にぐじゃぐじゃにガラスが立っている人がいました。教室の隅に寝ておられて先生がガラス片を一個ずつ取るのですが、それが痛いので、一日に四個か五個取ったら「もういい、やめて」と言っていました。「全部取るのに何日かかるのだろう」と思いました。まともに見たら悪いので、ちらちらとうかがうようにして見ていました。
●終戦
どこからの情報なのか、日本が戦争に負けたということは一五日の朝にはもううわさがあり、皆が騒いでいました。「正午に天皇陛下のお言葉があるので、患者さんも歩ける人は皆、講堂へ集まってください」と言われ、講堂で正座して初めて天皇陛下の声をラジオで聞き、終戦を知りました。もう皆が泣きました。天皇陛下がお気の毒なのと、これから先どうしていくのか、不安でした。
「女は髪を切り、男の服を着ろ」という話もありました。「米兵が来たら乱暴されるから、特に女は気を付けろ」と言われました。しかし「そんなことしても女は女だし、男の服なんかもらう所もないし、やられたらやられた時のことで、原爆で死んだと思えばいいんだ」と思いました。
●叔母の死
叔母のハルノが亡くなったのは、終戦の日よりも前でした。背中に大やけどをしていて、治療も薬もありませんので、とにかく寝ているだけでしたが、「これは危ないな、もうだめだ」という感じで、親戚の人も来たりしていました。徴用されていた広瀬北町の叔父は、叔母を捜して可部まで来ていました。ウーンとうめく声がしなくなり、静かになったと思った時、叔母は亡くなっていました。背中をやけどして痛むのに上を向いて寝ていましたので、亡くなった時は床まで膿がたまって、ふとんも畳もだめになっていました。
学校は小高い山の麓にあったのですが、学校の裏では、毎日、何かを焼く煙が出ていました。私が「毎日毎日煙が出ているけど、あれは何ですか」と人に聞いたら、「毎日人が死ぬから、毎日焼いています」ということでした。
日がたつにつれ、けがもしてないのに人が死んでいくという話が耳に入りました。「けがも何もない人が今日も死んだ」と聞くたびに不思議でたまりませんでしたが、いずれ私も同じように死ぬと思っていて、毎日朝起きたら、「あ、生きてる」という感じでした。
終戦から一週間くらいたって、収容されていた学校から退院しました。叔母のハルノが亡くなり、病気でもない私がいつまでもいるわけにはいきませんでした。退院した後は可部で一人暮らしをしていた別の叔母(母の妹)の家に行きました。
●戦後の生活
私は髪の毛は抜けなかったのですが、歯がゆるんでがくがくになりました。当時は食べ物がなく雑炊ばかりでしたので、歯ががくがくでも食べることには苦労しませんでした。しかし自分は死ぬのではないかという思いはずっと消えませんでしたので、せめて白いご飯をおなかいっぱい食べて死にたい、そうして死ぬことができたら本望だと思っていました。もう何年も白いご飯を食べたことがなかったのです。徐々に歯がしっかりしてきて治った時、これだったら生きられると思いました。
被爆後の体の症状としては、咳がひどかったです。いったん咳が出ると、なかなか止まらないのです。被爆した時、うつ伏せになっていたのが悪かったのでしょうか。何十年と苦労しました。夜中に寝ていても咳が出ますし、喉はガラガラいうしで、ずっと病院に通院していて、何とか治まったのは七〇歳になってからです。
また被爆してからはだしで歩き続けたせいなのか、今も足の裏が魚のうろこのようになっています。だから、ストッキングを履くとすぐ引っ掛かって破れます。
●平和への思い
被爆体験のことは、同じ被爆者同士なら分かり合えても、経験したことのない人にはどう話しても分かってもらえませんし、理解できないのが当たり前だと思うのです。だから一切話さないほうがいいと思っていたのですが、最近になって甥が「おばちゃん、どうしても話して」と言うので、このたび話すことにしました。
八月六日の原爆の日には、国民学校でたった一人で痛みをこらえていたあの女の子のことをいつも思い出します。何十年たっても、どうしても涙が出ます。あまりにもかわいそうでしたから。今元気でおられたら八三、四歳でしょう。足がなくて随分苦労されたと思います。泣きながら原爆の日を迎えています。 |