長期にわたる梅雨もどうやら明けて 昨今は天気もよくなり快晴のこの日 忘れることの出来ないのはあの原爆だ
あの日は 天気は最高快晴の日、
私は 当日は広島県賀茂郡の賀茂海軍病院の薬剤部薬局の勤務であり 部員は十二名(内女子四名)であり 当時は 戦争は増々はげしくなり 我本土空襲は連日でありました
我等の勤むる薬剤部は全く忙しくて 夜午の別なく山岸中佐以下全員調剤に一生懸命でした
食事かて交代であり それぞれの部隊へ発送する 又間に合ないので直接に受けにくる部隊もあり 又病院入院患者も多数でほんとうに忙しい毎日でした
処が、あの広島に原爆の投下されしは午前十時頃だったと覚えています
はるか西の空に一瞬の白色の光を見ました、
するとすぐ後で西の空に大きなキノコ雲が浮び上り とても大きなものでゆっくりと東の方へ流れていきました
当時は部内では原爆なんてのものはだれも知りませんようでした
それから十分間位いの時間が経たとき 病院のマイクスピーカが鳴り 副官の声であることが はっきりと病院の全員に急報する
唯今広島に新型爆弾が投下されて 其の被害は大きて死傷者多数であり総員庁舎前に集合せよ の放送あり全員急虚庁舎前に整列した
指令台の上にはすでに病院長さんが上って居られた
院長は椎名軍医中将でありました
院長氏の話によると 我本土も空襲され広島は壊滅状態となり 本病院は唯今より先般来の編制されている通り直に救護体制に突入する
全員各部の長の指揮に従ひ行動せよ とのことで開散す
私は薬剤部へ戻り部長の命を待つ
やがて山岸部長が来られて命を待つ
部長氏の命令 我が薬剤部は出勤しない而しながら数万の人が死に または「キズ」で苦しんでいる故 本日は徹夜の作業治療剤の作成だ、
第一線の前線を思へばこんなことぐらい出来る
直に調剤にかかれ とのことで作業開始
思へば、あの当時は治療用薬品はなかった
少ない材料であったので困まりました
部長さんの処方箋により作り上げた のます第一号は消毒薬でありました
オキシドールは全く少なくて あの肥料用の尿素でありました
強心剤はアンプルがあり リバノールもありまして 薬品は次々に調剤されていました
その時は薬剤部の玄関には多数の救護隊が治療品を受け取りにきて居りそして次々に広島へと出発して行きました
夜明の頃だったと思いますが 救護の自動車が帰ってきました
車の「ボテ」には患者満員であり、 いたみがひどくて弱っている人 泣いている人で 手の付けようがありませんでした
次々に入って来る自動車は患者で一パイ
担架にのせてもらって来る人の数は大変な人でした
元へ戻りますが賀茂病院は 昔安藝の殿さんの土地であり広い練兵場であったらしい
面積にしてどれぐらいあったか分りませんが とに角広い土地であり それに半分ぐらい松林でありまして 夏場はとてもよい淋し所でした
収容した患者は全員その松林に下されて何列にも並べられていた
そこで副官の診断により それぞれのキズにより それぞれの病舎へ衛生兵により運びこまれて行く
途中で息のたへる者あり なきさけぶ子供女の人 それは全てあわれで見るも可愛そうでした
何て原爆でしよ、
大半は「やけつり」で体中赤くなりただれていて とても素手では扱へない体になって居た
すでに死していた人はすぐ火葬場へ行く人になる人も多数であり 唯自分の体に付けていた名前だけ記しているだけの人ばかりだったので 記録に困りましたようでした
病舎へ入りすぐ息のたへるものも相当あり 全く戦場のようで 時のたつのも分らず 其の当日から四、五日間は「ねる」ことも出来ず 交代で休み 我々衛生兵薬剤部も応援で とても筆舌に表せられない収容でした
連日の収容患者の処置治療等で病院は全くの多忙で 面会や護送と それぞれの処置で各部の部長さん始め部員と兵隊の配置で 指揮者は困られたものと思います
私も第三号病舎に交代で勤め 私は薬局で勤務
午前中は調剤 午後は病舎務でありました
その後二、三日経た時 上官が おい中村お前も一度広島へ行って来いとのことで 私も一度広島の惨情を見たかったのて行きました
賀茂病院と広島は近くて車で四時間あまりていけたので行きましたる処全く被害は云いようありませんでした
唯すべてのものは真黒こげで 家なんか姿なし 気車まで真横にたをれてこれが気車かなと思ふ程のものであり 道路は寸断 橋もめちゃくちゃ
其の当日でも人は居りましたが あはれな姿
子供を連た人が居ましてな 兵隊さん何か食べるものを と云ってくる人も多くあり 軽いけがの人も居ました
肉身を求めている人もあり 特に子供は可愛そうでした
私達の車も患者で満員となり 車にのせて賀茂病院へかへりました
私も 其の夜も病舎勤務でありました処が たしか午後九時頃だったとおぼえていますが 一人の患者が兵隊さん私の耳を視て下さいとのことで見ましたる処 ただれた耳の中にウジ虫が十数匹いましたので取り除いてやり 又脊も見て下さいとのことで見ました
これも又ウヂ虫が多く居り取り除き消毒してやりました処 隣のベットにねていた人が突然死亡
早速軍医さんに診察を受けて 死亡と云ふことで火葬場送りになった
そのようなことで 各病舎から死亡者多数によりて火葬場は満員であり今でこそ近代設備によって処置がされますが あの頃は棺に入れられた人は 丸で魚でも取扱ふようなもので 松の木の生の割木で焼かれて ただ氏名だけ分っていて 家族の来ている人は別として 全くおそまつな処置でした
あの時は 兵隊だけでは人員が足りませんだので地方の人も応援を受けました
このようなことは毎日行れて ほんとうに哀れな処置でした
あれを思い出すと 私も唯今記していますが 涙涙です
あのような事は 今後は絶対に起こらないように あの一発の原爆により あのような悲惨な事の起こらないように 世界中に訴えなければならないのです
広島の七万有余の人命とを失い 又家財すべてを失なったあの現場を 私は唯今思い出して記しています
あれから四十三年前の八月を思い出すと ほんとうに涙なくしてはいられません
広島だけではありません
長崎にも投下されて ほんとうに犠牲による爆死 みじめな事ではありませんか
そのようなことで 現在世界中の人達が原爆絶対反対で各国共立上って居るのです
今尚残る思いを 今日の記念日に当り私の思い出を記して見ました
終
昭和六十三年八月
中村政助
追伸
あのような惨状から 広島さんや長崎さん 今日のようによう立直って下さったことに感謝いたします
拝 |