林 恒夫 昭和4年3月18日生まれ
父(彦太郎 当時57歳)の面影 私が3歳の時に死去 聞く話
それまでは広島市堀川町で林薬局経営 番頭、店員、女中のいる市内の薬局では1~2位の大き目な店舗であった。 納入先は軍隊・日赤・清病院が主 父の死去後
祖父(駒井栄次郎)と母(エイ)は途方に暮れ家を転々とした。
小学校1年は千田小学校 2年~4年は舟入小学校 5年~高等科2年は三篠尋常小学校 卒業
祖父は家で内職 母は中国製薬(株)勤務 苦しい生活で母は再婚
秋末嘉市との生活は4~5年 死去
彦太郎(前妻) ヤス子 大正9年1月23日 48歳 釋尼愛寿 平田屋町
長男 彦芳 大正9年9月16日 釋速 堀川町
長女 芳枝 大正15年5月31日 2歳 釋尼澄浄 堀川町
二女 房枝 昭和2年3月2日 3歳 釋尼妙究 堀川町
父 彦太郎 昭和7年5月16日 57歳 釋浄行 堀川町
次男 利三郎 昭和11年9月14日 16歳 釋利行 中広町
祖父 駒井栄次郎 昭和20年8月7日 80歳 原爆死 中広町
原爆直後 中広町で建物の下敷きになり全身火傷を負い恒夫が発見
救助する。水が欲しいとのことだったが、水を与えると死んでしまうと思い我慢をさせた。寝る場所もなくトタンに体を乗せ防空壕で夜中を過ごす。恒夫も疲れていたため、そばで寝ていたが翌日息を引き取った。
その為、遺体を引きずり焼き場へ向かうが、死体がいたるところにあり兵隊さんに遺体をどのようにしたら良いかを聞くと、「その辺に置いておいてくれ。」との返事 その場で放置したが、今になって後悔。 遺骨もどこにあるか分からないままである。
母 エイ 昭和51年8月23日 80歳 釋尼妙永 安古市町
母は市役所に配給ものを取りに市役所へ行っていた。そこで原爆に合い熱風と暑さで、市役所の池に入ったがまるでお湯になってさらに熱いため、そこから遠い親戚が廿日市にあったことで、そちらに向かったとのこと。途中で履物も暑さで溶け足にはひどいやけどを負っていたとも言っていた。恒夫と再会したのは、数日たってのこと。
田治昭子(旧姓 林) 3女 昭和2年6月27日 令和5年現在96歳
姉は学童で少し離れた場所で奉仕していたが、原爆で、やはり負傷を負い手当をしてもらい 数日経って恒夫と再会
現在(2023年11月12日)は姉の田治 昭子のみ生存
1937年 昭和12年 恒夫8歳
支那事変は大勝利の報告 ラジオから流れる重要都市陥落時には市内一斉に旗行列・提灯行列で賑わっていた。 上海・南京から次々勝利 しょうり ショウリ
護国神社周辺では夜店が立ち並び賑やかな1日が続いた
日本人は負け知らず
1941年 昭和16年 恒夫12歳
12月8日 日本軍は米 ハワイ島真珠湾攻撃し自ら戦争をおこした。
暗号電報で攻撃を命じた 山本五十六 ニイタカヤマニノボレ
ハワイ島の朝は静かで平凡な暮らしの矢先 日本海軍海兵隊は現地12月8日未明真珠湾に奇襲攻撃を行い多大なる損害を与えた。 その戦争はあまりにも無残であった。そのきっかけに始まったのが太平洋戦争であった。勝つことすら知らない日本帝国は無茶苦茶 段々と逆方向に進んだ。 慌てた国民は床下に防空壕を掘り 男性は柔道・剣道を女性は竹槍・薙刀の教育を受け本土決戦の構えをした。
1943年 昭和18年 恒夫14歳
姉は祇園女学校に入学
恒夫は祇園町の東洋機械(株)に入社
1945年 昭和20年 恒夫16歳
姉は祇園女学校3年 学徒動員であった
恒夫は祇園町の東洋機械(株)に入社 1年後西日本重工 翌年に三菱重工
この会社は定時制高校が併設され1年生から4年生まで寮に入り卒業後は実家から通勤できる大きな期待があった。
寮は5棟 仁・義・礼・智・信で各32室 1室3~4名 全国から入社
恒夫は智寮27号 同室は4年生3年生1年生2名で暮らした。親切で優しい人でした。
1945年
2年生で1号室に転入 ラッパ手の部屋で4年生 3年生(私)と他2名
3年生の上級生はやさしい人でラッパの音もきれいな音でした。1人の2年生は毎夜各部屋に呼ばれ泣いて帰っていたが終戦後は退社
原爆の日から
8月6日
学校の朝礼 全員集合で「海ゆかば」を合唱 疎開先の勤労奉仕先発表
広島市内中心部もしくは可部方面 私は可部の寺山で機械の疎開手伝いと決まる。
今のJR可部線の祇園駅から可部駅へ向かい徒歩で20分くらいの寺山へ。この山には防空壕を掘り工作機械を保管していた。早々大八車を引っ張り大毛寺の塗料店へ荷物を受け取りに向かった。大八車に積み込み中 広島市内の方向上空にピカッと光る。そのあと瞬間的にドーンと大きな音。一緒にいた名古屋出身の人は照明弾かな?空中爆弾かな?と私もなんだろうなと思っていた。 時計もなく時間もわからないまま上空はキノコ型の雲、入道雲? 一面暗くなったと感じた。誰かが可部警察署に電話できくと長束と祇園の間とのこと。私は祇園の会社が爆発したのかな?と思った。数分後広島の上空に3個の白い物体(落下傘の様子)が風と共に可部方面に向かっていた。 大毛寺付近では人で騒めきあう。地元消防団員が近寄ってきて「子供は逃げて」の声。我々は大八車で寺山まで戻りました。
大八車を引っ張り寺山に戻った。その間約2時間の経過だったと思う。荷物はそのままにし、会社からの弁当を食べて会社に戻ることにした。
帰りは交通機関もなく数名で歩いて帰ることになった。途中自転車に乗った人が、その人は中広町から逃げてこられた胡麻のおじさん。(私の実家は中広町であった)中広町の様子を尋ねると「町一体は煙が立ち込め火の車だ」とのこと。ますます家が心配になったが取り敢えず会社に戻ることになる。
可部から市内に行く人は誰一人見当たらなく、北方面にはトラックが数台荷台に負傷者を乗せたのを覚えています。古市町付近から家など爆風で壊れているのを見かけるようになりました。無事 祇園の会社に戻ることができました
会社内は窓ガラスが爆風で壊れ戸惑いみんな協力しながら片付けて居られました。当然食堂内も窓は壊れ全員昼食は食べていない人がほとんどで汗を流しながらの作業中でした。
戦前から機械工場は南向きに建てられ南側窓が多く明るい感じがありました。また地面もコンクリートでその上に木煉瓦を敷き詰めてあり、体の疲れも最小限に治まるよう工夫されていました。しかしながら今回の爆風で窓ガラスは爆風で破壊され、一時も早く再建が望まれたため、木煉瓦も次々処分(爆撃で火災が起こった時延焼しないため)され冬場のストーブ燃料とされました。そんな状態でまだ昼食も取っていない人が多く驚きました。
私は実家のことが心配でひとまず中広町まで帰ることに、打越町の友人とともに出発。町は道路が遮断し、裏道で帰ることになり、三滝町に戦前からある陸軍病院があり、その付近の竹やぶから何人かに声を掛けられる「〇〇さん 私はここに居るから伝えて」と見知らぬひとから声を掛けられるため戸惑いばかり。中広町に帰る道では太田川(本川)を渡るしかないが、その橋は全滅(中央橋・広瀬橋・一本橋) 小網町の市電専用鉄橋しかなく山手橋を渡ることにした。しかし半分壊れ途中 川の中に入り膝まで浸かりながら やっと土手にたどり着く。中広土手から我が家を見渡したが煙・靄で見ることができませんでした。道なき道を進み家の近くの防空壕までたどり着きました。その防空壕は広瀬小学校の畑の中にあり、そこから姉が出てきたので再会しました。
姉は爆風により割れたガラス片が飛び散り右腕を負傷したようです。出血の激しい中包帯・薬さえなく止血のみになりました。祖父は外でしょんぼりと座り、全身火傷で苦しんでいました。丁度天ぷら油を地面に埋めていたことを思い出し油瓶を探し塗ることにしました。手足腰を触るとズルット皮膚の皮がむけ痛みがふかそうでした。近くで拾ったトタン板の上に乗せ移動できるようにし、防空壕の中へ運び一夜を過ごしました。夜も祖父のことが気になりなかなか眠れない日、祖父は「痛い、痛い」と夜どうし声をあげ夜中は寒く何もできない時間でした。うとうとしながらの夜でした。
8月7日
祖父は全く動くことなく、壕の中は臭く死んでいました。外に運びだし処置に困り近所の人に協力をお願いし4人で担いで道なき道を歩き戦前からの焼却場(向西館)まで運んでもらいました。朝早いため受付もなく広場には無数に並べられた遺体がありました。その列に並べて帰りました。 今思えばなす術も無く心に穴の空いたようで申し訳なく思っています。20年後に京都の叔父さんからまだ生存したことになっていると連絡が入り、死去の届け出をしました。
食料もなく母のことも心配でいると、母の友達が市役所の近くでみたとの情報があり、そこへ行ってみることにしました。一面は焼け野原で遺体ばかり散乱、小網町の市内電車の鉄橋を渡り相生橋西口で大勢の学徒動員の人達が竹竿で川から救助しているのを見て通りました。本川小学校の対岸からもざわめきが聞かれました。市役所付近では外でおむすびを配っているのを見かけ、急いで行きおむすびを食べた。何個かもらい近所の人に食べてもらいました。焼け跡を歩いていると一羽のニワトリが卵を産んでいるのを見つけ持ち帰り近所の人に調理してもらい食べました。水道水はなく、井戸の水をくみ上げ洗い食べるのですが臭くて食べづらかったことも思い出します。この夜も防空壕で一夜を過ごす。
8月8日
朝から市役所に食べ物をもらいに行く。相生橋西口では遺体の山で川から引き揚げが続いていました。本川小学校対岸も引き上げた遺体を山に積み上げ油を掛け燃やしていました。帰り道天満町付近であろう缶詰工場が延焼中で、密柑の缶詰が散乱。水分のある缶があったものを数個持ち帰り近所の人にも配り、食べた。その甘さは今も忘れられない。
相生橋西詰の付近は多くの学徒が作業に繰り出されピカの光線で川に飛び込み男性は下向きに、女性は上向きの姿は今も忘れません。中広町の我が家から産業奨励館の丸い屋根がよく見えました。
被爆者の多くはそれが習い性となったらしい。ピカを知らずに暮らし、放射線は浴びた人々の体に次第に蝕んだ被ばくという過去をあぶりだしていった。
爆心地から約2キロメーターの中広町の自宅で下敷きにならず、助かり20歳で天涯孤独にはならなかった。
8月9日~14日 日にちが定かではない。
母と姉が突然中広町に現れた。事情を聴くと2人は五日市の伯母さん宅に行き3人を非難させてほしいことをお願いしたが3人は無理との返事で帰ってきたようです。
現在佐伯区の光禅寺を紹介された。そこには新兵さんらしい人達が収容され治療等を受け亡くなる人もいて3度の食事のおかずのあまりをおすそ分けしてもらったことも思い出します。
定かではないが中広町から会社に出勤し、帰りは横川駅に貨物列車が停車していた。これ幸いと思い、五日市駅に無料で行けると判断飛び乗り発車。列車は各駅に止まらず幾度となく飛び降りようとしたことがありましたが結局岩国駅に到着。帰りは切符には限りがあり配給制で困っていました。その時兵隊さんから声を掛けられ「どこまで行くの?」と優しくいってもらえたので「五日市までです」と答えた。切符は手に入り兵隊さんと一緒に無事に五日市まで帰ることができました。また親切にお寺の道順を教えて頂き、無事にお寺に着くことができました。兵隊さんには感謝しています。
8月15日
朝 起きるとお寺の庭から岩国であろう場所が空襲で爆音が鳴り響き、燃え上がる煙に驚きました。
昨日岩国にいてあの兵隊さんに会わなければ私はこの世にいなかったかもしれないと思っています。
昼にはラジオから終戦の知らせが入りようやく終戦を向かえました。
今思うにこんな戦争は二度と起こしてはならない。若い人たちに伝えたいことばかりです。 被爆者の多くはピカドンに遭った過去を思い出したくなく、放射線を浴び 市内を右往左往した自分が今ここに。長く生きてこられたことにも感謝感激です。
このまま戦争が続いていれば私も赤紙が来て戦争に出動していたかもしれないとも思っていました。
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