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私の被爆体験 
髙丸 晃(たかまる あきら) 
性別 男性  被爆時年齢 2歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2023年 
被爆場所 広島市南観音町[現:広島市西区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前のくらし
私、髙丸晃(たかまるあきら)は、1942年(昭和17年)9月6日に広島市南観音町で生まれました。
 
当時、父・儔(ひとし)は、近所の広島図書という印刷会社に勤めており、軍需工場のような指定を受けて、本を作っていました。
 
絵本が中心の印刷物の会社で、後に、佐藤(さとう)ハチローや有名な詩人の絵も印刷し、結構幅広く販売していました。
 
母・泰子(やすこ)とはその印刷会社で知り合い結婚し、その後、母は家庭に入りました。
 
1945年(昭和20年)2月には弟・公道(ひろみち)が生まれ、家族4人で暮らしていました。
 
当時の一番の思い出は、島田(しまだ)のおばさんと吉川(よしかわ)のおじさんにたいへんかわいがってもらっていたことです。島田のおばさんは、二つ川向うの住吉町に住む母の妹でしたので、私はよく一人で遊びに行っていました。吉川のおじさんは、一つ川向うの舟入界隈に住む母の弟で、3人の娘がいました。母とこの叔母、叔父はたいへん仲が良く、しょっちゅう家に来ていた記憶があります。
 
●8月6日の出来事
私は、2歳と11か月でした。
 
その日の朝は、弟と二人で家にいましたが、8時10分頃、弟が余りにも泣くので、私は近所の川土手で勤労奉仕の水汲みをしている母を呼びに行きました。
 
水汲みは町内の当番制で、その日は母の当番日ではありませんでしたが、近所の人に「代わってほしい」と頼まれ、「いいよ」と言って、代わったそうです。水汲みをしていた母や町内の人たちは、川の水をバケツリレーで川土手に置いてあった防火水槽に運んでいました。防火水槽は、木製で酒造会社にある大きな樽のようなもので、高さは母の背丈の3倍位、直径は3メートル位あり、空襲の際の火災予防のため、各町内会が持っていました。
 
私が川土手で水汲みをしている母に「弟が泣いてる」と伝えると、母は「(弟は一人だから)すぐに帰れ」と言うので、急いで走って家に帰りました。
 
家に入ると同時に原爆が落ちたようです。大きな音がしたという憶えはありませんが、屋根に大きな穴が開いていた、その記憶だけははっきり残っています。我が家は崩れておらず、周りの家もぐちゃぐちゃになった家はありませんでした。
 
その時は、何が起こったか分かりませんでした。
 
原爆が落ちたとき、母はバケツリレーの一番前に立って作業していました。たいへん熱かったのでしょう、すぐに水の張った防火水槽に飛び込んだそうです。それでもひどいやけどでした。帽子をかぶっていたので顔は大丈夫でしたが、体の前側、顔から下の三分の一をやけどしました。母がバケツリレーの先頭で壁になっていたので、後ろの人はあまりやけどをしなかったのではないかと思います。
 
父は無事で、昼までに会社から帰ってきました。
 
近所の小学校が避難所になっていたので、そこに4人で避難しようということになりました。
 
これは、戦後随分たって、先に父が亡くなり、母が一人になってから、私の娘・橋本友子(はしもとゆうこ)が母の家に行ったとき、母が娘に語った話ですが、母が言うには、原爆が落ちた瞬間、水槽に飛び込み、浮き上がって水槽の縁を掴んでいるとき、指に何かが当たって薬指の第一関節がぐちゃぐちゃになり、「これはほっといたらいけん」と言われて、お医者さんではない人にその場で薬指を切り落としてもらったそうです。
 
私の娘は、おばあちゃん(母・泰子(やすこ))の左の指の先がないことをずっと不思議な感じで見ていたそうです。母は、娘に当時のいろいろな話をしてくれていたようです。
 
●避難所での生活
避難所となった小学校には2、3か月いたように思います。運動場には亡くなった人を焼く大きな穴が開いていました。夜に亡くなった人を毎日のように莚(むしろ)の上に並べて、翌日、その大きな穴で5、6人を焼いていました。今でもそれを覚えています。
 
弟はまだ乳飲み子で、母はやけどで寝たきりの生活でしたが、やけどの身でありながら弟にお乳をやっていました。避難所で生活し始めてから、何日目か分かりませんが、早い時期に弟は亡くなってしまいました。遺体はその小学校の運動場で焼きました。
 
父やほかの人は「原爆にあった母のお乳を飲んでいたせいで弟は亡くなった」と言っていました。私もそう思っています。弟はやけどはしていませんでしたが、すぐに母のお乳を飲んだので、それが影響したのではないかと思っています。その時の弟への感情というのは、いつのまにかいなくなった、という感じでした。
 
私の娘が母から聞いた話では、母のお乳は出なくなっていて、牛乳を買っても暑いし冷蔵庫もないので腐ってしまう、食べるものもない、そのような状況で、弟は、母の出ない乳を吸って、栄養失調で亡くなったのではないかということでした。
 
体の前側を大やけどし避難所で寝たきりだった母は、やけどの場所にウジがわき、それを父がピンセットでしょっちゅう取っていました。薬をつけたり、持ってきたりしていたので、お医者さんはいたのではないかと思います。母はそんな状態だったので、周りから「だめだろう、次の番だろう」と言われていました。もう見込みがないグループの人数の中に入っていて、莚の上に並べられることになっていたのではないでしょうか、いよいよ明日は母の番と言われていたそうです。
 
しかし、父が福島町の友人から肉を譲ってもらってきて母に食べさせると、母は見違えるようにみるみる元気になりました。
 
それからというもの、父は度々友人から肉を譲ってもらって帰ってきました。そのお陰でしょう、それがなかったら、母は莚の上に並べられていたと思います。その後、母は87歳まで生きました。
 
●避難所から自宅へ
2、3か月後、避難所から南観音町の自宅に帰りました。屋根は修理したのだと思います。周りの家も同じようでした。
 
母は元気になりましたが、1年位は寝たきりの状態でした。皮膚がただれ、体の前側がひどいやけどだったので、両腕の上部と胸がくっついていました。月日が経つにつれ、次第に体を動かせるようになり、初めに自然に右腕が離れ、次に左腕が離れて、元通り自由に動かせるようになりました。
 
その後、1947年(昭和22年)3月に弟・富一(とみかず)が生まれました。
 
自宅に帰って2、3年後、死んだものだと思っていた父の弟・弘(ひろむ)さんが、満州(まんしゅう)にいたと思われるのですが、外地から夜中にひょっこり帰ってきました。
 
それから弘さんとは当分一緒に暮らしました。
 
南観音町の家には、戦後3年位住みましたが、家は父の親戚である呉のおばさんという人から借りて住んでいたので、その人から「出てくれ」と言われて、父は住吉町に家を買ったと聞いています。
 
●自転車屋を始める
被爆から2~3年が経った頃、父は「今からは自転車だろう」と自転車屋を始めました。全くの素人でしたが、当時は自転車がないものですから、吉島にあった飛行場辺りの会社に通勤する人の足として、随分繁盛しました。私も2台を一時に運転して、よく納品に行きました。父の目の付け所は良かったと思います。
 
●「巴紙工(ともえしこう)」を興す
昭和33年(1958年)、印刷会社にいた昔の仲間と3人で、紙箱を作る「巴紙工(ともえしこう)」という会社を、自転車屋と同じ住吉町で始めることになりました。資金は全部父が出し、父は自転車屋をやりながらで、初めはあとの二人が中心となってやっていました。
 
しかし、頻繁に二人が「お金が足らん、足らん」と父に言ってくるので、そのうち母がしびれを切らして「あんたがおらんにゃあだめよ」と言ったこともあり、とうとう10年続けた自転車屋を止めて、紙箱作りに専念することにしました。
 
●原爆による健康被害
「原爆の子の像」の禎子(さだこ)さんとは同級生です。
 
周りにも白血病でぱらぱらと亡くなる同級生がいました。禎子さんは幟町小学校から幟町中学校、私は大手町小学校から大手町中学校へ進学していました。中学生のときに、市内の生徒会の仲間で「原爆の子の像」を作る募金活動をしようということになり、私も生徒会に入っていたので、福屋デパートの前で募金活動を始めました。 それが全国ネットで放送され、マスコミに取り上げられると500万円がすぐに集まりました。
 
原爆では、お年寄りも亡くなりましたが、禎子さんのような若い方もあちこちで亡くなりました。禎子さんも、原爆に遭って12歳で亡くなりました。
 
あの当時、特に女の子は苦労したのではないかと思います。結婚問題で、何か言われたりすることもあったようです。4人か5人アメリカへ行って、ケロイドの手術をされた中に、一人知っている子どもが同じ町内会にいました。でも、あまり治っているようには見えませんでした。
 
私は、原爆症のために体が悪くなったり、早い時期に調子が悪くなったりということはありませんでした。私の家族や島田さん、吉川さんの家族、親戚にもそういう人はいません。身近では母のやけどが一番ひどかったように思います。
 
周りにも被爆者がぽろぽろいたので、自分自身が原爆に遭っていることで、引け目を感じることはありませんでした。記憶に残っているのは、近所のお年寄りがぽろぽろ亡くなり、「あのおばあちゃんはあれじゃったんじゃ」と、何人も「原爆のあれで死んだんじゃ」と言っていたことです。原爆で亡くなるのはびっくりするような現象ではありませんでした。
 
当時、原爆の何が影響して亡くなるのかは分かりませんでした。ひどいやけどを負った人も、近所には何人もいました。
 
●被爆者健康手帳のこと
被爆者健康手帳は、戦後24年が経って1969年(昭和44年)に父母と一緒に取得しました。
 
手帳を取得してからは、毎年1回、比治山のABCC(原爆傷害調査委員会)へ行って、健康診断や血液検査を受けていました。
 
毎年、電話がかかってきて、タクシーが迎えに来て、検査が済んだらまたタクシーで送ってもらう、ということを繰り返していました。検査は10年位続き、診断結果は、毎回異常なし、ということでした。その電話がかかってくる前までは、他の被爆した人には電話がかかってきていて、私には声がかからないな、と思っていたのを覚えています。
 
●自身の病気のこと
年をとってからは、入院は時々しています。一番早く病気になったのは狭心症(きょうしんしょう)で、50代の頃でした。
 
15年前には、脳梗塞(のうこうそく)を一回経験しました。
 
晩に座ってテレビを見ていた時、何かおかしいと感じ、近くの病院に行くと、「もうちょっと詳しい検査ができる所で診てもらいなさい」と言われ、沼田の日比野病院へ行きました。そこで、「梗塞ができている」と言われ、入院しました。それから毎日点滴しました。幸い梗塞はそれほど大きなものではなく、できた箇所も良かったようで後遺症はありませんでした。
 
ある時、定期的に受けていた通常の検診で、「前立腺がんの疑いがあるから平和通りにある平和クリニックで検査を受けてみませんか」と言われました。検査の結果、前立腺がんであることが分かり、現在、市民病院の泌尿器科で治療中です。
 
最近、治療薬が効かなくなり、抗がん剤も耐えられないぐらい本当につらく、体力的にも手術ができないので「転移して痛くなったらどうしますか」という様子見の状態です。
 
特に、この1年半は入退院の繰り返しです。79キロあった体重が一時55キロまで落ちました。
 
最初の入院が去年の8月で、原因不明でずっと入院していて、結局、この入院が一番長かったのですが、今年の3月に退院しました。
 
他にも、圧迫骨折を3回して入退院を繰り返しました。この圧迫骨折の影響は大きかったかもしれません。
 
1年半前までは、とても元気でした。
 
血圧がなかなか上がらない時期があり、祇園の野村病院に入院して、最初は6か月位入院しました。退院してすぐに、朝、急に意識が分からなくなって救急車で病院に運ばれ、また6か月位入院したこともありました。
 
これまで罹った病気と原爆が、どう影響しているのかは分からないのですが、毎月いただく原爆手当の金額が上がっているのは多分がんを患ったからだと思っています。
 
私は、原爆が落ちて、いろんなことをかいくぐって生きてきているので、病気と原爆には関係があると思っています。
 
子や孫への遺伝がとやかく言われていましたが、私は子や孫への遺伝は考えていませんでした。
 
●父・儔(ひとし)の死
父の死は本当に急でした。
 
死因は心不全でした。それまで舟入病院で入退院を繰り返していましたが、いつも元気になって退院していましたので、最後に入院したときも、また元気になって帰ってくるんだろうと思っていましたが、亡くなってしまいました。その日、父は「フラワーフェスティバルを見に行く」と言って出て行き、道路に倒れこんで自分で動けなくなり、座り込んでしまって、救急車でそのまま病院へ搬送されました。最後は、何日間かの入院でした。父は85歳まで生きました。
 
●母・泰子(やすこ)の死
母は本当に元気な人でした。病院へ行くのが嫌い、という理由もあったのかもしれませんが、かかりつけの病院もなく、かかりつけの薬局の薬だけで病気を治す人でした。そんな母も、父が亡くなってからは認知症となり、横川の長崎病院への入退院を繰り返し、最後はそこで亡くなりました。87歳でした。
 
●折り鶴の再生
私たちの会社が紙箱を作っている関係で、市長が松井市長に代わってから、広島市の方から何回か呼ばれました。市から、原爆の子の像に捧げられている折り鶴を保管する場所に困っており、有効利用したいので、何か提案してほしいと頼まれました。前の市長の時代、折り鶴は全部、市内5か所位の倉庫に運ばれ、倉庫いっぱい貯められていました。
 
私たちが、折り鶴を解体して折り鶴ペーパーを作ったらどうかと提案したところ、市から「試してみてくれないか」と言われましたので、早速福祉事業に携わる団体として「おりづる福祉会」という一般社団法人を立ち上げ、市内各所にあった大量の折り鶴を引き取ることになりました。広島周辺だけでは扱うことのできる量が限られるため、これは全国区で扱う活動になると思い、名古屋市にある、紙の仕入れ会社クラウン・パッケージの専務に電話をかけ、手紙を送りました。すると、その専務は「おもしろい」と関心を持たれて名古屋からわざわざ来られ、「今、うちでは東南アジアで椰子の実の殻を砕いて紙にする事業をやっており、この事業に合致するからやりましょう」と賛同してくれました。専務には本当に感謝しています。最終的には、大手旅行会社の近畿ツーリストも参画してくれ、修学旅行で広島に来る全国の小学校に折り鶴ペーパーを配って平和学習をしてもらい、広島へ持ってきて捧げてもらう、というリサイクルの輪が繋がりました。その当時は、折り鶴ペーパーの発注が大量にあり、作るのが間に合わないほどでしたが、一生懸命作りました。私が「原爆の子の像」の禎子さんと同級生だったということもあったと思います。
 
さらに、今では一般的ですが、私たちは、折り鶴名刺の製作も始めました。協力者を集めなければならないので、教育委員会や郵便局等の団体へ、毎日のように名刺を作って届けていました。
 
現在、倉庫にあった折り鶴の解体は終了し、倉庫の折り鶴は無くなりました。今では前年の実績により折り鶴を解体し、折り鶴ペーパーを作っています。
 
●娘・橋本友子(はしもとゆうこ)の父への思い
今回、娘が被爆体験記執筆補助事業の募集案内を見て、「お父さんは、原爆が落ちたとき小さかったけど、そのときの話をしたらどう」と声をかけてくれました。
 
娘は、お父さんに言ったら話をしてくれるだろうと思ったようで、「平和公園に、おじいちゃん(父・儔(ひとし))、おばあちゃん(母・泰子(やすこ))もおるし、お父さんが言葉として残してもらえれば、ずっと、子どもや孫たちが、お父さんにも会えるから」と言ってくれました。
 
私は、まだ記憶がはっきりしているので「話せんことはないね」と応えたんです。
 
デイサービスに行っても、ちょっと自己紹介する時、私が「被爆者です」と言うと、「あれー」と皆驚かれるんです。私で当時3歳位ですから、年が経つにつれ、被爆者の方も残り少なくなってきているんでしょう。
 
娘はこう言うんです。「原爆に遭うということは、一番の苦しみを経験したということだよ。それを受けて、ここにいる、というのは凄いことだよ。おじいちゃん、おばあちゃんも長生きして、それまでにおじいちゃん、おばあちゃんが味わったたいへんな苦労を何も知らずに過ごしてはいけないんじゃないかな。子どもたちにもやっぱり知っておいてほしい、当時何が起こったのかを。実際に見ていないので、私たちには想像することもできないから、お父さんには言葉で残してほしい。今、私たちの家族で唯一原爆を経験した人の言葉として」
 
私は、自分は両親の年齢までは生ききるだろうと楽観してます。「その後はよう分からんよ」と言っています。
 
●若い人へのメッセージ
平和という言葉ですが、広島に来られると分かりますが、平和が日常の言葉のように使われています。
 
若い人には、一度、広島に来ていただいて、市長がお願いしているように、被爆の実相を学んでいただきたい、そして、広島で学んだことを持ち帰って、平和がいかに大切なことであるかを考えていただきたいと思っています。 

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