●戦前の生活
私、島田榮子(しまだ えいこ)は現在92歳です。被爆当時は14歳でした。私の家族は、父・島田睦海(しまだ むつみ)(45歳)、母・道子(みちこ)(39歳)、3歳年下の弟・浩之(ひろゆき)(11歳)の4人で、東観音町に住んでいました。当時広島市には空襲がありませんでした。呉市や福山市には7月から毎夜空襲警報が発令されていたそうです。弟は広島県高田郡向原町(現在の安芸高田市)にある母方の親戚のもとへ疎開をしていました。
私は広島女子高等師範学校附属山中高等女学校の3年生でした。学徒動員で、南観音町にある三菱重工業(株)の設計事務所に勤務しておりました。そこでは設計部の補助作業の手伝いをしていました。
その当時は、爆弾を落とされないように夜は灯火管制があったため、灯を点けることができませんでした。そのため、勉強もできず、算数は因数分解くらいまで、英語はアルファベットと簡単な文法しか習っていません。それに食糧も不足していました。白米などは食べたことがなくて、サツマイモなど代用食を食べていました。コーヒーやジュースもなく、飲み物はお茶くらいでした。そして家にある金属物は全て供出させられました。金属がないからといってお寺の鐘までも供出させられたのです。
父は広島県庁の公務員で、水産課の技師でした。そのため、水産業者の方がよく来られて新鮮なイワシやサツマイモを持って来てくれたのです。食糧難の時代にはとても助かっていました。
●戦争について
私の家は建てて10年くらいで、2階にある6畳と8畳の部屋が空いていたので、召集令状が出た兵隊さんたちの、出発前最後の宿として使われていました。兵隊さんたちは全国から召集され、翌朝宇品から船に乗って出発するのです。地域の大きな家にそれぞれ2~3人が泊まっていたと思います。今から一等兵になる人たちで、出身地を聞いたら長崎とか山梨とか、日本各地から来られていました。おそらく宇品から出発して、無事に帰ってきた人はいなかったと思います。
●8月6日
その日の朝は、父と母と一緒に東観音町の自宅にいました。私は7時30分ごろ、南観音町の動員先へ行くため家を出ました。自宅には、父と母の他に、父の仕事の関係で似島からイリコ業者の中山(なかやま)さんが来ていました。私は8時前に職場に着き、掃除など始業準備をしていました。
8時15分、私はちょうど設計事務所にいました。一瞬雷が落ちたようにパッと白い光を感じ、びっくりして咄嗟に目の前の製図机の下に潜り込みました。そして地震のように大きく揺れたのです。まさに「ピカッ、ドン」でした。数分後に揺れが止まり机の下からに這い出すと、窓のガラスは全て割れて落ちていました。窓側にいた人は腕などにガラス片が刺さり出血をしていました。私の潜った机は幸いにも事務室の中ほどに位置していたため、けがはしませんでした。7~8分後に外階段を走り降りて外を見ると、広島市内中心部の方向にもくもくと雲が上昇中でした。あれは相生橋の方だなと思いました。後にこれがきのこ雲だと知りました。そうこうしている間に広島市内に火の手が上がり始めたので、市内は全滅だと感じました。
1時間ほどして、学徒動員は解散してよいと告げられましたが、自宅のある東観音町は燃えている最中で、とても近寄ることができませんでした。私は火災を見ながら近くのネギ畑で座り込んで待つことにしました。すると、東観音町の方から防火地帯を渡って、こちらに向かって30~40人くらいの大やけどをした人々が静かにゆっくりゆっくりと歩いてきました。これはまさに「死の行進」でした。全身皮膚が焼け崩れて、生きているのか死んでいるのか分からないような人たちでした。衣服も燃えて裸同然で、垂れ下がった皮膚が衣服のように見えました。中には飛び出した目玉を支えている人や、恐らくもう亡くなっているだろう子どもや赤ちゃんを抱っこしているお母さんもいました。それを見て初めて、「うわぁ、中心部の方はこんなにひどかったんだ」と思いました。この光景を目にしたのは恐らく11時頃だったと思います。
昼過ぎに、現在の国道2号線近くにあった広島市立造船工業学校(現在の広島市立広島商業高等学校)の近くまで行ってみましたが、自宅近くの東観音町方面は火災の熱で近寄ることができませんでした。
夕方になり、原爆投下後に初めて帰宅することにしました。自宅のブロック塀は倒れており、飼っていた鯉は蒸し焼きになって池に浮いていました。ですが熱くて熱くてとても滞在できる状態ではなかったので、すぐにまた市商のグラウンドへ戻りました。10分もいなかったと思います。道中は、電信柱が焼けて電線が地面に落ち道路をふさいでいたので歩きにくかったのを覚えています。近所の人から「島田の奥さんが己斐の方へ一人で歩いていくのを見た」と聞きました。母だけ助かったのでしょうか。父はどうなったのか不安なまま、市商のグラウンドで一晩過ごしました。日中は広島市内が焼け、夜になると市内を囲んでいる山々のふもとの町が焼けました。己斐の山側や祇園のまち、東練兵場があった山側等です。その燃えている様子を見て夜を過ごしました。
●東観音町へ
翌日の8月7日、心配になり自宅近辺に行ってみました。各家に1~2人の死体がありました。半焼けだったり骨だけだったり様々でした。自宅には死体がなかったので、父も母も逃げたのだと思いました。自宅近辺はまだ熱く、再び市商のグラウンドへ戻りました。ネギ畑のある家のほとりに座り込んでいると、その家の人がちり紙をくれたのがありがたかったです。
8月8日、東観音町の疎開先であった地御前神社まで徒歩と市内電車で向かいました。地御前神社の松林の中で自宅裏に住んでいた山本四郎衛門(やまもと しろうえもん)さんに会いました。山本さんから、「お父さんを助け出せずにすまない」と謝られました。父は家屋の下敷きになり、うまく抜け出せずにいたのです。しかし火災がひどかったので、仕方なく山本さんは母に早く逃げるように伝え、自身も逃げたそうです。それを聞き、母は助かり、父は死んでしまったのだと思いました。
地御前神社へ行く時には市内電車はまだ動いておらず、私は己斐か草津のあたりまで歩き、やっと宮島線の電車に乗りました。その時私は動員先の三菱重工業の職場の人から何かの会費を預かり持っていました。今だと2万円くらいだったと思います。電車に乗るには交通費が必要だと思い、払ったかどうかは覚えていませんが、少しでもお金を持っていたことは心強かったです。
その後また自宅へ帰りました。焼け跡の自宅付近に少しずつ近所の生き残った人たちが帰ってきました。しかし大けがをしている人がほとんどでした。
その頃には五日市か廿日市方面からトラックでおむすびの配給が届きました。私はけがをしていなかったので、近所の人を代表して一人で町内の人の数だけおむすびを観音橋までもらいに行きました。もろぶたに並べられたおむすびの下に敷かれた葉蘭の鮮やかな緑に感動しました。観音橋にはチチヤスが牛乳を入れた大きな樽をトラックに積んで来ていました。拾ったミルクの空き缶か茶碗か何かに入れてもらいました。それをみんなに分けて飲んでもらいました。牛乳は当時、栄養豊富で貴重な飲み物でした。その時以来、牛乳はチチヤスを飲んでいます。
けがをしていなかった私は、当時14歳でしたが、大人並みに働いたと思います。みんなからも喜ばれました。当時子どもが1人で生活をしていたのは珍しかったそうです。
●原爆投下から3日後
私は自宅の8畳と6畳部屋があった辺りを掘り起こしました。帰ってきた近所の人に私が父の遺骨を探すのを手伝ってもらいました。私はこれまで人の骨を見たことがなかったので、最初はこれが骨だとは分かりませんでしたが、近所の人が、これは骨だと教えてくれました。ハンカチに包み、焼け跡で拾ったミルクの缶に入れて、自宅の防空壕に入れておきました。
近所の人たちが戻ってくると、みんなで焼け跡から材木やブロック塀の石ころなどを拾ってきて掘っ立て小屋を建てました。当時、水道の水が流れっぱなしになっていて、水が飲めたのは助かりました。そして石を積んでかまどを作り、焼け跡から鍋を拾ってきて、自宅周辺の焼け野原になった畑で採れた、ミカンほどの大きさのカボチャや1センチメートルくらいの太さのサツマイモを煮て食べました。後に、それが放射能の塊であると知りました。
●母との再会
向原に帰っていた母とその家の伯母さんたち3人が私を迎えに来てくれました。ああ良かった、助かったと思いました。自宅の防空壕に入れておいたお骨、炒り豆や米などの食料を手分けして背負い、広島駅から芸備線に沿って狩留家(かるが)あたりまで歩き、向原にある母の実家まで行きました。半日がかりで、真っ暗な田舎の夜道を歩き、9日の22時頃に着きました。
母は向原に帰ってから寝込みました。発熱して、被爆した1週間くらいは体調が悪かったです。お医者さんに行っても、当時は原子爆弾や放射能を知らないので、特に薬もありませんでした。
●戦争が終わって
私たち家族は、しばらく宇品三丁目にある叔父さんの家に泊まらせてもらいました。御幸橋から南の宇品の方は焼け残っていたのです。
8月15日、東観音町の自宅に行き、焼け跡の防空壕の物を取りに行きました。途中、紙屋町を歩いているときに人だかりができており、ラジオで玉音放送を聞きました。そこで戦争終結を知りました。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という天皇陛下の言葉が一番印象的でした。動員先の人から預かっていた会費は終戦を聞いた後日、返しに行きました。
弟にも自宅の焼け跡を見せて、お父さんはここで亡くなったという話もしました。
県庁と市役所も焼けてしまったため、仮の事務所が比治山に設けられました。私はそこに罹災(りさい)証明書などをもらいに何回か一人で行きました。私の自宅も焼け父も家の下敷きになって抜け出せず焼死したため、火災保険の解約の手続もしました。当時、火災保険は契約額に関わらず一律5万円が支払われました。いっぺんに広島市内で10万人も亡くなったのだから仕方ないのでしょう。このお金は生活費として2~3年かけて使いました。
戦争には負けましたが、やっと電気を点けることができる、安心して寝ることができると思いました。戦争中はどうせ死ぬからと歯が痛くても歯医者へ行くこともしませんでした。そういう夢も希望もない時代だったのです。
●その後の生活
昭和20年(1945年)の暮れまでには母の実家の向原へ戻りました。食べ物は十分ではなかったものの、当時の広島市内よりは良い生活ができたと思います。農家へ母の着物などを持って行き米と交換してもらいました。
学校は昭和20年11月頃から広島県豊田郡安浦町(現在の呉市)で再開しました。呉の叔母の家から1か月ほど汽車で通学しました。叔母の家も食糧難でしたから、いつまでもお世話になるわけにもいかないと思い、昭和21年に広島県立三次高等女学校3年生に編入学し、母の実家の向原から汽車で通学をしていました。その後、父方の親戚が広島県双三(ふたみ)郡吉舎(きさ)町(現在の三次市)に元旅館の建物を購入し私たち家族3人を呼んでもらいました。私達はその一部屋を借り、吉舎町から通学し、学制改革により4年生で卒業しました。3歳下の弟は吉舎町の日彰館中学校へ入学しました。
その後はしばらく吉舎町のその親戚の家で母と私と弟の3人で4~5年生活をしました。その間、当時各町に自治体の警察署が設置され、吉舎町警察署に18歳から21歳までの3年間勤務しました。
吉舎町時代、元旅館の大広間を下宿として女学生5~6人に貸し出し、母は賄いをして生活費に充てていました。大広間は舞台付で50畳くらいの広さがありました。近所に同じ被爆者で元広島検番の芸妓さんがいて、三味線を習うことになりました。伯母さんの三味線を借りて週に3回程、夜に1時間くらい練習をしました。2年ほど習い、町内のイベントにも出ました。
22歳から定年までは、東洋工業(現在のマツダ(株))に勤務をしておりました。学生の時に勉強ができなかったので、少しコンプレックスを感じることもありました。定年まで勤め、旭町に家を借りていました。弟は車両を運搬する、マツダ系列の伯母さんの船会社に勤めました。そして、令和5年(2023年)に88歳で死去しました。
私はマツダを退職後、現在まで30年近く長唄三味線を趣味として活動しています。師匠として名取を9名育成しました。地域のイベントや東京歌舞伎座にも出演しました。
7~8年前、堀口(ほりぐち)さんという似島から三味線を習いに来た人がいました。原爆投下の日に自宅にいた中山(なかやま)さんを知らないかと尋ねると、「うちのおじいちゃんだ!」と言うのです。あの日中山さんは舟入町まで逃げて舟で似島へ帰ったそうです。私はそれを聞いて後日、似島へお墓参りに行きました。中山さんは被爆当時56歳で、亡くなられたのは90歳と墓石に刻まれており、後世があってよかったと拝みました。
●平和への思い
勝敗に関わらず戦争は絶対にしてはいけません。日本人は、やられたらやり返す国民性があると思います。歌舞伎などで忠臣蔵(ちゅうしんぐら)や曽我(そが)物語などがあります。しかし、原爆投下後にやり返さず平和に切り替えたのは、これ以上被害を出さずに済んだのでよかったと思います。
戦争を知る世代が少なくなってきたので、記憶のあるうちに被爆体験記を残そうと思いました。現在は衣食住に困らないので幸せだと思います。私自身が原爆被害に遭ったから特に思うのですが、この平和は当たり前ではないのです。何十万人もの悲惨な過去を乗り越えたからこそあるものだと思うのです。そのことを忘れないでいて欲しいと思います。
戦時中、町内会ではバケツリレーによる消火訓練や竹槍訓練をしていました。たった一発の原爆により10万人以上が一瞬にして全滅したヒロシマの惨状など全然思いもしなかったあの頃…今広島は平和です。感謝。
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