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八月六日の回想 
吉田 四郎(よしだ しろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 



当時私は、中学4年生で軍需工場への動員学生でした。この日は月曜日だったが、工場が電休日ということで、友達の山田さんを誘い、水分峡(みくまりきょう)へ飯ごう炊飯に出掛けました。

よく晴れた夏空には雲一つなく、途中敵機来襲を知らせる警戒警報のサイレンが鳴ったが、たびたびで気にするでもなく、照りつける青空を眺めながら、目的地へと向かっていました。

ふと気がつくと、朝日を受けて銀色に輝く飛行機B29が2機か3機か飛来していました。きれいなので敵機という怖さも忘れて飛行機を見上げていました。

その時、白い袋状の物をつけた、パラシュートが投下され、間もなくピカッと閃光が走り、一瞬熱いと感じると、同時にドーンという音響と強い爆風を受け、よろめきその場へ伏さりました。付近の松の木が風でたわみ、先が地上へつくほどの爆風でした。起き上がって上空を見ると、キノコ雲がもくもくと大きくなりつつあり、山田さんは持っていたカメラで、キノコ雲の様子を写しました。彼は新聞社に勤めていたので、無心に記者魂が働いたのでしょう。後に新聞にも掲載される貴重な記録写真となりました。

その時はキノコ雲を見ても、市内の弾薬庫が爆発したくらいに思い、そのまま目的地へ向い、飯ごう炊飯、水泳を楽しんでいました。ご飯も炊け、ピカ(後の通称)のことは忘れ、食事をしているとき、母がひどいことになった、早く帰るようにと呼びに来て、食事も途中で帰りました。帰る途中、もう何人もの方が血を流しながら、よろけるように水分峡(みくまりきょう)の方へ避難される被災者の方と、すれちがいました。

家(府中町山田)に着くと、西向きの建具は全部吹き飛ばされバラバラに、家具も横転し足のふみ場もないほどの混雑でした。

時間がたつにつれ、市内の惨状が序々に知れ、帰って来ない親せき、近所の人の消息を心配する長い一日でした。

翌日から帰らない叔父・叔母を探したが、遺体すら見つからなく、8月6日を命日としております。

原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさ・平和の大切さを語り継がなければと思います。
 
出典 広島県安芸郡府中町編 『安芸府中町史第五巻 別冊 府中町被爆体験記』 広島県安芸郡府中町 2010年 103~104頁
  

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