国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
わが罪赦されざる 
福原 賢治(ふくはら けんじ) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南1丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中央気象台附属気象技術官養成所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
いよいよ広島に着いて、我々が実習期間中に住む部屋を世話してくださった某家にどのように挨拶に伺ったのか、部屋を提供してくださった家主さんとどんな話し合いを持ったか、我々の生活用具、当座の食料等々全てにわたってどう準備したのだろうか。しかし何とかしなければ、着いた日からの生活が成り立たないのだから、全部姉の肩に委ねてしまっていたのだろう。なんという得手勝手。8月6日が来る以前に、私は姉の全てを食い尽くしてしまっていた。姉は家のためというより、私に、食いつぶされ、挙句の果て、死ななくてもよかった生命まで、失なわされてしまった。この私の取り返しのつかない大罪を、身にしみて感じたのは遥か後、それも気象庁を定年退職した後であったろうか。学生時代、気象実習を広島で受けると申告した後、沖縄県出身者は気象実習を本庁で受けるのだそうだとの話を偶々聞いて、私も実習は本庁で受けられたんだなと思いながら、家が無くても私の故郷は広島、だから実習も広島との考えが頭から離れなかった頭の固さ。遂に実習を本庁で受けますと申告のやり直しをしなかった。この今更どうしようもない反省。しかも定年退職後まで気付けなかった大罪。お姉さんは死んだんじゃない、俺が殺したんだ。姉を死なさずにすむ手段を私は握っていたのだ。だからこの「罪、許されざる」は書き残さねばならない。
 
 
姉も私も生まれた土地、しかも生まれた地点から数十メートルしか離れていないスポットで実習期間中の生活を始めたわけだが、上述のように姉と2人の日々の生活がどんなものだったのか、サッパリ頭に浮かんでこない。どういう風に2人で寝覚め、朝食のときどんな話をしながら1日の生活を始めたのか。2階の部屋だったので、階段を下りたところに私達だけの水場があり、茶碗などの汚れ物を洗っている姉の後ろを通り抜けて、表通りに出る。この表通りは本川左岸を下って行くのだが、川岸側は大人の肩の高さには及ばないが、ずっと石垣を築き上げ護岸堤として街を川と隔て、ある幅の堤上には点々とベンチが据えられ並木道となり木も植えられ、その所々に川に下りる幅広い石段、雁木が設けられていた。夕凪で有名な広島だけに夕食後の一時を姉と一緒に、堤に上がって取り留めの無い話を交わし夕涼みを楽しんだものである。雁木を下りた川中には、何時とは知れず崩れ落ちた川岸の組石のであろう大きな石がゴロゴロ転がっていて、流れの緩やかな河口近くとは思えない歩き難さを感じ、万一焼夷弾攻撃を受けたときの唯一の逃げ道としてやや要注意だなと思ったものである。毎朝家からじかにこのアスファルト道に出て、江波まで通ったのだが、折々歩き筋を多少変えた記憶が残っている位で、8月6日までの日常生活に特別な思い出とてない。ただとても弟思いの姉だったので、実習生のうち唯一人広島市内から通っていたA君と、日曜日に市民に多少は知られた北郊の水郷水分峡へ遊びに行った時、あの甚だしい食糧窮乏の、しかも移り住んで間もなく食料入手の抜け道さえ知らぬ時期に、2人分の弁当を作ってくれたことがある。その友人は親戚の家から通っていて、余分の弁当を作ってもらい難いことを知っての上の事であった。これについて姉に詳しい入手法も聞かず、礼を言った覚えもない。このようにすべて姉におんぶに抱っこの甘え振りであった。

話を本筋に戻そう。この時姉には別の気掛かりがあった。あわただしく広島を引き払って東京へ去ったとき、乏しいながら家財をどう処置するかは大きな問題であった筈だ。建物疎開に伴う移転という国策に従ってのものならまだしも、全く個人的な理由による移転問題を、老母と娘の2人の場合、助力してくれる者とてなくどう措置するか。実はこのことに関しても私は全く関知していない。先に既に書いたように、2人の東京転居すら私の知らぬ間に実行されたのだから。兎も角もどういういきさつがあってのことか、僅少な家財であったから可能であったのだろうが、広島市内宝町の某家に保管してくれることになった。それまで市内宝町に親戚は愚か知人がいるなど聞いたことも無い話である。これについては移転の当事者たる姉さえ、知らない家なのよといった。奇妙奇天烈な話ではあったが、母は県北に疎開し、姉と私とが仮の家ながら、現に広島市内に住んでいる以上、我々がこの預けた荷物を何とかしなければならない。とは言うものの、全国的に空爆に晒されている現状では、軍になんらかの関係を持つ有力者でも知っていれば兎も角として、ちっぽけな一個人の家財を運搬してくれる運送業者などある筈もない。母の疎開先の姪は連れ合いが農業指導者をしていたので、何らかの引きは無いものかと母なりに相談してみたようだが、火を見るよりも明らかな無駄骨だったらしい。姉からこの難問題を聴かされてみても、引き取ることもならず、預け換える宛先も無いままに、放置したままだった。

又、夕涼みのときだったかに、姉は自分の就職の話をしてくれた。私が朝、江波へ実習に出かけて夕方帰ってくるまで、知り人とて無い姉には時間の潰しようが無かったし、経済的余裕の全く無い我が家にとって、無為に過ごす事は避けたかった。出来うればそのために通った栄養学校だから、栄養士の仕事につければよいのだが、栄養士に限らず東京から帰ったばかりで、伝手たるべき知人もいない。唯一の頼りとして、東京に出るまで勤めていた広島市商工会議所の課長さんの元に挨拶に行ったらしい。この課長さんは昭和17年8月、台風による水害で私達の家が浸水したとき、転居先をお世話して下さったように、姉の仕事振りや性格を見込んで可愛がって下さった。当時商工会議所は、私達の住む本川沿いの仮家の少し川上、相生橋の東袂にあったが、当時その課長さんは、会議所と市電の軌道を挟んだ向かい側に立つ産業奨励館の中の、県木と略称する県の木材統制会社に移っていらっしゃり、そこで8月10日か15日位から県木の仕事を手伝って見ないかということになったらしい。

かくて大きな戦争にどう翻弄されるかなど露思わず、母や姉は再び広島に帰ってくる糸口が出来たと思ったわけである。

あれは8月5日日曜日、姉は食料補給のために、母の疎開先の県北新庄に出かけた。母と姉の間でどういう話が交わされたか、唯母は私達のために空襲を非常に恐れていたので、空襲といえば東京での焼夷弾攻撃だけしか念頭に無かった我々としては、本川を目の前にした今の家ならば、若い2人、火に襲われても本川に飛び込めばいいんだ、心配しないでと答えていたものである。なのに想像を絶する眼に遭おうとは。

母が後日話してくれた事は、この日食料を仕入れて帰り支度をする姉に、一晩泊まって明日帰るようにと勧めたが、賢ちゃんが1人で可哀そうだから帰ると、母の言葉を振り切って帰ったそうである。死ぬために帰っていった。死ぬために帰ってくれた。優しい姉だった。優しい優しい姉だった。

明けて8月6日、この日早朝から警戒警報が発令されていた。当時前夜なり早朝なりに警報が発令されると、当日の出勤時刻が30分遅らされる事になっていた。で、この日家を出る時間も30分遅くてよい筈であったが、気象台での実習が、意味のよく判らない図形を作るというものであって、実習生一同退屈していたので、前週の土曜日相談して、あさっては江波山の下の海岸で泳ごうと決めていた。皆で抜け出す事の困難はさておいて、私はサボる事の帳消しをどこかでしなければと思い、6日はいつもの通りの出勤時間に家を出た。

案の定、気象台につくと、実習生はまだ私1人であった。実習生の教室に当てられていた2階の事務室に行ってみると、気象台と同じ山上に設置されていた高射砲陣地の兵隊が、事務机の上で、観測した上空の風のデータを特殊な計算尺を用いて整理算出していた。初めての光景が珍しく、机の向かい、窓ガラスを背にして見物することにした。

程なく何分ぐらいしてだろうか、アリャと叫んだ兵隊達が間髪をおかず、一斉に入り口から廊下へ飛び出していった。私も一瞬、昼の日中に照明弾!と思ったときには兵隊の殿を廊下に出ていた。しかし廊下の柱の蔭はみな兵隊がへばりついて、私の隠れる場所は無かった。こりゃ駄目だと続く扉を開けてみると、そこは図書室で、書棚の本が通路を埋めて入る隙間も無い。止むなく向かい側の部屋に入ろうとしたが、その扉を押し開けて一塊の人たちが廊下に乱れ出た。一旦は入ったものの隠れる場所は、無い。どうしよう、逃げ場所が無い、と思ったら脚が動かなくなった。鉛のように重い。どうなったのか。バンドを緩めてズボンをずらしてみると、ズボンの下は両脚とも真っ赤に血だるまになっていた。俺はここで死ぬのか、としかし不思議にいくらか余裕を持って、立ち尽くしているところを、急を知らせた女性職員の御蔭で、担架が駆けつけて山下の陸軍病院へ搬送された。

搬送途中、出血が多かったためか一時的に気を失い、担架を取り囲む何人かの職員の声で気付いたり、またフーッと意識が遠くなったりしながら搬送された病院には、まだ負傷者は余り担ぎ込まれていなかった。山上と山下という近さと、気象台職員の対応の素早さのお蔭で、他の負傷者を出し抜いた形で直ちに軍医が診察してくれ、出血の多さにこれは重傷だ、手術をするといったが、そうしているうちに運び込まれる負傷者の数が一気に増え、その軍医は手術は後回しと言って、急ぎ去っていった。蔽退壕に暫し待たされたが,そのうち止血で縛り上げられた右足が痛く冷たくなってきた。付き添ってくれていた1人の職員が、止血した時からもう長いからと、先の軍医か誰かに知らせてくれて、再び治療室に運ばれたが、そこは負傷者で一杯、手術は明日だ、今日は一旦はつれて帰れと右脚だけに副木をしてくれ、場を埋めた負傷者の対応に追われた軍医の一言で退去する以外なかった。帰りの道すがら、道をふさぐ殆んどの負傷者は、私のような血だらけの負傷というより、火傷が多く、中には大の男すら痛いよう、どうにかしてくれ、助けてくれの叫び声を挙げており、裸の背中の皮膚が剥け紅色の身がむき出して水様の液体がしたたれ落ちたり、ぶら下げた手や腕から、むけた皮膚であろう糸状に撚れた薄黒いものが、幾筋も垂れ下がるといった、私の生まれて初めて見る無残に痛ましい姿であった。私が治療室に入るときはまばらだった負傷者は、出るときは一本に繋がった太い棒状になって続いていた。

かくて再び山上に戻ってきた私は、宿直室に寝かされる事になった。これからわが身はどうなる事か、不安で落ち着かない気持ちだけであったように思う。そのとき、実習生のAさんが来ていましたよと、職員の方が知らせてくださった。脚の痛さをこらえて彼の姿の現れるのを心待ちにしていた。やがて現れた彼は割合元気で負傷している様子も無く、枕元に胡座をかいてお互いの状況を語り合ったところ、彼は本川を隔てた向かい側にある刑務所下から、渡し舟でこちら江波側の三軒茶屋に渡っていたとき、突然すざましい閃光にさらされ、船頭さんがアリャと叫んで川に飛び込むのに後れじと彼も飛び込んだが、何事があったのかサッパリ判らなかった由。彼の顔をよく見ると、額の中ほど、横一線を画して上下の色に濃淡があった。単なる夏の日焼けかもしれない。それから彼は宿直室を長い間留守にして、姿が見えなかった。私は1人宿直室に寝たまま、折々お姉さんはどうして探しに来てくれないのだろうと、考えていた。今来るか、今来るか。

夏の日は長い。それでも西のガラス窓から入る太陽の明るさが薄れるようになった頃、廊下の壁伝いに身を支えて這うようにトイレへ行ったとき、顔なじみの今朝私を担いでくれた同年輩の若い職員と会ったので、市内の様子を聞くと、「市内はメチャメチャ、何もかも残こっとりゃせん、あっちでもこっちも火が燃え盛っとる、歩く足元で負傷者やら火傷の人が水をくれ、水をくれ云うて、わしゃ何も持っとりゃせんけえ、ご免、ご免、水も何も持つとりゃせんのです云うて、抜けるようにして通るのよのう、ほんまに地獄よのう」。彼は観測結果を中央気象台に送る電信回線が途絶したため、電報を持って徒歩で千田町の電信電話局まで往復して帰ってきた話を伝えてくれた。それまでは江波だけの空襲とばかり思っていた私は、初めてああお姉さんは死んだんだと覚った。あれほど僕を可愛がってくれたお姉さんだ、生きていれば何を措いても必ず僕のところへ来てくれるはずなのに。それだけを期待していた私。こんなに長い間探しに来てくれないなんて。来てくれないのはおかしいと思っても、重傷といった軍医の言葉がのしかかり、自分の怪我の事ばかり考えて、お姉さんのことはこれっぽっちも考え及ばなかった。もう間違いない、お姉さんは死んだ。それまでの期待が一挙に空になって、何も考える事ができなくなってしまった。お姉さんが死んだ、お姉さんが死んだ、その言葉だけがクルクル頭の中を廻る。右の脚は腰から下が左右を副木に挟まれて身動きならないまま、背を宿直室の壁に持たせかけて、どのくらいだろうか、唯じっとしていた。

やがてどういうことか、職員が夕食としておにぎりを持ってきてくれた。A君の分も一緒に。聞くところによると、技師さんが高射砲陣地と交渉して兵隊さんの食事を二食分、提供してもらう事になった由。A君もか、一人ぼっちの無力感がいくらか動いた。その時から数日、宿直室で2人枕を並べて気象台並びに軍のお世話になることになった。

その夜は2人とも特に異常は感じずに、しかし話は余りせずに眠った。警報のサイレンが鳴ったようだったが、2人とも布団から出ようとはしなかった。

翌朝女性職員が軍からの朝飯を持ってきてくださった。私は食べたが、A君はくぐもった声で要らないと言う。チョット変だなと思ったが、鬱屈した気持ちの私も強いて追求はしなかった。昼食も声をかけたが応答が無い。いささか気になって下半身が1本の棒のようになった私だが、上半身を彼の上に覆い被さるように顔を彼の顔に近づけてみると、上唇と下唇とが殆んどくっついていて、口が開かないらしい。そして昨日額の中央を左右に延びていた1本の筋に沿って、上側頭側と、顔面に続く下側とで上側白、下側はこげ茶色に色変わりしている。しかも下側の皮膚はなにやらザラザラと粗っぽくなっている様だ。
「オイ、元気出せよ、どうした」。全く返事をしない。私も無理な姿勢で上から覗き込むのが長続きしないので、休み休み二度三度声を掛けて「どこがどうした、痛いか、苦しいか」と聞いても全く応答なし。どうしたらいいのか。何とか飯を食べさせぬと、どうやって口を開けさせるか。身体に手を掛けて揺さぶっても何も言わぬ。とこうするうちに、私は陸軍病院に運んでもらう時刻になった。

再び数人の職員に担がれて山を下り、病院の前に着くと、門扉は厳重に締まっていた。職員が問い質してくれた結果、この病院は閉鎖され、ここの職員は、潰滅した市中の軍関係の諸施設に動員されたものらしいという。

かくて山上の気象台宿直室に帰ってきた私は、今度は副木に行動の自由を奪われたままで、A君の状態に心を奪われる結果になった。と言う事は、思いもかけぬ姉の死で考えるより所を失った私にとって、ある意味では救いとなった。同じ境遇に陥った実習生を何とかしてやらなくては。今日の彼は昨日の彼と雲泥の差であった。軍に貰った朝飯を今朝は食べたくないという。仕方なく今朝は私1人で食べたのだが、昼飯も頸を横に振って受け付けない。顔色も今日は昨日と変わって赤黒く、額の上半分だけ白っぽい。話しかけても一言もしゃべらぬ。横に並んで寝ていても、どうしてよいのやら取り付く島が無い。夜食になってもいやいやと頸を振るばかりなので、食べないとますます元気が出なくなるぞと脅すように言うのだが、効果が無いので、箸でご飯をつまんで口に押し込もうとするのだが、口が開かない。よく見ると口がふさがって、真中に僅かな隙間があるだけのようだ。仕方が無いので、その隙間に一粒づつご飯を箸で押し込もうとするが、なかなか埒が明かぬ。こちらも上体を海老のように折って、彼の顔の上に覆いかぶさるようにしているので、左の肘を畳について自分の身体を支え、右手だけで畳の上に置いた食器からご飯粒をつまむ。長くは続かない姿勢である。結局5粒か6粒の飯を入れただけで彼は又もう要らないという風に頸を振る。幸いにして私の右腿のズキズキした痛みは、無理に動かさない限り余り痛まなくなったのが、救いであった。これから彼をどうしたらよいだろうか。折々覗きに来る気象台職員もなす術もなく、二言三言元気付けの言葉だけを残して宿直室を出てゆく。考えあぐねた私は、女性職員のYさんに、夕食に届く彼のご飯をお粥にしてもらえないかとお願いした。

夜、お願いした女性職員Yさんがお粥とスプーンを持ってきてくださった。私の手元を心配そうに見つめている。スプーンでお粥をすくって、口の真中に空いた小さな隙間から流し込もうとする。しかしその小さな穴からは、とろみのついたお粥の汁は殆んど入らず、唇の周囲に流れてしまう。すると赤黒く変色した顔は爛れによるものらしくて、お粥の塩気が滲みるかして痛いとかすかに言う。口の穴は狭く、穴に入るよりも外へ流れる量の方が遥に多い。どうしようもないので、今度は箸でお粥のなかのふやけた米粒を拾い出し、昼食のとき同様、口の穴に持っていって箸で押し込む。これも同様に、殆んど効果なかった。結局全部で何粒口に入ったであろう、私も姿勢の苦しさもあって万策尽きてしまった。このままではA君長続きしないぞと、1人暗い天井を見つめていた。

明くる朝、A君の上に覆いかぶさって顔を覗き込んだ。驚いた。顔全面、額の上半分を除いて茶褐色に変り、体液で湿った小さな凹凸が覆い、しかもその凸の部分は、月面のクレーターそっくりに真中が凹んだ様に見える。敷布団には顔の輪郭を描いてグルーッとシミがついている。どうやら顔から滴たり落ちた体液の描いたものであろう。こんな人間の顔かたちは見たこともない。声を掛けても応答なく、身じろぎもしない。これはとんでもないことになった。どうなったのだろう。どうしたらよいのだろう。これは助からないのでは。身じろぎもせずただ見つめるだけ。この広島の惨害では、近回りの職員が出勤するまで、手の施しようもない。やっと私達を案じてくれる江波在住の女性職員が朝食を届けてくれたが、彼女も声を呑んだ。山下の陸軍病院が閉鎖してしまっては、開いている医療機関もないだろう。かくて手を拱いて1日、2日が過ぎた。瀕死の重傷者の傍らに横たわって見守っていては、幸か不幸か、姉のことを考える気持ちが起こらなかった。

9日の夕方、突然「福原君、お母さんが見えたよ」と職員からの連絡があった。今の今まで母は新庄にいるとばかり考えて、潰滅して燃え盛っているという広島に、連れ添う人もなく年取った母がたった一人、出てくるとは露ほども思っていなかったので、信じ難いほど驚いた。職員に介助されて玄関へ歩きながら聞いたところでは、福原賢治はおりますでしょうかと尋ねて、負傷して宿直室に居られますよと聞くと、玄関に屑折れた由。

廊下を曲がったその先、そこに母はうずくまって肩を震わせながら、顔を覆っていた。抱え起こされた母に近づきつつ、不孝な子はその泣く母を恥ずかしいと思った、大勢の前で泣かなくてもと。しかし2人は抱き合った。母の頭の髪毛を顎に感じながら懐かしかった、嬉しかった。その後玄関横の事務室か、観測室の片隅かであろう、どんな話を交わしたのだったか。母は姉が新庄に食料補給に来たときの思い出を私に聞かせてくれ、私はあの日の朝の模様を話したであろう。2人には6日の朝以後の一切は、知りたくても知り得ず、惨劇に巻き込まれたまま、すべてが止まってしまっている。無理に動かそうとすれば、何もかも崩れてしまう。だから母は「信ちゃんは」とも聞かず、私も「お姉さんは」とも問わなかった。母は只、新庄を出るとき、なんとか2人の骨が拾えればとそれだけ考えていたと言った。もうそれ以上言う事も、聞くこともなかった。遥か後になって、あの時どうやって広島へ出てこられたのか、母の辛苦を聞いておく可きだったと繰り返し後悔したが、後になればなるほど、姉に触れざるを得ない一切は大きな罪として、母も私も口に出すことが出来なくなってしまった。やがてどれくらいの時間がたったのだろうか、暮れるのが遅い夏の日も翳り始めて、このまま夜を迎えるわけにはゆかず、母は気象台を後に去っていった。心に賢治が生きていたという明かりが一つ点ったものの、案内知らずの真っ暗な惨劇廃墟の街を、1人でどこへ、どうやって辿っていったのだろうか。飲み水、食べ物は。しかし私にも母をどうもしてやれなかった。これも後年、気象台に母の一夜の宿のお願いもしなかった己の冷酷さを、何度反芻したか知れないが、あの晩私の横にごろ寝の許しを得たとしても、一夜明ければ全く同じ条件の市中に、母を押し出さねばならなかったはずだ。そうだとしても、その前に子としてなすべき事をしなかった罪は、どうあっても許されるものではない。原爆は無数の無残な死を生んだだけでなく、生者にも無残の罪を限りなく残したのだ。

10日、11日或いは12日をどう過ごしたのか、母のことを思い、隣に横たわるA君を見つめ、どうしようもない思いで過ごしたのであったろう。確か11日になってA君のお姉さんが、大崎上島の木江から舟で、彼を探しに気象台に見えた。手の施しようのない容態なので一旦木江に引き返し、別の舟を用立てて彼を迎えに来るとて、直ぐに下の浜に着けていた小船で帰って行かれた。あわただしい中、遂に殆んど話を交わす隙もなかった。

13日目になって脚の痛みも我慢できぬほどではなくなったので、元柳町の仮住まい辺りを探索しようと、出かける支度を始めたところ、ここの所ずーット食事のたびにお世話になっていた女性事務職員のYさんが、一緒に言ってあげようと仰って下さった。やや心もとなく思っていた私は、喜んでお言葉に甘え、同行していただく事にした。しかし副木をつけたままの歩行は、痛みは軽くなったとは言え遅々たるもので、とてもこれ以上同行をお願いをする訳にはゆかないことは明らかであった。そこで折角のご親切に対し申し訳ないが、江波の町域を離れる辺りで、心配してくださるのを振り切るようにして独行することにした。そしてその辺りから先、破壊された家並みに変わって一面の灰燼となって、その中にコンクリート壁や塀があちこちに立ち残っているだけの見通しになってきた。脚にくくりつけられた副木が歩く邪魔になって、道ははかどらぬ。結局は副木を外して跛行に移る。ひどい痛みではないが、休んでは歩き、歩いては休む。6日の朝辿った道を今は逆行する。人影は全くない。私1人だけ灰燼の中の道、僅かそこだけが障害物のない焦土の中の道をびっこで辿る。三軒茶屋を過ぎようやく住吉橋までたどり着く。橋の欄干は折れ曲がり、路面は上下にアップダウンしているが、びっこでも何とか渡れそうだ。住吉橋を渡って本川の左岸に移り、川沿いを上る。ようやく元柳町と思しき辺りにたどり着き、灰燼の廃墟を見渡す。道のたたずまいから我が仮住まいはこの辺りと見当をつけて見回す。私達の部屋の後ろには他家の土蔵があったが、そのつぶれ崩れた土と思しき小山の位置から私達の部屋の位置を推定する。焦土の小高いうねりが続くだけでそれ以上は部屋の位置など全く推定の仕様もない。四辺は相変わらず森閑として人影一つなく、照り付ける太陽の下、私は無力感、孤独感に立ち尽くしていた。姉はどうしただろう。この様子では仮令この場から何とか逃れ得たとしても、助かる望みは万が一にもあり得まい。そして死の瞬間まできっと私の名前をよび続けていたに違いない。必死の叫び。その呼び声を察せず、その時私は、お姉さんはどうして僕を探しに来てくれないのか、あの優しいお姉さんがと、いつもの甘えぶりで、姉の来るのを頸を長くして待ち焦がれていた。何という大馬鹿、何という得手勝手。………やがて気を取り直して川岸の石堤の上に上がった。姉と2人、いざという時逃れようと話していた雁木の辺である。見るともなく見渡した向こう岸に沿って、一艘の軍の上陸用舟艇が下っていっていた。一人の兵隊が右に左に棹を操っている。ジーット見るともなく見ていると、棹で何やらま探っているらしい。そして舟艇には積み込まれたものがある。よくよく見るとどうやら水脹れした人の死体らしい。火に追われた挙句川で絶命した人を求めて、舟に拾上げる作業をしているようだ。被爆後数日たってもなお、こうした無縁の死者が川流れしている。私の姉も、この無縁の死者達と同じく、どこかで私の来るのを待っている、救い手のないままに。私は黙然と立ちつくすだけであった。やり場のない空しさから、フト気がついて当てもなくもう少し歩いてみようと思った。

中島の本通を通って元安橋を渡り、元安川沿いに北に進む。骨組みだけ残ったまま辛うじて立っている産業奨励館脇を通り抜けながら見ると、正面の相生橋東詰めに何やら小屋のような物が立っている。そこに焦土で今日初めて3、4の人影を見た。人懐かしさに近寄ってみると、木枠に宇品警察署臨時出張所と書いた紙が張ってある。入り口の正面に、机をはさんで警官と、全身土埃だらけの初老と思しき男が、相対して何かしゃべっている。聞くともなく見ていると、初老の人が、「此れみんさいの」と言って頭の毛をつまんで引っ張る。すると頭髪がそのまま抜けて手に残った。今度は警官が「ほうよ、わしもよ」とかぶっていた帽子を取って、同じく頭の毛をつまんで引っ張ったら、同じように頭の毛が抜けて手に残った。実に腑に落ちない奇妙な光景であった。此れが後に原爆症と呼ばれるようになった症状の私の初見である。私は「身体がえろうての」と語るその警官から、戦災証明書なる小さな紙切れを受け取って、外へ出た。

既に陽は中天を過ぎて午後も大分たっているようだ。もう江波へ引き上げようと、今朝来た道を引き返す。住吉橋を渡ってから気が変わって、本川沿いの道を止めて街中に入り、舟入の通りを市電江波線に沿って下ることにした。と歩く前方、江波線の線路に何やら並べられている。近づくにつれてそれは軌道敷に横並びにされた人らしく見える。やはり人、生死不明ながら人間が軌道敷を利用して江波方面にズーット先まで、並べられたものであった。2本のレールの西の1本を枕代わりにして、南北一列に並べられ、西側には所々に立てられた細竹を支柱にして、アンペラが垂れ下げられて西日を避ける工夫がしてあった。元柳町とはやや離れているが、姉がひょっとしたらこの中にいるかも知れない。しゃがみ込めないままに立って見下ろす。しかしそこに見るものは灰だらけの頭髪、むき出しの手足、ボロボロに破れ、土にまみれ、火に焼け焦げた衣類、男女の区別すらつきかねる正に人間のボロ屑、人間襤褸の姿であった。姉かどうか見分けることもとても出来ない。あの朝、お姉さんはどういう格好をしていただろうと思い出そうとするが、地面に横たわった無残な姿はそれを寄せ付けない。

西日が傾いたせいか、或いは被爆1週間が経過したせいか、この粗末な収容所を探し歩く人影も少なく、また収容された人々はどの方面の人かを確かめようにも、監視人と思しき人影は1人も見当たらぬ。不自由な歩行に疲れ、探す当てを見極め得ぬ私は、同じ列を二度見て廻る精も根も果てて、遂に収容者列を離れ、江波山への道に向きを変えた。なおも思い切れないままに仕方がないんだと繰り返しながら。後年姉を懐かしむたびに後悔の臍をかむ場面の一つである。

翌朝、昨日取った自分の行動の卑劣さに堪らない嫌気がさして、軍の握り飯を食べるとすぐ、江波線の軌道敷に行ってみると、此れはどうした事か、一夜にしてあれほどの人体が、鮮やかなほどすっかり消えてなくなっているではないか。正に狐に包まれた感じであった。道の傍には1枚のアンペラさえもない。私のとった卑怯さが脳天に突き刺さった。私は這ってでも一人一人の顔を確かめるべきであった。逆に私でなく私を守り続けてくれた姉であったらキットそうしている。得手勝手ばかりしてきた恩知らずの自分。大好きだといいながら口先だけの裏切り者。そんな言葉が頭の中をグルグル廻る。どうしようもない。昨日以上に全く人影は見当たらず森閑としている。私は罪の重さに打ちひしがれて山上の気象台に帰った。

この日、午後になってからだったか、主任技師から何時までも軍のお世話になっているわけに行かない、気象台の立場も考えて欲しいと、気象台からの退去を求められた。いづれ考える問題であったであろうが、今まで全く考える余裕もなかったので、どうしたらよいやら全く見当もつかなかった。先日私を探しに来てくれた母が蒙った難儀を、今度はその母を助け得なかった私が被る、親不孝の当然の罪であろう。気象台から追い出されれば食べ物はないし、休む場所もない。1週間お世話になったが気象台の措置の理不尽さに腹が立つ。でも抗議する力もないし、世知もない。これを知って、あの日市中の状況を尋ねた同年輩の若い職員が、公用で何度も外出した見聞から、市中に出たら時折通るトラックに頼めば、乗せてもらえますよと教えてくださった。有難い情報である。これでうまくすれば、手の施しようのない市中から抜け出せるかもしれないと、気象台を離れる決心がついた。これと規を一にするように、軍の解体の知らせが入り、明日からは軍の食事の提供はなくなることを知らされた。この日、A君を木江に引き取る舟が江波の浜に着いたようで、明日お姉さんが付き添って江波を離れるということを知ったが、ここ2、3日私にも彼にも何かと出入りがあって、結局お姉さんに話す機会がなく、翌15日早く、彼は私の知らないうちに江波の浜を去って往った。

15日、私は実習生に宛がわれていた事務室の、自分の机の引き出しに納めていた数学の微積の教科書と、ドイツ語の辞書を持って、お世話になった気象台を去って行った。脚は大分よくなってはいたものの、脹れはまだ引かず、相変わらず痛みの残ったまま、片チンバの不自由さを庇いながら、一昨日と同じ道を上っていった。脚の痛みの加えて朝飯を食っていない所為か、兎に角草臥れる。3、4歩歩いては休み、休んでは歩く。初めの内は休む時間は短かったが、次第に休む時間のほうが長くなり、遂に立ち止まって後、足が前に出なくなり、川岸に腰を下ろしてしまった。暫くして又立ち上がり歩く。しかし座るにも立ち上がるのにも容易ではなく、掛け声で気合を入れねばならぬ。遂に立ち上がるに立ち上がれず、気がついて風呂敷に包んでいた2冊の本、そのうちの大版の方、微積の教科書を川に放り投げた。ヤアこれで少しは楽になれるぞと、ヨロヨロと立ち上がって歩いてみた。なるほど、少しは楽になったと思う間もなく、残る荷物が重くて仕方がない。又座り込んで残るドイツ語のコンサイス辞典を、少しは残っていた学生のプライドと共に綺麗サッパリ川に投げ込んだ。それ以後どのくらいの時間歩いただろうか、楽になった、楽になったと呪文のように唱えて自分を励まし励ましして、ヤット教えられた鷹野橋にたどり着くことができた。

そこにやはり親切なトラックを待つのであろう2、3の人たちがかたまっていた。手を挙げるとトラックは止まって、運転手がどこそこの方面に行くが、よかったら乗りんさいと言ってくれる。こうして待っていた人たちははけてゆく、といった仕組みである。かくて私も可部方面に行くトラックの荷台に、先客の手助けにより引っ張り上げて乗せて貰うことができた。こうした場合、普段なら簡単な挨拶なり無駄口をたたく人がいるものだが、誰も無言のままである。やはり状況が状況だからであろう。心身ともに疲れ切った私も、気を使う必要もないままに、かろうじて脚を投げ出した姿勢で、車の振動のままに揺られ揺られて、とにもかくにも可部線の終点可部駅に運んでもらい、郊外バスに乗ることができた。所持金があったのかどうかもはっきりしないが、新庄で下車し、従姉の連れ合いが農業指導員とかをやっていたお蔭で、迷わず従姉の家にたどり着いた。前触れなしの到着に入口に出た従姉の知らせで、転げんばかりに出てきた母は、賢ちゃんが、賢ちゃんがと涙ながらにしっかり抱きしめて離そうとしなかった。あの日2人の骨を拾いに行くと広島に出たものの、賢治は辛くも生き姿で見出すことができたが、信子はどこでどうなったのか、遂に骨も拾えなかった。新庄から17里の広島へ1人出掛けても、20年昔に住んでいたというだけでは、情報を知りうる頼れる知人もいないし、居たとしてもあの壊滅状態の町に生き残っているとは到底考えられず、為す術のないまま新庄に帰る以外になかった。天涯孤独となった母のもとに、こうして賢治が戻ってきた。いつかは3人で暮らせると思って生きてきたのに、福原という大木の小枝に残った2枚の葉っぱ。母と私はその時どんな話を交わしたであろうか。母の思うことは私の思うこと、私の思うことは母の思うこと。いや私の思う以上に母は姉のことで胸が一杯であったであろう。兄が亡くなって後はまだ女学生であった姉1人が、母の相談相手であった。しかも兄の死後、多少の弔慰金はあったであろうが、もともと財産とてなく、兄も鴻池の奨学金で東大を卒業したような状況であったから、県立高女に欠員なしで転入学を断られた姉の女学校転校も、それならば経済上通学費のかかる広島市内は止めて、近くの私立高女へと転校したものの、通学中の一家の生活資金はどう維持されていたのか、卒業後もいち早く広島市の商工会議所に就職して、そのわずかな収入が頼りであった。最悪の場合、短い期間であったが、母も家政婦に出ていた時期があったことを私も記憶している。だから姉は普通の事務員の薄給を少しでも増やそうと、タイピストの講習所に通って職種をタイピストに変えたり、日本が東亜に戦端を開いた時には、どこから得た情報かは知らぬが、シンガポールの南方総軍のタイピストを志願することもあった。幸い志願の時期が遅れて、この話は立ち消えになったが、一時はマレー語の講習会にまで出席した時期があった。このような姉の苦心は、生活費の大半が姉の働きによって得られたものであったことを裏書きする。生活費だけではなく、そうした状況の中で弟思いの姉は、自分の力でかなうものなら、亡き兄と同じく、弟に大学まで進学させることも念願していた。それに比べて私は、末っ子の甘えん坊で、我が家の貧乏は知っていたが、母や姉の切羽詰まった苦労を手助けするようなことは全くなく、姉の私に対する期待を薄々感じながら、中学1、2年の比較的良かった学業成績も、3年以後下降する有様であった。このように母の唯一の頼りは姉だっただけに、母の姉に対する感謝、力ない己を詫びる心はとても強かった。しかしこの時期、我が家の雰囲気はとても和やかで、春の潮干狩りには3人そろって廿日市の可愛川河口に貝掘りに行き、秋には当時住んでいた平良の山手にあったS家の別荘では、家主の許しを得て、沢山植えてあった西条柿を、3人がそれぞれ手分けして、枝からもぎ取る、もぎ取った柿をバケツに入れて山裾にあった風呂湯に運ぶ、湯を沸かして渋抜きをする等、実に明るく楽しい日々を送っていた。風呂場といえば、姉と2人で風呂を焚きつつ、焚口の前で、後ろの青苔が一面蒸した切土に寄りかかりながら、知っている限りの歌を、見る者も聞く者もいない周囲から隔絶された場所で、気兼ねなく大声で歌った。この楽しさは、夜は今度は、親子3人枕を並べて合唱する楽しさに変わったものである。だから貧しいながら3人の和やかなかっての生活を心のよりどころに、この度頼るものなしの老いの身ながら姉弟探しに広島に出たが、頼みとする姉信子の手がかりは何一つ得られず、辛くも賢治の生存だけは確かめえたものの、考える力を失ってしまった空っぽの心で、涙ながらに帰ったであろう母と、辛うじて生き延びて母の下にたどり着いた私と、只抱き合って泣くだけであった。まして母は直面している日々の生活、自分自身より賢治の今後をどうしてやったらよかろうとの、自分1人ではどうにもならない大問題を抱えて、信子の大きな力の突然の消滅は、生きる支えの消滅であった。あの日、母と私は1日のけじめをどうつけたであろうか。あれから茫々60有余年、表面はいざ知らず、母を心の底から元気づけることのできなかった自分を1人責めるのみ。

一夜明けてふと気付くと、右大腿部がビヤダルのごとく腫れ上がっていた。そして傷口の周りを指で押してみると、膿の混じった血がブクブクと流れ出した。1週間たってようやく治りかかった傷が、昨日の酷使に耐えられなかったのであろう。パンパンに腫れ上がった脚を見ても、それほどのショックではなかったが、母にとっては大きなショックであったであろう。江波の陸軍病院でさえつけてくれた薬は赤チンだけというあの頃、在地の医者には手当てする薬のないことは、広島で傷ついて縁故を頼って引き上げてきていた人々が治療を受けられない状況を、村の人々から聞かされて従姉も、同居の叔母にかける言葉もなく、1人母は血膿にまみれた包帯をボロ切れに取り換えることしか、なす術がない状況であった。絶望のどん底で兎にも角にも賢治をわが胸に抱いた昨日の今日、医者にも見放された心地で、母の心中はいかばかりであったか。しかし母の心一つの必死の看病を神々は察してくださったか、脚の腫れは日に日に引いて、下旬半ばには傷口もふさがり、歩いてもほとんど痛みを感じることはなくなった。

かくて脚に心配もなくなったので、心に重くのしかかっている姉の消息を、どうやって尋ねるかを母と話し、兎に角住まいの焼け跡を掘り返してみることにした。私1人ではどうにもならないので、従姉の連れ合いに援助をお願いしたところ快諾を得て、月末も近く、スコップを担いで2人で広島に向かった。バスは可部までしか運行しておらず、可部から先は徒歩で広島市内に向かい、正午近くだったと思うが元柳町の仮住まい跡に到着。私1人がここにやってきた13日と同じく、焼け跡には人っ子一人の姿も見えなかった。さっそく2人でここぞと思うあたり、土蔵の土がうず高く積もった前の辺りを掘り返してみたが、表面の灰や焦土を掘り返しても、コンクリの塊や石が掘る先を埋めて、深くは掘り進めない。従姉の連れ合いは、中国戦線から帰ってきた体躯の頑丈な男であったが、とうとう悲鳴を上げて、「賢治や、これはどうにもならんぞ、道具を増やすか人間を増やすかせんと」。私も姉に申し訳ない気持ちが一杯ながら、どうしようもなかった。それにここから再び可部まで歩かねば帰れない。4里あるか5里あるか。とうとう私もあきらめて姉に許しを請いながら、引き上げることに賛成せざるを得なかった。かくて可部まで歩いて引き返し、何時だったか、その日の最終バスに辛うじて間に合って帰途に就いた。

ところが、翌日から私は猛烈な下痢に見舞われた。しかし昨日水道の水を飲んだ私を見ている従姉の連れ合いは、てっきり赤痢にかかったと思い込み、わしの家から伝染病を出すわけにはゆかんと言って、がんとして医者に診せようとしなかった。母の絶望はいかばかりであったか。弱い立場の母に抗弁の余地はなかった。近所の農家を訪ねて下痢に効くという山野草を教えてもらっては、野に山に毎日出かけて行って、採ってきた野草を煎じる姿以外、家で姿を見ることは夜以外殆どなかった。そしてそれらの煎じ薬で下血に効いたというものはなく、効き目が見られないと、母はまた取って返して山裾を、山間を夕暮れまで新しい野草を探し求めて歩いた。この繰り返しが何日続いたであろうか、しかとは記憶にないがあまり長かったとは思われない或る日、ノガエリボウズという木の根っこを煎じてくれた。とても苦くて飲みにくかったが、それを飲んで奇跡的に下血が止まった。それまで便所で便器にまたがって座り、後ろの壁に背中をもたせ掛けて、垂れ流しの状態を強いられていたのだが、何日ぶりかで這って寝床に帰ることができた。まさに起死回生の一瞬であった。母は賢ちゃん助かったねえ、助かったねえと私を抱き抱え、私は助かった、助かった、お母さん有難う、有難うと、母にしがみついたまま、2人は只々泣くばかりだった。母にとってそれはもちろん息子が死を免れた感謝の涙であり、同時に世間体を憚って医者の診察を頑として認めなかった旧弊に、亡き信子とともに立ち向かわざるをえなかった母の、弟を思い、私を助けてくれた信子に対する感謝の涙でもあったであろう。天涯に2人、そう天涯にただ2人。母と私の、特に母のその時の思いは正にこれであった。ここで私を救ってくれたノガエリボウズについて、一言書き残しておこう。遥か後の事だが、日本国語大辞典で調べたところによると、ノガエリボウズはどうやら方言で、正式には「ワレモコウ」というらしい。そして、根は漢方で地楡と呼び、止血、収斂薬に用いるという。さてこそ私の下血が止まったわけである。長い間全くの幸運と思っていたが、れっきとした漢方薬であったのだ。ノガエリボウズの薬効を正しく知っていた人がいたことに驚くと共に、振り返って神が母の必死の奮闘に答えてくださったものに違いないと、あの幸運を今更のように神と母とに感謝するとともに、母に対しても、許されざる罪を沢山犯している自分を、悔いても悔いきれない思いがこみ上げる。

しかし私の母と姉にたいする許されざる罪については、この小編が終われば自ずから明らかになること、前へ進もう。「賢ちゃん、骨皮筋衛門になったねえ」という嬉しさの余りのこの言葉を、母から聞けたのはそれからあまり日数を置かない頃であった。しかし一方、広島から命からがら帰ってきた人々の間で、無傷の人でさえ、紫の斑紋が体のいたるところに出てきて、遂に死に至るという状況があちこちに現れるようになってきていた。何がそうさせるのかさっぱりわからないままに、毎朝目を覚ますと、手足や体の前面を調べて紫班がないことを確かめた上で、母を呼んで背中にその有無を調べてもらう日々が続いた。だが幸いその不安は体の回復とともに急速にしぼんでいった。生きる力とでもいうのであろうか。母のおかげで本当に急速に体は回復していった。

そうこうして、生きる目処が立つとともに、生活上の不安、これから寒さに向かうというのに、私には着るものがない不安がのしかかってきた。私はあの日、実習生全部が揃って、昼休みに気象台の山の下の海岸で泳ごうと、土曜日に相談していた。それで泳いだ後の着替えとしてランニングシャツとパンツを予備に持って行っていた。今ここにきて着るものと言ってはこの2つだけであった。ズボンは脚の負傷でボロボロとなり、上に何を着ていたか記憶にないが、学生の夏姿であってみれば、たいしたものではなかったであろう。先にも書いたように、私が進学上京するとほとんど同時に、母と姉も東京に引っ越してきた。その時、多くもない家財一式を、広島市内の知人の家に預けて上京している。この間の事情は前述のように私は全くタッチしていなくて、どうしてそうなったのかわからないが、家財一式、疎開中の母の身の回りの物をわずか残して、勿論寮から持ち帰っていた私の身の回りの物も、原爆で一挙に消失してしまった。こうした状況のために母は、私を看病しながら、衣料切符の時代といっても、切符を持っていても手に入らぬ私の着る物を、どうにかして手に入れようという死に物狂いの苦労も重なり、並大抵のものではなかった。古着でも物々交換でなければ手に入らないのに、交換に差し出す品物とてない身として、どう苦闘したのであろうか。衣料のことに限らず、母が私を救うためになめた苦労について、遂に問いただしたこともない私であった。

私達がどうしようもない苦境にあるとき、いつ復刊したのか中国新聞紙上に、広島市の戦災者に衣料の特別配給があるという記事が掲載された。新聞を読む余裕のあるべくもない私たちにも、そのうわさが耳に入り、県北に逃れてきた私たちは、それにどう対応したらよいのか、喉から手が出るほどに欲しい衣料であるが、打つべき手をどこに尋ねたらよいのかさえ全く分からなかった。まず広島へ出て見ないことには何事も進まないだろうとは思ったが、回復したとはいえ病み上がりの身で、可部から先、交通途絶の広島までをどうしたらよいやら、相談する相手すら居ない。母子にとって絵に描いた餅であった。じりじりしている時、9月17日、後に枕崎台風と名づけられた台風が、県の西部から北東進して日本海に抜けた。広島県にとって最悪のコースである。県下の交通網はズタズタに切断され、人々は身動き取れない状態に置かれた。私たち母子はすでに手の施しようもない状況下にあったのだから、ある意味では救いでもあり、落ち着けという神のおさとしであったのかもしれない。そしてこの間に衣料を入手するためには、絶対に広島に出てみなければならないという覚悟だけはできた。かくときまれば交通網の回復だけに耳を澄ます。県民の生活に直結する問題だから、応急措置は思いのほか早く進められたように記憶しているが、兎に角村内の道路、橋梁が歩けるとなってすぐ、新庄村域を抜けた先の状況は全く不明のまま、広島に向けて出発した。もはや身体の状況等は全く考慮する余地のないままであった。この時の広島行はすでに「福原家の記」に詳しく記しておいたから、ここではもう述べない。朝4時に新庄を出発して、広島江波の気象台に着いたのは翌朝の2時過ぎであったとだけ記しておく。

その日は疲労困憊、1日中合宿(もともと所長官舎であったが、戦時中の宿舎難から、他県出身者の宿舎として供されていた)で只々眠るだけであったが、翌日は勇を鼓して庁舎に出て、当時、Aと私2人の実習生の面倒を見てくださったY嬢にあって、今回の出広の事情を話し、戦災者衣料特配の様子を尋ねてみた。彼女の家が気象台の近くにあったからである。その翌日だったかに、自家の属する町内会等から問いただしてくれた状況では、この町内の特配は早くに終わってしまって、衣料としては何も残ってはいないこと、元柳町といえば跡形もなく壊滅してしまって、住民はおろか町内会すら消滅してしまっている。たとえ町内に割り当てがあったとしても、処理する人すらいない状況では、手の施しようがないだろうと、ほぼ予想通りの話の内容であった。市政も組織あってのものだから、個人につながる町内会が消滅してしまっている現在では、個人として手の施しようもないことになった。宿舎に帰って、足取りもまだ覚束ない体を横たえているところに、台長(いつからか広島は管区気象台に昇格していた)から呼び出しがあり、職員がいなくて気象観測すら継続できなくなっている、せっかく来たのだからお前も観測をやってはくれまいかという。確かに技術実習生ではあったが、実際の観測技術は何一つ教えてはくれなかった官のいう言葉かと一旦は癪に障ったが、食料も余裕を持っているわけではないので、いったんは宿舎に帰ってひっくり返ってあれこれ考えてみた。そうして今回の衣料特配は何も得るところがなかったが、今後まだ二度三度と特配があるかもしれない、その場合新庄に引っ込んでいたのでは同じ失敗を繰り返すことになる。台長が頼むのだったらいい機会だ、観測補助員として合宿にとどまり、次の特配のチャンスをつかむのがよいであろうと考えを決めて、台長に承諾の旨返答した。結局衣料に関して何の役にも立たなかったのだが。台長から懇願され、今後の戦災者援護に或いは繋がるかも知れないというギリギリの望みを以てその懇願を受けたのではあったが、今後の己の生活にどう繋がるかなどとは全く考えなかったし、手っ取り早い己のこれからの人生といえば、気象台との繋がりを生かす以外には考える余地はなかった筈なのに、そうした日々において、学業継続について私から母に願った事はついぞなかった。というのも、我が家では早く、兄が自分には子供は望めないと覚悟して、賢治の教育は私が考えてやると話していた事実があり、賢治に自分と同程度の高等教育を受けさせるのは当然であり、兄の死後、母も姉もだからそのことを目標に生活を組み立てていたわけである。私が広島一中という全国的に見ても進学率の高い中学に入学したのも、1本のレールでしかなかったのである。それゆえ私からことさら学業継続を言い出す必要にない雰囲気が占めていたことは論を待たない。事態は変わった。しかし母も私もそれについては進んで発言はしていなかった。

私が江波の生活を強いられている間、母が新庄を出たり入ったりしているらしいことは、何日かおきに食料補給のために新庄に歩いて帰った時、薄々感じてはいたものの、その母の行動が何を考えてのものであったのかは、考えてもみなかった。新庄の往復がしんどかったからであろうか、いやそうではない。一日一日を希望なく過ごすだけの、全く成り行き任せの己であり、見かけ上この上なくしんどい息子の生活を思いやり、自分の辛さに耐えていたであろう母、自分の生活が息子からもやさしく話しかけられない寂しさ、こうした母の辛さが私のためのものであることを知りながら、これからの夢を話して慰め、お願いする、わずかな思いやりも示せなかった己であった。

そうした2人でありながら、やはり親子であったと言おうか、あるいは姉信子の賢ちゃん、賢ちゃんと言って変わらなかった優しさのおかげか、2人の間では私の学業継続の思いはずーっと消えたことはなかった。そうしたあるとき、台長から学校はすでに始まっている学校に帰りなさいと話があった。親子2人の復学の下萌えの思いに一気に火がついて、母には改めて新たな苦労が顕在化したわけである。私はまだ完全には気象台から解放されたわけではなく、江波山上の合宿で寝泊まりをしていたので、母は1人新庄で私の上京する服装を一揃えしなければならなかった。また山陽本線はまだあちこちに不通区間があり、東京まで何日かかるか予想もつかなかった。ということは食料問題が大きいということである。そのための余分のコメをどう工面するか。母はこれにも転手古舞いをしたはずである。服装は廿日市の知人に私より何年か年長の息子さんがあり、その中学制服のお古を頂戴してくれ、これとて同郷の好みで分けてくれたものの、衣料窮乏の当時、交換物資とてない母は、その知人のところに交通不便の中、何遍も通って辞を低くしてお願いしてくれたであろうことは、前述の新庄を何度も出入りしていた姿から察しがついた。さらに東京行きの切符はどうして入手くれたのか、私自身で購入した覚えは全くないから、私の江波滞留中、可部まで出てきて購入してくれたのではなかったか。当時60歳といえば今と違ってはっきり老人であった。復学と決めてから何回か新庄に帰ったが、前述のように母に復学の準備を尋ねた記憶は全くない。母も何も苦心を話してくれなかった。そしていよいよ11月終わり頃だったと思う、母も広島駅まで送ってくれたと記憶する。これについても詳しい記憶はない。とにかく上京の途に就いた。その時3日分のおにぎりを作ってくれていた。苦労、苦労のさらなる連続であった。母にやさしいお礼の言葉をかけた記憶すらない。貧乏の中でも遂に消えなかった末っ子の甘えん坊であった。姉信子に対しては、当たり前に考えれば、広島に連れて行くべきではなかったのに、無造作に広島に連れて行ってあの惨劇に遭わせ、副木で足を固定されていたとはいえ姉の行方すら探しに行かなかった罪、殺人とまったく変わらない大罪を犯したことを、この「罪、許されざる」で告白したのであったが、これを書きながら、ひしひしと感ずる。姉に対してだけではない、母に対しても許されざる大きな罪を犯して、恬淡としていたことを。かって岡山時代に勤務を終えて官舎に帰ったとき、母にただいま帰ったよと声をかけていたらしい。それを母が家内にだったか、あるいは子供の1人だったかに、お父さんが役所から帰ってきたとき、ただいま帰ったよと声をかけてくれるのが嬉しいといったらしく、それが耳に入ってからは、もうテレくさくてその言葉が出なくなった覚えがある。これを今思い出し、復学の時にあれほど苦労を掛けても、母に一言もお礼をいわなかった自分の甘えたねじれ根性を、弁解の余地なく思い出す。

さて帰寮の途中、母の思いやりの余分なおにぎりは、並んで座った初老のおばさんに差し上げて、母の愛のおすそ分けをしたが、帰寮してみると、敗戦で所属先の消滅してしまった委託生全部を中央気象台の学生として収容したため、これまでの寮では、倍増とまではゆかなくとも大きく膨れ上がった学生数を収容しきれなくなって、戦時中産業戦士として、軍に収用されていた日立の挺身隊の寮を転用したものが用意されていて、私のように遅れてきたものはそちらに入ることになり、余っていた部屋のうちから、四畳半の部屋を自分で選んで、引越しをする忙しさであった。ただしこのことは私よりさらに遅れて復学した実習生A、一緒に被爆して私が気象台の宿直室から引き揚げた同じ日に、両親のいる瀬戸内海の島、大崎上島へ運ばれたその実習生Aが、入寮する部屋がなく迷っていることを知り、私の部屋を提供して同宿することができ、以後満州国の委託生だったために付き合いの狭い彼と、同病相哀れむ態の親密さを結ぶよい機会となった。こうした引越しの面倒くささのうちに、母から初めての手紙が届いた。そして母が住込み婦として廿日市の某家で生活することになった事実を教えられ、合わせて若干の金額が同封されていた。この手紙は母から貰った生まれて初めての手紙である。鉛筆書きの、母の手書きの字の初見であった。嬉しいというより面はゆい感じで、ぎこちない感謝の言葉しか書けなかったことを覚えている。以後も苦労をねぎらうあからさまな感謝の言葉は、何となく書けなくなってしまった。不孝な子、甘えることしか知らない不孝な子であった。

かくて母の犠牲の下、無事養成所本科を卒業するまで春、夏、冬の休暇には、母の世話になっている某家に、鉄面皮にも私も世話にならざるを得なかったが、当時のことは全く記憶に残っていない。母に味あわせ、自分も苦しんだ苦痛を、何とか記憶から消し去りたいとの思いの所為ばかりとは言えないが。唯、町内住民に割り当てられていた進駐軍使役の作業、旧日本軍の弾薬処理の仕事を、住民に代わって私が1人で務めたことだけを記憶している。これとてもやむを得ぬことながら、我々の存在を近隣に知らせて、母に更なる肩身の狭い思いを味あわせただけのこと、一連の親不孝でしかありえなかった。

昭和22年4月、広島管区気象台予報課に就職して新たな生活が始まる。
 
※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針