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生きているうちに会いたかった 蔦子ちゃん 
落合 良子(おちあい よしこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 広島市南観音町 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 山中高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は、当時16歳で、佐伯郡宮内村(現在の廿日市市)に母と姪の蔦子の3人で暮らしていました。私の父は川北良太郎と言い明治の終わりから大正にかけて、宮内村の村長を村のために無給で23年間勤めました。母は後妻として嫁ぎ私が生まれたので、男ばかりの兄弟とは年も離れており、長兄は、その当時、玖島国民学校の校長を務めていました。すでに女学校2年生の娘がおり、その子が同居していた姪の蔦子、14歳でした。長兄夫婦には、蔦子の下に男2人、女3人がいて、全部で6人きょうだいでした。広島市内にあった進徳高等女学校に玖島村からは通うことは大変なので、宮内の私の家から通っていたのです。
 
私には同性のきょうだいがいなかったので、2歳違い、学年は3年違いの蔦子とは姉妹のような関係で、何をするのも一緒でした。戦争で修学旅行もない時代、友達と一緒にお風呂に入ることもなかった頃です。蔦子と一緒にお風呂に入って歌を歌えるのが、うれしかったです。蔦子は私のことを姉ちゃん、姉ちゃんと言って慕ってくれ、私の人生で一番楽しい時期を過ごしていました。
 
戦争が激しくなり、全国各地が空襲される頃になると、広島市郊外の宮内村界隈で大きな家だったわが家には、私たち3人のほかに多くの家族が同居していました。父の妹夫婦の家族、その子ども夫婦と孫3人の7人家族が建物強制疎開の割当てにより、大手町から引っ越して、玄関からすぐの一番広い部屋に入居し、玄関左の部屋では、亡くなった兄の兄嫁とその子どもが住んでいました。その頃、子どもは疎開して、義姉1人でした。離れの部屋には、夫婦と子ども2人の4人家族、木小屋には身寄りのないおばあさんがひとりで住んでいました。
 
当時、私は南観音町の三菱重工業(株)広島機械製作所へ動員で行っていました。私が通っていた広島女子高等師範学校附属山中高等女学校は4年で卒業でしたが、私たちは卒業式も何もなく、そのまま動員先の工場へ毎日行っていました。当時、三菱重工業は江波に造船所もあったし、己斐の山の奧の方にも疎開した工場があったそうです。
 
動員の初めごろは、手袋などの消耗品の工場で、作業に使っているのこぎりを交換していました。その後、事務所へ移り、ものさしと鉛筆を使い、図面を清書する仕事をしていました。
 
消耗品の工場にいたとき、隣で製図をする主人と知り合いました。名前は落合幸彦で、6歳年上でした。北海道の出身で、高等師範学校に在学中、学徒動員で広島機械製作所に来ていました。
 
高齢だった母は私の結婚のことをいつも気にしていて、「好きな人ができたら、すぐ教えてちょうだい」と言っていたので、主人にそのことを話すと、「結婚を前提におつき合いさせてください」と母に言ってくれました。でも、私は16歳でしたし、人には私たちのことは言っていませんでした。
 
●8月6日
蔦子は「姉ちゃん、何時の電車で行くん? うちも同じ電車で一緒に行く」と言って、いつも私と一緒に家を出ていました。8月6日は、もう少しで電停に着くというところで、蔦子がちり紙を忘れたので家に取りに帰る、と言うので、「取りに帰るとまた遅うなるし、私が持っとるのを半分あげるけん」と、ちり紙を渡して、2人で一緒に宮島線電車へ乗りました。
 
電車はいつも混んでいて、車掌さんが人を押して入れるほどすし詰めでしたから、初めは一緒に乗っていてもひとりでに離れていってしまうほど満員でした。
 
私は学徒動員されるまでは、千田町にある山中高等女学校に通っていましたが、三菱に学徒動員されてからは、天満町で下車していました。天満町からは南観音町の三菱の工場行きのトラックに乗ります。トラックには背が高い人から先に乗りこみ、私のような背が低い人を引っ張り上げてもらって乗ります。女学生は立って乗車しているので、トラックが大きく揺れるたび、皆、キャーキャー言いながら、トラックのふちにしがみついていました。
 
工場に着き、事務所に入って早く仕事をしないといけないと思い、1本か2本、図面の線を引いたとき、急に地震のようにガタガタっと建物が揺れました。すぐ机の下へ隠れてじっとしていました。地震なら揺り戻しがあるはずですが、しばらくしても揺り戻しはなく、音もしないので、どうなったのかと思い、外を見ようと戸を開けました。広島機械製作所は工場内をトラックが行き来するぐらい大きく、建物も頑丈でした。そんな建物でも被爆直後はガタガタと揺れましたが、窓ガラスは不思議と壊れていませんでした。
 
体が焼けただれ、皮膚が垂れ下がった人が2列になって8人ぐらい目の前を通り、びっくりしました。やけどしていたのは皆、朝鮮の人でした。朝鮮の人は屋外で作業をしていたので、直接、被爆していました。でも、そのときは何が起きたのか、さっぱり分かりませんでした。ただ、見たこともないようなひどい状態で人が歩いていて、自分は夢を見ているのではないか、本当にこの世のことなのかと思うほど怖くて、どうにも表現できない光景でした。いつまでも忘れられないほど怖かったです。
 
時間がどのくらいたったのか、何時かも分かりませんでしたが、「もう町の方は火事になっているので、とにかく海の方へ出て、みんな、家へ帰ってください」と工場の人が言って回っていました。
 
どこの川か分かりませんが、1か所、向こう岸まで縄が渡されていて、それを伝って舟に乗ると向こう岸へ行けるようになっていました。5人ぐらい乗れる舟で観音から川を渡りました。
 
井口まで行ったら電車が動いていると誰かから聞いたので、井口に向かいました。仲良しの友達の河野さんの家が井口にあったので、そこに行こうと思っていました。河野さんは山中女学校の同級生で、同じ工場で働いていました。無事を確認していましたが、一緒に帰ることができなかったので、河野さんの家に行き、無事を知らせようと思ったのです。家の前にお母さんが立っておられたので、「河野さんは後から帰ってくるから安心してください」と大きな声で言いました。後日、河野さんのお母さんが、「あの時、無事を知らせてくれたので、安心して帰りを待つことができた」と繰り返し、言っておられました。
 
その後、井口から宮内まで電車に乗り、家まで帰ってきたら、家の前のガラスが全部粉々に割れていて、それを母がずっとほうきで集めていました。私が帰ってきて、母はものすごく喜びました。
 
母は、親戚の中学生に頼んで、近くの山へ上がって三菱の工場がどうなっているかを見に行ってもらったそうです。「あそこは燃えよらんよ」と聞き、私が生きていると思ったと言っていました。
 
後に夫となる幸彦さんは、被爆当時、広島文理科大学の学生で吉島に下宿していました。下宿先から大学へ向かう途中、ちょうど南大橋を渡りきった時に原爆が投下されたそうです。かなり飛ばされましたが、山中女学校の木の陰になり、手の甲をやけどしただけで助かりました。原爆で下宿先は跡形もなくペチャンコになり、大学も火事になり、行き場を失い困った幸彦さんは、私の家までやって来ました。
 
●蔦子の消息
6日はとうとう蔦子は家に帰ってきませんでした。そのことを長兄たちに知らせようにも電話はなく、翌日の7日、幸彦さんと2人で山道を越えて玖島まで伝えに行きました。
 
長兄は、玖島国民学校の校長として、次から次に避難してくる人の対応で学校に泊まり込んでいて、自宅にはいませんでした。義姉に伝えましたが、表立って泣いたりはしませんでしたが、親としてどんなにかつらかっただろうと思います。蔦子は第一子で、やはり頼りにしていたでしょうし、せっかく女学校にも行っていたのに。その後、長兄は一度も蔦子ちゃんのことを話題にすることはありませんでした。最近になって思うのですが、親としてあまりに悲しすぎて話せなかったのでしょう。
 
義姉が、「蔦子ちゃんはこの道を帰ってくるから」と言うので、来た時に通った道ではなく、義姉に言われた山の中の道を帰り始めました。木を払いのけ、道に迷いながらとにかく歩いて歩いて、やっと原村に出ました。宮内村の家に帰ったのは、夜の8時を過ぎていました。
 
●蔦子を捜しに市内へ
8日から幸彦さんと2人で蔦子を捜しに行きました。宮内村から井口まで宮島線電車で行き、井口駅から主人と歩いて蔦子を捜しました。避難所には名簿があるので、行く先々にある避難所と書いてある所に立ち寄り、名簿を確認して歩きました。草津辺りから避難所はいっぱい設置されていましたが、蔦子の名前はどこを捜してもありませんでした。幸彦さんがついていてくれなければ、私1人ではとても無理だったと思います。
 
火が燃えていましたが、家のないところは通れました。火の高さが50センチくらいありました。黒い炭になった人が仁王立ちになっていて、とても怖かったです。忘れられません。死にきれなかったのだと思いました。
 
広島市内の東側に比治山という小高い丘があるのですが、その向こうは陰になって被害を受けていなかったので、比治山の山を上がったあたりにある比治山国民学校へ行ってみたのですが、名簿に蔦子の名前はありませんでした。次に、もう1か所大河国民学校を回って調べてみたかったのですが、人気もなく寂しいので早く帰らないとと思い、仕方なく家に帰りました。帰っても、もちろん蔦子は帰っていませんでした。
 
その晩8時頃、近所の人が、「大河国民学校で川北蔦子という名前が名簿にありましたよ」と言いに来てくれました。その人の子どもが私と同じ山中高等女学校の2年生で、建物疎開作業から帰ってこないので捜しに行っていたとき、蔦子の名前を見たということでした。蔦子は生きていると思い、すごくうれしくなりました。
 
●避難所で
朝、家を出てから、途中で何度も空襲警報のサイレンが鳴り、防空壕に避難していたので時間がかかり、一生懸命歩いて行ったのですが、大河国民学校に着いたのは午後2時ごろになってしまいました。
 
蔦子に会えると思い、お菓子も何もないので、母が、大事に残しておいたお米で、むすびを3つ作ってくれました。私は、むすびが出たことにびっくりしました。むすびのほかに、ミニトマトと浴衣と下着のパンツと帯も持って行きました。
 
大河国民学校の名簿には蔦子の名前がちゃんとあったので、うれしく思い、教室へ行くと、ずらっと負傷者が並んでいるのに何度見ても蔦子はいません。すると、立っている私の足もとで、大やけどした息子を前にしょんぼりしているお母さんが私を見上げて、「良子姉ちゃんじゃないですか」と言われたのです。びっくりして「はい、そうです」と言うと「あなたの足もとにいる子が1時間前に亡くなりました。夜中じゅう、『良子姉ちゃん、良子姉ちゃん、台所へ行って水持ってきてちょうだい』と死ぬまでずっと言っておられました。お父さんもお母さんもいない、かわいそうな子なんですね」とおっしゃいました。蔦子が私の名前を呼んでいたのだそうです。生きているうちに見つけられなかったことが残念でなりません。ひと声でも聞きたかったし、生きているうちに蔦子のもとに来たかったのに、かわいそうなことをしました。蔦子ちゃんに会って、声を掛けたかったと、今でも思います。
 
蔦子を見たら、顔もきれいなままで、手も足も全くやけどはしていませんでしたが、何も着ておらず、ただ毛布に巻かれているだけでした。どんなにか恥ずかしかったろうと思います。あお向けに寝かされている姿を見た限りではやけどをしていないと思い、うれしかったのです。ところが片身ずつ浴衣を着せるときに、背中が全部焼けていて、手で触るとずるずると滑るほどに、ひどいやけどでした。そのときの感覚は、今でも残っています。そんな状態で蔦子はどんなにか痛かったろうと思いました。
 
しばらくすると放送があり、死んだ人は外へ出してもらわないと困りますと言われました。ウジがわくからです。幸彦さんと2人で蔦子の遺体を抱えて、行くあてもないので、校庭の草地に寝かせました。すごく暑い日でしたが、暑さも気にならず、どうなるのだろう、という不安な気持ちでした。何も食べていませんでしたが、お腹がすいたとも思いませんでした。
 
夕方になると、トラックが死体をいっぱい積んできて、目の前の谷へ落としました。まるで砂利を地面におろすように。その時の音が耳に残っています。死体が「落ちとうない、落ちとうない」と叫んでいるような気がしました。トラックから落とされた死体に一斗缶の油を注ぎ、火をつけて燃やしていました。闇夜でしたが、ばっと明るくて、朝までずっと炎が上がっていました。
 
トラックが1台しかなかったのでしょう、何度も死体を積んできては砂利を落とすように谷へ落としていました。あの死体は皆、行方不明になった人たちです。今だったら、1人の人でも行方が分かるまで捜しますが、その時は、砂利と同じように谷に落として、油を掛けて焼かれてしまうのですから、戦争は怖くて悲しいものだと思います。その時の光景が今でも忘れられないのです。
 
その晩は亡くなった蔦子と一緒に大河国民学校で翌日まで過ごしました。
 
●蔦子を連れて帰り火葬
「川北さん、タクシーが来とります」と避難所の人から言われたのは、8月10日の午後4時ごろでした。母も蔦子は生きているものと思っていたので、タクシーを頼んでくれたのです。その頃、タクシー会社はあまりなかったので、よっぽどのことがなければ、タクシーに乗るようなことはありませんでした。タクシーの運転手には、大事な車なので、広島へは行きたくないと嫌がられましたが、それでも預かっている子なので、どうしても行ってほしいと、母が家にあるだけのお金を渡して頼んだのだそうです。
 
蔦子を見て「死んどるじゃないか」とタクシーの運転手に言われました。大事な車に死人を乗せたくはない気持ちは分かりましたが、私たちも遺体を家まで連れて帰らなければならないので、何度も「ごめんなさい」と断りを言って、泣いて頼んで乗せてもらいました。とても感謝しています。幸彦さんと2人で、とにかく少しでも遺体がタクシーの座席につかないようにしようと、2人で抱きかかえて帰りました。
 
自宅に着くと、私と母と幸彦さんと3人で、仏壇の前に蔦子の遺体を寝かせました。間もなくして、近所の人が「川北さん、おたくの番じゃ」と焼き場の順番が回ってきたことを伝えに来ました。村の火葬場は、1体分の炉しかないので、1人ずつ次々に焼いていかなくてはなりませんでした。そのうえ、焼き場の仕事をしたことのない人たちが皆寝ずに手作業で対応していました。
「この子の親に遺体をまだ見せてないので、お願いです。長男がここへ戻ってくるまで遺体を置いておいて、顔を見せるまで待ってもらえませんか」と母が頼んでも「事情はよう分かるけど、焼くのが追い付かん状態で、あんた方だけ明日まで延ばすゆうわけにいかんのよ」と言われ、遺体を渡さないわけにはいきませんでした。かわいそうでした。それがその時の状況でした。
 
●蔦子の両親
蔦子の両親が宮内の家に来たのは11日でした。2人とも仏壇の前で、何も言いませんでした。亡くなった娘の顔を見ることもできず、何も言えないぐらい悲しかったのだと思います。
 
宮内村の明石という所からもう1人進徳高等女学校に通っている人がいて、その人はたまたまトイレに入っていて熱線の被害を免れたそうです。その人から聞いた話によると蔦子たちは建物疎開作業に行く前の朝礼があり、作業中の注意事項を聞くため校庭に並んでいる時に原爆が投下されたのだそうです。一瞬にして多くの生徒が熱線に焼かれ爆風に飛ばされ犠牲となりました。
 
●戦後の生活
8月6日の夜から大勢の人が避難してきました。私の家は大きかったので避難者の割当てがありました。それまでにも割当てがあったため、家の中には家具などがたくさんあり、家具と家具の隙間を歩くようでした。木小屋に夫婦と子ども3人が避難しておられたのですが、その家族は3歳の女の子が火の中にいるのを助けられなかったそうです。そのお母さんが毎日叫んでおられました。
 
10月に、わが家の裏に積んであった割り木がずれていたので少し積み替えたのですが、それだけで顔がかぶれ、どんどん化膿して、膿が流れてきました。地御前から女医の塩田先生が毎日往診に来られ、「絶対痕が残らないようにするから」と言われました。痕が残らぬように漢方薬を塗り、鼻の穴と口のところだけ穴を開けたガーゼを顔に貼り、毎日取り替えました。膿のにおいがすごかったと兄が後に言っていました。治るまで、2か月かかりました。そのときに原爆の毒が出ていったのだと思います。
 
昭和24年(1949年)、私が20歳の時幸彦さんと結婚しました。
 
長男、長女の2人の子どもを授かり、孫は4人います。主人は広島文理科大学を卒業後、高校の数学教師として72歳まで勤めました。退職後、脳梗塞を患い、私が8年4か月、自宅で看護しました。その後、特別養護老人ホーム原に9年2か月居り、95歳で亡くなりました。
世界一やさしい主人とめぐり会い幸せな結婚生活でした。
 
●若い人たちへ伝えたいこと
戦争というものは、どちらの国も死ぬ人が出るし、得になることはありません。 
 
私が、小学校に入学したとき盧溝橋事件がぼっ発し日中戦争が始まり、学校では黒板に「我らは天皇の赤子なり」と書いてありました。戦車が足りなくて馬が活躍していたので、小学校2年生のときに先生から馬に手紙を出しましょうと言われて書いた手紙には、自分は女だから戦争でも兵隊になれないので、馬に生まれれば役に立ったと思います、と書いているのです。いまだにそのことが忘れられません。それほど徹底して小さい子どもにも教育していた時代だったのだと思います。今ではちょっと考えられないでしょう。そんなふうに、とにかく国のために尽くし、何かしなければいけないと思う気持ちになるような教育をされていたのです。自分でも後から考えたら、おかしな話ですが、そのときは真剣そのもので作文に書いています。
 
だから、戦争に負けてよかったと思います。もし、勝っていたら、上位の軍人がいばりくさっていたでしょう。
 
政治の仕方で国民は不幸にも幸せにもなります。戦争で良いことは1つもありません。日本政府が核兵器禁止条約への不参加を表明しましたが、被爆した国が不参加なのは悲しいです。 

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