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平和な地球になるように 
髙橋 末子(たかはし すえこ) 
性別 女性  被爆時年齢 8歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2022年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 向原国民学校2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●私の家族
昭和20年、被爆した当時は、祖父・折重三藏、父・亀人、母・トメ、姉・ハルコ(12歳年上)、スミコ(10歳年上)、小夜子(3歳年上)と私(末子)の7人で、高田郡向原町で生活していました。

祖父は厳格な人で、私たち孫はいつも「ぴしゃっとしなさい」と言われていました。昔からある家だったので、町内会でも何か役割を担っていたと思います。

父は戸島の農協(当時の農業会)の精米所に勤めていました。当時の農家の人たちは自分の家に精米機があるわけではないので、精米所へお米を持ってきていました。また、折重家はたくさんの田畑を持っていたので、父は農協の仕事とは別に、そこで農作業もしていました。

母は、本名はトメなのですが、普段はトメヨと呼ばれていました。女性らしい響きを、好んで使っていたのではないかと思います。朝から晩まで、子育てや農作業に追われていました。

姉・ハルコとスミコは中学校を卒業後、家で家事などの手伝いをしていました。小夜子は向原国民学校の5年生、私は2年生でした。

きょうだいは、当時一緒に住んでいた姉・ハルコ、スミコ、小夜子のほか、結婚して吉田へ行っていた姉・実美(20歳ほど年上)、同じく結婚して下甲立へ行っていた姉・アキヱ(18歳年上)、生後すぐに、山口県の父の弟の家へ養子に行った姉・トミエ(16歳ほど年上)、軍人として呉へ行っていた兄・正人(9歳年上)と、青梅やイチゴなどの食べ物にあたって、幼くして亡くなった3人の兄と1人の姉がおり、私は12人きょうだいの末っ子でした。
 
●被爆前の生活
私の家は、「消えてくれないかね」と思うほど、たくさんの田畑を持っていました。畑では、こんにゃく芋を植えており、こんにゃくを作って食べていました。自給自足の生活でした。

田んぼもあったのですが、できた米はすべて農協へ出荷しないといけなかったので、大麦を食べていました。当時、家で食べる米を置いておくことは許されなかったので、もし家で白米を食べたら、密告されていたのではないかと思います。

私が国民学校に上がるか上がらないかの頃、父の勤め先である農協の配給のくじで、ゴムの靴が当たったことがあります。物がない時代なので、とてもうれしかったのを覚えています。学校へ履いて行ったのですが、雨の日は特に、草履よりも歩きやすかったです。「お父ちゃんが農協におってよかった」と思いました。その農協へは、学校帰りに父に会いに、時々道草で寄っていました。
 
●昭和20年に入って
昭和20年に入り、戦況が悪化してくると、婦人会が集まって広場で竹やりの練習をしていました。私もその様子を見に行ったことがあります。子どもたちも、「この戦争に勝ったら」や「もしも負けたら」などという話をよくしていて、子どもながらに緊張していた気がします。戦争が始まったころはそうでもなかったと思うのですが、昭和20年の5,6月頃は、ちょうど今のウクライナのように、切羽詰まった空気をひしひしと感じていました。

向原では空襲に遭ったことはないのですが、空襲警報はよく聞いていたので、危機感はありました。夜になったら、部屋の窓を閉めて、暗くしていました。8月になると夜でも飛行機が通ることがあって、「勉強せんでもええからはよ寝なさい」と言われていました。山の上の方には地域の人たちが掘った防空壕があり、普段から、「空襲に遭ったらここに逃げるんよ」と言われていました。
 
●兄・正人のこと
兄・正人は中学校を卒業した後、国鉄に就職し、向原駅に勤務していました。折重家には、正人のほかにも3人の男の子がいましたが、みんな幼い頃に亡くなってしまったため、正人は無事に成長した折重家唯一の男の子であり、跡取りとして宝物のように大切にされていました。その宝物である正人が国鉄の職員になったことを、母はとても喜んでいました。私も学校の帰りに駅に寄って、兄に会いに行っていました。

そんな兄でしたが、駅に勤務しながら、出征していく兵隊さんたちを毎日毎日見送り続ける中で、何か思うことがあったのでしょう。「日本が大変な時に、こうしてはいられない」と、自ら志願して軍隊へ入ったのです。母は「無駄な正義感を出さなくても」と泣いて止めましたが、兄は聞きませんでした。入隊後、兄は呉へ行きました。昭和19年頃だったでしょうか。私は幼かったので詳しいことは聞いていませんが、呉の飛行機を作るところに勤めていたそうです。

兄が呉へ行ってから、一度だけ、朝突然ポンっと向原へ帰って来たことがありました。昭和20年5月27日でした。そのとき兄は、げっそりと痩せて真っ黒に日焼けしており、私は「人間じゃないようなのが帰って来た」と思いました。兄が着ていた服を洗うため、当時は洗剤がないので鍋で煮たのですが、服を取り出してみると、縫い目のところにびっしりとノミがついており、煮ても離れなかったので、みんなびっくりしました。それくらい、ひどい生活だったのでしょう。兄は、「上官に、今日一日だけ家に帰ってこいと言われた」と言っていました。戦況が厳しいことが、分かっていたのではないでしょうか。

母は兄のために山菜とご飯を炊いて、お腹いっぱい食べさせてから、送り出しました。兄が家にいたのは、半日ほどだったと思います。

その後、7月に呉が空襲を受けた際には、家族で兄を捜しに呉へ行きました。兄が勤めていた建物の門まで行ったのですが、門番にはまったく相手にしてもらえませんでした。おそらく、それどころではなかったのでしょう。その後、父は一人で何度も呉へ兄を捜しに行ったのですが、兄に会うことはできませんでした。
 
●8月6日
8月6日の朝は、8時前に、父、母、姉・小夜子と私で、畑へ行って農作業をしていました。すると突然、空襲警報が鳴り、耳がピリピリするほどの低空飛行で、飛行機がブーンと通っていきました。本当に、キューンと耳のそばを通って行ったかのように感じました。飛行機はものすごい低空飛行をしていたので、見上げると、中に乗っている2人の乗務員が下の方を見ているのが、はっきりと見えました。近所の人が「伏せなさい!」と叫ぶ声も聞こえました。

その後、畑にあった柿の木越しに、広島市の方で光が見え、ドーンという音が聞こえました。ピカッピカッと光ったかと思うとムクムクと入道雲が湧き起こり、「何が起こったのだろう」と思っていると、空がすーっと暗くなっていきました。それは夕暮れのようでした。その後、霧のような雨が降ったと思います。その時はそれが原爆だということを知らなかったので、焼夷弾か何かが落とされたのだと思っていました。

近所の人の、「はよ帰らんとまた飛行機が来るぞ」という声が聞こえました。私たちは走って家へ逃げ帰りました。畑から家までは、走って5~10分ほどの距離だったと思います。

その日、2、3軒隣に住んでいるおばさんが、朝8時前の汽車に乗って、用事のため広島市へ向かっていました。矢賀のあたりにいるときに原爆が落とされて、市内へ入れなくなったので早くに戻って来ていましたが、皮膚がただれていたのを覚えています。私がおばさんに「すごいね」と声をかけると、「市内はこんなもんじゃない、今大変よ」と言われました。
 
●避難してきた人たち
原爆投下の翌日、7日になってから、市内で被爆して逃げて来た人たちが、県道向原三次線の線路沿いを、すーっと通ってくるようになりました。汽車やバスもないので、だらだらだらだらと三次方面へ向かって歩いて行かれたのですが、男の人も女の人も、皮がむけ、一糸まとわぬ姿で、その光景が今でも頭から離れません。

特に印象に残っている1人の女の子がいます。彼女は18歳くらいに見えましたが、目も脚も、真ん丸に腫れあがっていました。1人で歩いているその子に近所の人が「どこへ帰るん」と尋ねると、「西条へ帰る」と答えました。西条へ帰るのであれば、もっと手前の志和口あたりで右へ曲がり、東へ行かないといけないのですが、避難する人々の流れに乗って、向原まで来てしまったのでしょう。とにかく次々と、絶え間なく避難者が通って行ったので、その後の彼女の行方は分かりません。でもずっと気になっており、その後いつまでも姉たちと、「その後女の子はどうなっただろう」と話していました。

また、私の家の田んぼには、農機具を入れる小さな小屋があったので、避難してきた2~3家族を泊めてあげました。母親が麦ごはんを炊いて、「これを持って行ってあげんさい」と言うので、私が持って行ってあげました。家族は2~3日そこで過ごし、その後、三次の方へ帰って行かれました。

別のある家族は、広島市内に出ようとしたところで矢口のあたりで原爆に遭い、市内へ入れなくなったので、裸足で歩いて帰って来たと言っていました。逃げる途中にあった畑の夏野菜を食べながら帰って来たと話してくれました。
 
●学校が収容所に
8月6日から数日後、私の通っていた向原国民学校は、芸備線上で一番大きな学校だったため、講堂が広島第二陸軍病院分院となり、宇品で被爆した兵隊さんたちがたくさん運ばれてきました。講堂にむしろを敷き、その上に兵隊さんが寝かされていました。講堂にびっしりと兵隊さんが横たわっていたその光景が、今でも忘れられません。

向原国民学校の前には女学校があり、その生徒さんが救護班として、兵隊さんに赤チンを塗るなどの手当てを手伝われていました。私の母も、学校に急遽作られた炊事場で、ご飯を炊く手伝いをしました。

私は両親から兄・正人を捜すよう言われて、姉・ハルコ、スミコと一緒に学校へ来ていました。私は兄を捜して講堂を歩きながら、負傷した兵隊さんの身体中にウジやシラミがぼろぼろとついているのを見かけると、怖いとも何とも思わずに、手でつぶしていました。

講堂では、うめき声や、「水、水」と水を求める声が聞こえました。私は子どもだったので、水をあげるような手伝いはしていませんでしたが、大人たちは、水をあげていたと思います。
 
●兄を捜して
父は、8月6日の後、負根で、被爆して亡くなった人の遺体を焼く作業に従事していました。1枚の板に、5~6人の遺体を乗せて焼いていたそうです。焼き場からは毎日煙が上がっていて、煙の臭いにも慣れていきました。

あるとき父は、三次から被爆した息子を捜しに来た家族が、息子の遺体が焼かれる寸前に焼き場に到着し、遺体を連れて帰ることができたが、もう少しで焼かれてしまうところだったという話を耳にしたそうで、もしも兄が亡くなっていて、一歩違いで焼かれてしまってはいけないからと、私たちに兄を捜させるようになりました。

8月6日から2~3日後、7月の呉の空襲からずっと兄を捜していた父は、また呉を訪れました。しかし、そこには兵隊は1人もおらず、そこで出会った人に「広島駅の近くで兵隊さんがいっぱい倒れとるよ」と言われたそうです。そのため、そのさらに2~3日後、8月6日から1週間はまだ経っていなかったと思いますが、父、母、姉・小夜子と私で、広島市内へ向かいました。母はもし兄がいた場合に、お腹が空いていてはいけないからと、おはぎを重箱に詰めて持っていきました。

私たちは歩いて市内へ向かいましたが、その途中、何体の遺体に出会ったか分かりません。逃げる途中で行き倒れた人も多かったのでしょう。戸島川のほとりにも遺体がありました。水を求めて亡くなられたのではないかと思います。
矢賀のあたりまで行きましたが、そこでは捜しようもないほど遺体が山になっており、それ以上は進むことができませんでした。仕方なくその日は引き返し、歩いて向原へ帰りました。途中で、兄のためにと持ってきていたおはぎを食べ、川原で休憩しながら帰りました。

その後、兄を捜しに何度も広島市内へ行きましたが、結局見つけることはできませんでした。姉妹みんなが家庭をもつまでは兄一色の生活で、広島駅周辺に住み着いていた子どもたちなど、目につく人すべてを、「兄じゃないか」と思って見ていました。特に母の、息子の生存を信じる執念はすごいもので、昭和49年に元陸軍軍人の小野田寛郎氏がフィリピンのルバング島で発見され、日本に帰って来られたときには、「正人も実は、生きて帰ることを恥だと思っていて、どこかで隠れて生きているのではないか」と言っていました。私は、母がそんなふうに兄の帰りを待ち続けることで、私や私の姉など、女ばかりが生き残ったことを重荷のように感じていました。 兄はいまだに行方不明のままで、私は毎年夏になると、原爆供養塔納骨名簿に兄の名前がありはしないかと確認しに行っています。
 
●終戦の日
私が住んでいたのは、向原の4区という地区でしたが、この近所に1軒だけ、ラジオのある家がありました。8月15日には「みんな集まりなさい」と言われて、その家の庭に地区の人がみんな集まり、ラジオの前で正座して、玉音放送を聴きました。

戦争のために、「あれもいけない、これもいけない」と言われて、食べるものなどいろいろと我慢してきたのに、負けたのか…と思いました。大人も子どもも、その場のみんながわんわん泣きました。負けを認めざるを得ないと感じました。
 
●被爆者健康手帳のこと
私は、向原へ逃げて来られた被爆者の方の救護にあたったり、兄を捜して被爆直後の広島市内へ入ったりしましたが、母が「手帳を持っていると結婚できない」と言ったので、被爆者健康手帳は取得しませんでした。学校の先生が、家まで来て手帳の取得を勧められたこともありましたが、母は頑として聞きませんでした。

母は、『愛と死の記録』という、登場人物の1人が被爆者であるために結婚をためらうというストーリーの映画に、自分たちを重ねていました。同じく、映画『純愛物語』の影響か、「肢体の不自由な子どもが生まれるのではないか」と心配していました。

父は、被爆して亡くなった人の遺体を抱き上げては焼くという作業を続けていたためか、その後ずっとだるさを訴えていました。戦後、父はだるさのせいで田畑の仕事ができず、よく母に怒られていました。父は後に、そのだるさはたぶん被爆の影響だろうと言っていましたが、「女ばっかりたくさんいるのだから、家族の誰かが被爆者健康手帳を取ったらみんな嫁に行けなくなる」と思っていたようで、病院にかかることも、手帳を取得することもありませんでした。
 
●戦後の生活
向原国民学校はその後、一般の負傷者も受け入れるようになり、終戦から3年ほどは、家へ帰れない被爆者の方たちが引き続き暮らしていたので、授業で校舎を使うことはできませんでした。そのため、戸島の神社の境内や公園、川のほとりなどで授業をしました。

被爆から4年が経った頃、私が小学6年生のときに、再び校舎を使えるようになったのですが、教室は最初、血みどろでした。今では考えられないことですが、当時は洗剤や手袋もないので、みんな素手で掃除して、やっと授業ができるようになりました。6年生のときには学年のみんなで、広島城や山口県岩国市の錦帯橋へ遠足に行きました。錦帯橋へ行くときは、汽車に乗って行ったのですが、人数が多いので、車両の通路に新聞紙を敷いて、その上にみんなで座りました。錦帯橋の前ではみんなで記念写真を撮りました。その写真は今でも大切に持っています。

向原小学校卒業後は、向原中学校に進み、その後、向原にある花嫁学校に通いました。花嫁学校は華やかな場所で、お花やお茶、和裁や洋裁を習って、平穏な日々を過ごしました。花嫁学校を卒業するかしないかの頃に、結婚の話が出て、その前に一度働いてみようと、被服支廠に就職しました。被服支廠へは、段原に住むいとこ(母の姪)の家から通いました。ある時、そのいとこに連れられて元安川へ行ったのですが、川のそばにむしろを敷いて住んでいる人がたくさんいました。そこで亡くなった人の遺体が川に浮いていたこともあり、それは衝撃的でした。そのような人たちを見ても、「うちの兄ではないか」という思いが頭をかすめました。

昭和34年、私が21歳のときに、1歳年上の髙橋英樹さんと結婚しました。英樹さんのお父さんは県警に勤めていて、私が中学生の頃に転勤で、一家で向原へ引っ越してきたのがきっかけで、英樹さんと知り合いました。英樹さんのお父さんは、被爆直後の広島市内で、電車の中で被爆した人たちの救護活動にあたったそうで、被爆者健康手帳を持っていました。英樹さん自身は当時加計に住んでいて、被爆はしていませんが、爆風で瓦が飛んできたと言っていました。

被服支廠には、昭和36年に第一子を妊娠するまで勤め、その後、可部へ引っ越しました。私には息子が2人いますが、出産するときには、講堂で見た光景が頭をよぎり、「赤ん坊に手はあるだろうか?」「どんな子が生まれるか?」と心配しました。幸いにも2人とも健康で、今も現役で働いています。
 
●被爆体験を伝えたいと思ったきっかけ
子どもたちが小さい頃、小学校時代の同級生である堀敬子さんを中心とした仲間たち5~6人で、「向原であったことを伝えねば」と、中国新聞に被爆体験記を投稿し始めました。堀さんは特に文章力のある人で、良い文章を書いていました。そんな仲間たちもみんな亡くなってしまい、どんな文章でも残しておきたいと思いました。文章を残すことで、仲間も喜んでくれると思います。 

また、姉・小夜子も知っていることは言った方がいいと勧めてくれていたため、今回、被爆体験記執筆補助事業に申し込みました。
 
●次の世代へ
私は、健康に不安はありますが、今まで生かしてもらっている分、自分が見たことを伝えていかなければと思っています。これからの若い人には、平和な地球にしてほしいですし、そのために、被爆の事実を知って、考えてもらいたいです。私には、現在の世界情勢が、被爆後の広島の惨状と重なって見えます。核兵器の争いは絶対にいけません。核兵器を使うと人類はいなくなります。
私はこれからも、何かの機会に、自分の体験を伝え続けたいと思います。 

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