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被爆体験について 
古市 敏則(ふるいち としのり) 
性別 男性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南1丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
柳田邦男著、空白の天気図(新潮社)に実名で記載されている。

昭和20年8月6日、小生は広島地方気象台勤務で気象技手として、観測・予報・調査業務を担当していた。

8月6日8時から2階北西の部屋で天気図と天気予報の研修をするため、当時の中学校卒業者4~5名を集めてこれからの研修の要領を話している最中に被爆。といっても急に北側の窓ガラスが破れて、自分の方に飛んでくる事を感じて、目耳をふさいで床に伏せたが全身にガラスの破片を受けていた。振動がおさまって、1階におりたが廊下は服掛、戸棚が倒れて足のふみ場もないばかり。しばらくして、負傷した者をタンカで山の下の陸軍病院江波分室に数人で運び軍医にみせた。分室の近くにある自分の下宿先、江波アパートに立ち寄った帰えりに皿山から逃げてきたらしい大きい野犬数頭に会い、びっくりしたが、無事、山上の気象台に帰えった。

在広島の職員を家にかえし、残り者で観測予報業務を続ける事になった。小生は1週間後発病し、物が食べられなくなったので、15日の終戦の日、高松へ帰えされる事になり、生きるか死ぬかわからん体で高松へ着いた。実家は高松空襲で焼失。浅野の親類の家の土間で暮らしていたので、トギトギとはうようにして3里の道を、親に会いたい一心であるいた。親の顔をみたとたん意識不明。近所の医者も病名もわからん病気、長くもたない、好きな物を今の内に食べさせよといった。お盆のダンゴを食べた。隣家の農家の牛乳を毎日わけてもらって飲んだ。少し離れた農家の仮小屋に移り、静養をつゞけた。

12月に入り、27日までに復職しなければ退職との通知。高松の気象台近くの農家の小屋を借り一家7人が小生の俸給で生活する事になった。一家のため無理を覚悟で、勤め始めた。もちろん非現業で、日勤にしてもらった。夏になると体調が不調になる年が数年続いた。無理な労働は出来ず、無理すると意識不明になりかねないので、困った。一見なまけものと思われる。

毎年の8月6日広島の平和祈念式で死没者名簿に書き込まれるシーンを見るたびに、順番を待たされている心地になる。被爆者しかわからない心の動きであろう。
  

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