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昭和20年8月6日 原爆時9歳時の記憶 
日原 一昭(ひはら かずあき) 
性別 男性  被爆時年齢 9歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2023年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
 日原  一昭(ひはら かずあき)

私は現在88才です。年数が経っても忘れられない景色があります。

8月6日、一瞬にして放射能を伴って広島市が燃え上がり消えてしまった。大量殺戮兵器使用は「だから戦争は終焉(しゅうえん)したのだ」という米国の論理は合理化に過ぎず、もの凄く悲しい。末代まで許せない暴挙だ。

原爆当時、父35才、母31才、子供4人(私9才、以下7才、4才、0才)。父は昭和18年33才の時、病気(肺疾患)で除隊し、中国より帰還していた。長兄(日原令人)の会社、広島モーターズ商会から独立して、広島交通(ハイヤー業)を市内十日市町(新市町)で起業していた (爆心地から500M)。

居住地は、借家の三篠本町(母の両親居住)から、市内への空襲警戒に備え古市(ふるいち)町中筋(なかすじ)に万一に備え別荘(借家)を用意していた(太田川の本流と放水路にはさまれた中洲で稲作地。南端の対岸は市内)。
 
8月6日は、休んだことのない父が中筋の家で発熱し、庭いじりしていた。私も発熱で寝ていた。突如マグネシュームの大量発火のような光線とともに爆風が押し寄せ天井が吹きあがった。裸で作業していた父も「熱いっ!」といって飛び込んできた。

きのこ雲がもくもくと立ち上がった。黒っぽい煙の中から紅蓮の炎が混じり地獄絵図のようだった。成長し、きのこ雲が頭上に覆い被さるようだった。この雲が今に地上に降りてきて全員窒息死するそうだと、流言が飛び交いそわそわしていた。その後、上昇気流で夕立模様となり、黒いほこりが叩き落されたようだった(黒い雨) 。
 
 
父母の鬼神の如き働きについて 
父の行動は素早く、即座に家族も連れて市街に急行した。父は爆心地に近い自分の会社に、母は子供達を同行して両親の安否確認のため三滝の避難場所に向かった。祖母は首筋に軽い火傷をしていた。再会後、両親同行で別荘に引き返した。

父から聞いた話では、会社に即死者はいなかったようだが、火傷・怪我をした従業員をすぐに中筋のわが家に避難するよう指示したとのことだった。

母によると、父が夕刻になって会社の被災者を集団で避難させてきて家に収容した。中には火傷で皮膚が垂れ下がったり頭の傷で出血が続いて、あたかも頭が割れてパクパクしているような人もいたそうだ。

そのほか親戚・知人も頼ってこられ、家は満杯で雑魚寝状態となり、夏場でよかった。食事の世話は勿論のこと、食べ物の調達も大変だった。

父の姉(私達からは叔母)は、大芝の本家で温室の中に頭からガラスを浴び頸動脈を切って瀕死の重傷を負ったそうだ。父は知り合いの三滝(みたき)の外科医を訪ね治療を頼んだが、先生も怪我をされていたようで歩けないのでと断られたが、必死の想いで頼みこみ自分の背中におぶって三滝から同行し、先生に縫合して頂き、父の姉はからくも命をとりとめた。

中筋の家では、幸いにも医者の医療機器を一室に預かっていて父母は臨時医師と看護婦の役割を担い感謝された。近所からも怪我人を連れてこられ簡単な治療薬が役だったらしい。

一週間ほどして避難されていた従業員の中から、歯茎が紫色になり頭髪にさわるとゴソッと髪の毛が抜けたら死が近いとの噂が流れた。 自分達は大丈夫だろうと髪の毛に触ったところ抜けてしまったので、会社の人は全員「こうしてはいられない。実家に帰らねば」と、重傷者を除いて家族のところに帰られたが、その後全員亡くなられたとのことだった(放射能被害) 。

一人だけわが家に避難されなかった人がいた。韓国ご出身の方で、後年同業を起業し、父親の強烈なライバルになった。

わが家で亡くなられた方もいた。焼き場が満杯で夏場でもあり、大八車で河原に運び他の遺体とともに井桁に組んでお骨にした。焼ける匂いは強烈だった。今でも敏感だ。

8月15日朝、玉音放送があるというのでラジオの前にみんな正座した。雑音が凄く、なにを言われているのか理解できなかったが、大人たちは泣いていた。日本は敗けたと聞いたが、すぐには理解できなかった。
 
当時の生活環境
食関係で、いくつか記憶に残っていることを断片的に記す。

隣接する土地を耕し野菜の種まきをしたが、収穫には時間がかかる。食するものがなく近所の農家から分けて頂いた。田んぼで蝗(いなご)をとってきた記憶がある。記憶の中では子供達の仲間で川にうなぎとりの「びく」を仕掛けで早朝引き上げると細いうなぎが数匹入っていた記憶がある。それでも母は喜んでくれていた。

配給で真っ黒い肉のようなものがあった。臭くて半ばくさっていたのか?聞いたら鯨の肉だという。以降、鯨アレルギー症状で、成人になるまで鯨は食べられなかった。

今でも思い出すのは、量を増やすため雑穀に大根を入れたご飯がまずかったことだ。大人数で主食代わりにしていた。

庭で鶏を飼っていた。とうとう運命の日がきた。祖父が「わしがさばく」と宣言し栄養失調気味の家族を元気づけた。私は目をつむって羽根をむしった。何を食べたのか記憶はない。

大水が出た時、内側の竹やぶの中でプカプカ浮いて流れてきた野菜を獲った記憶がある。食べるものは何でもよかった。
 
国民学校(小学校)
どんな勉強したのか、まったく思いだせない。まして担任教師など記憶にないが、忘れられない出来事だけは記憶の隅に残っている。大芝小2年時の給食は、いつもバケツにいっぱいの味噌汁だった。食べられなくて叱られた(戦地の兵隊さんはがんばっている。それなのにお前たちは…)

古市小の4年生の時、眼鏡をかけた怖い女教師が担任で、私が規律を破った(?)ということで叱られて外に立たされた。夕刻になって誰もいなくなっても立っていた。教師も帰宅したらしく、日が暮れてきたので自宅に帰ってきたことがあった。ひどかったなぁ。

服装もひどかった 夏冬通して半パンと下駄・藁草履が定番。しもやけ・ひび割れは当たり前、ひもじさと寒さはいつも思い出す (軍国主義・戦地の兵隊さんへの感謝・贅沢は敵)。

終戦後すぐに三篠小学校に5-6年生時在校した。校庭の樹木は、焼けぼっくい。バラック建て・採光はガラスがないので雨戸を突っ回棒で開閉していた。

頭部に大やけどを負いケロイド状になった友人や、体中ガラスの破片を浴びて治療中の友人など、小さな火傷を負ってケロイド状になっていた友人はたくさいた。

勉強は何をしていたのか全く記憶にない。野球で夢中だった。

中学に入って同級だったメンバーと再会して安心した。 
 
住環境
住居が転々とした。借家だったので、祖父母は残り家族は三篠から古市中筋に、そして戦後一時草津漁港の造り酒屋さんの家に間借りした。

そして横川の新築2階建て借家に移った。線路そばで列車通過時、振動がひどかった思い出がある。

付近はバラック建てばかりで、まずは雨露が凌げればということで焼け跡からの復興は住む家の問題から始まった。

あっという間に親戚・縁者のたまり場になった。皆ほっとしたような表情で笑顔がよみがえっていた。クリスマスを祝った思い出がある。
親戚との濃厚なつきあいは、困った時から始まる。助け合いの精神を特に父が発揮して、訪ねてこられる人は拒まず受け入れていた。困った時はお互い様だと言っておおらかだった。

父を頼って大勢の人が訪ねてこられた。特に復員が始まり働く場がないので皆困っていた。
復員されてきた親戚の若手は仕事を求めてきた。感謝された。

軍隊時代の知人からの依頼で、中国から一家4人で引き揚げてきた。Y氏(元陸軍大佐)家族が住む家もなく路頭に迷われていて、訪ねてこられた。

大芝にあった元工員さんの空き家になっていた二間の住居に案内したところ喜ばれ、命の恩人として感謝された。この一家とは、終生とことんご縁があった。一家で受けた恩を感じ、家族全員で身を粉にして働かれていた。

その厳しく生きる姿は、しっかり目に焼き付いている。
 
復興に向けて父、明美の奮闘
父、明美はおおらかで、経営者というよりも事業家だった。

戦後しばらくして焼け跡に子供の時から夢見たデパートを起ち上げた。店の名前は屋号の「玉元屋」にした。

ガレキの山の中からの戦後広島復興の旗手と持ち上げられた。 

広島には老舗の福屋があったが、爆心地のため廃墟のままだった。

復興の兆しが見え始め、人出が中心地に回帰し再建された。玉元屋は立地条件が悪く、2年間くらいで廃業した。

世相も悪く仕事もなくケンカが絶えず、市内はヤクザの街と化していた。後日、中学に入学してからもその気風が残り、荒れていた記憶がある。

以前のタクシー業に戻った。当時フオードの代理店も引き受けていた。母の弟(枝松達夫)が復員してきて屋台骨を支えるようになり、中心軸ができ経営が廻り始めたと認識している。心強かった。

父も家族も贅沢はなしで質素な生活態度維持、全員生きるために必死で働いた。
 
私の忘れられない体験は部分的であり誇張した部分もあるかも知れないが、現在88才に到達しても身にしみこんでいるものは消えることはない。環境激変・非常事態での父母の行動を振り返って、「ここまでできるのか」との想いでいっぱいだ。

そして焦土と化した街の復興に立ち上がって、皆で頑張ったエネルギーは忘れられない。それにしても経済的にはどうなっていたのか、わが家は資産がある家ではない。どうやって資金を手当てしたのだろうか私はわからない。銀行の支店長と昵懇だったので、人物を見込まれて融資を受けていたのかも知れない。子供心では理解できなかった。
 
父から得た教訓をしっかり受け止めている。

ある日、母が父の兄弟のことで非を鳴らしたら激怒したことがあった。「扶け合わないといけない!」

人が訪ねてきたら、「話をしっかりと聞く。懐広く受け入れる」。

上から目線でものを言ったことはなかった。同じ目線で話していた。逆に利用されたこともあったが、その人を悪く言ったことはなかった。言葉で教訓めいた話はしたことがなかったが、行動を通じて私達に示していた。
 
                                         2023年(令和5年)10月26日
                                                  日原 一昭(88才) 

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