昭和一八年暮、学徒兵として応召した私は昭和一九年も終らんとしておる一二月習志野の陸軍予備士官学校(陸軍機甲整備学校)から士官候補を一区隊全員が陸軍船舶部隊に転属命令を受けて広島に赴いた。そして宇品沖の金輪島の陸軍野戦船舶本廠(暁六一四〇部隊)に着任した。
あくる昭和二〇年になると戦局は風雲急を告げ呉軍港やその周辺工業地帯への米軍艦上戦闘機、同爆撃機の攻撃が多くなり、我々も本接近する敵戦闘機に対し高射機関銃で応戦することが頻繁になった。然し、広島市民はハワイを主に米国との関係の深い者が多いと云ふ事で米軍は広島を爆撃することはあるまいと云う憶測が市民の間にただよっていたので比較的のんびりしていたと云われていた。
八月五日夕から八月六日朝にかけて呉軍港や周辺工業爆撃に対する警備の当直見習士官勤務を終って隊内の自室に戻り仮眠に入って間もなく同朝八時一五分頃?突如一屯爆弾が近所で炸裂した様な轟音と爆風と振動が襲って来たので、驚いて舎外にとび出して見ると、広島市内比治山方向にあの原爆特有の爆煙柱が空高く舞い上っていた。私は市内比治山の軍火薬庫の爆発かと思ったが実情わからず、隊内の爆風による被害の後仕末をしておる内に広島市内救援の部隊命令が出た。
私共は怪我をしておらぬ兵士を集めて上陸用舟艇を使って市の中央部の河川から市内に突入した。数え切れない民家が各所で炎をあげ、川の中や陸上では無数の死体や重軽傷者が動めきまわりその形相はまさに阿鼻叫喚の地獄の相であった。■■生活の一切の機能が壊滅し、たよれるのは軍のみであったようだ。私共は街中で仮眠し乍ら不眠不休で救援作業に当った。まことにこの世のものとも思えぬ惨状の内に四日間を過した訳であった。
八月九日、ソ連参戦による本土防衛準備の為、我々救援隊は金輪島の本隊に引揚げ、ソ連の攻撃に備える態勢に入った。八月一五日終戦。
私はその后米軍への軍需物資引渡し作業を命ぜられ、一段落した九月下旬、東京の自宅へ復員した。
幸にも今日迄原爆によると思われる特別の病気はせずに過して来たが復員後知人の先輩である医師に診断してもらったところ第二次放射能傷害の心配があるから体に無理な負担がかからぬ様に注意しなさいとの助言を受けた。
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