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思い出 
真木 薫(まき かおる) 
性別 男性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所 広島市(白島)[現:広島市中区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
昭和20年8月6日の朝、少尉であった私は、広島市白島にあった2階建ての兵舎の北側の壁に背中を付けて座っていました。まさに「ピカ、ドン」です。どの位、気を失っていたのか分かりませんが、意識が戻り、周りを見る、兵舎はなくなっており、同僚の姿は見えませんでした。周りの惨状は、言葉で言い表すことはできません。背中に負った火傷を治療するため、市街地の西の外れにある親戚の家をめざして歩きました。辿り着いた親戚の家では、薄く切った胡瓜を背中に張るのが治療でした。髪はすべて抜けました。九死に一生を得た体験でした。 
  
昭和19年9月 大阪第二師範学校を卒業し、堺市熊野国民学校において初めて教壇に立ちました。戦後の昭和21年1月 清泉小学校、昭和22年1月 鴨川中学校 昭和29年4月 成名小学校、昭和33年4月 林田小学校、昭和36年4月 鴨川中学校、昭和42年 加茂中学校、昭和44年4月 全間小学校、昭和47年 東中学校、昭和51年4月 北陵中学校、昭和54年 飯岡小学校、昭和57年4月 高倉小学校と 教職の道を歩み、昭和60年3月末をもって職を辞した次第です。    
              
この間、昭和23年4月 桂子を妻に迎え 二女一男の子宝に恵まれました。一方、昭和32年には、道つくりの作業中に、荷車と一緒に夫婦共々深い窪地に落ち、危うく3人の子を孤児にするところでした。また、昭和52年には、末期がんとの疑いから胃の3分の2を摘出する手術を受け、術後は抗がん剤を服用するなど再発防止に努めました。家族には断腸の思いをさせるとともに、職場の皆様には、ご迷惑をかけてしまいました。退職後は、地域にあっては梅林の世話をしたり、趣味で始めた瓢簞づくりに勤しんでおりました。そのような中、梅林の予防に必要な希釈用の水を載せた作業車とともに崖下に転落し、危うく命を落としかけたこともありました。平成19年2月、妻に先立たれ 一人暮らしをしておりましたが、支援を要する状態となったことから、長女の家にて世話になりました。平成24年12月、高齢者叙勲によりまして、瑞宝双光章を受章する栄に浴しました。平成26年12月、家庭介護が限界を迎えたことから、グループホーム「ほほえみ」にて、お世話になることとなりました。 

子3人 孫7人 曾孫10人の顔も名前も分からなくなりましたが、家族はもとより、大勢の皆様の温かいご支援のお陰で、天寿を全うすることができました。「こりゃ、なにしょんなら」ではなく、「うん、うん、うん」を最後の言葉とします。            
  平成27年8月21日                                                         
                                                                                         真 木  薫                   
                                                                                
真木 薫のプロフィール

生年月日:大正13年11月19日
本  籍:岡山県津山市綾部3104番地
住  所:岡山県津山市綾部3103番地の6
学  歴:
昭和6年4月8日~昭和14年3月31日 清泉尋常高等小学校
昭和14年4月8日~昭和16年12月31日 勝間田農林学校
昭和17年4月8日~昭和19年9月21日 大阪第二師範学校
職  歴:
昭和19年9月30日~   堺市熊野国民学校
昭和21年1月31日~   苫田郡清泉小学校
昭和22年4月1日~        苫田郡鴨川中学校
昭和29年4月1日~        苫田郡成名小学校
昭和33年4月1日~        津山市立林田小学校
昭和36年4月1日~        津山市立鴨川中学校
昭和42年4月1日~        苫田郡加茂町立加茂中学校
昭和44年4月1日~        久米郡久米南町立全間小学校
昭和47年4月1日~        津山市立東中学校
昭和51年4月1日~        津山市立北陵中学校
昭和54年4月1日~        久米郡柵原町立飯岡小学校
昭和57年4月1日~        津山市立高倉小学校
昭和60年3月31日        退職
 
<妻・桂子の歌>
ケロイドのいえざる夫の背を流して原水爆へのいかり新らし
幾日か臥したる後に掃く庭の春の黒土しみじみにほふ
銀杯を賜ひし夫が帰り来てわれに紫の緒を解けといふ
限りなく涙あふれて悲しかり夫が胃切除あすと決まりて
淡々と夫は語りぬ四十年つとめし教職をこの春退くと
側頭部十三針縫えば眼も窪み痛々しきまでに顔の歪みぬ 

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