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原爆の追憶 
土本 久子(つちもと ひさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 40歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1985年 
被爆場所 広島市土手町[現:広島市南区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
真夏の太陽は容赦なく照りつけ、何もしなくても汗が吹き出ます。南の空には入道雲がむくむくと顔をもたげ、庭木に止ったあぶら蝉の声は騒々しく、よけいに暑い夏を感じさせます。特に太平洋戦争が長期化するにつれて、本土決戦の声が高まり、強制疎開が行われ、家屋もあちこちに空家が目立つようになって来ました。
 
八月六日も朝から快晴で暑く、空には一点の雲も無く焼けつくようでした。
 
前夜は広島湾に多くの敵機が襲来するとの事で、警戒警報のサイレンが鳴り響き、隣組の人達は我先にと防空壕に駈け込んで、まんじりともせず恐怖の一夜を明かしました。
 
夜明けと共に、警戒警報も解け、やれやれと思って我家に帰ったのが朝六時過ぎだったと思います。早速に朝食を済ませ、次男の暁は勤労奉仕に出て行きました。
 
暁は当時、広島観音中学三年生で三菱へ動員され毎日自宅より通学して居りました。
 
我家は、広島市土手町で柳橋の袂にあり、北側は猿猴川で、南側の借家であった造力写真館は、原爆の落ちる十日程前に、強制疎開に会い、建物一切壊されてしまい、その跡を主人一人が片付けて居ました。
 
そこへ、井原より佐々木さんと云うおじいさんが来られたので、仕事の手を休め家へ帰って、佐々木さんと私も共に三人で、戦争の噂話をして居ました。おじいさんが来る途中も、駅方面はとても警戒が厳しかったとのことでした。前日、蒲苅より来られた人の話に依れば、広島へ来る途中の船は、殆んど壊滅状態で、まことに悲惨だったことを聞かされました。当時は、そんな話をしたことが憲兵の耳にでも入った事なら、直ぐ連行されると云うので、とてもとても憲兵を恐れて居りました。そんな話をして居る時、西の空より爆音が聞えてきました。その二時間ほど前に警戒が解除になったばかりなので、日本の飛行機の偵察だと思って、余り気にも止めず、佐々木さんをもてなそうと思って台所へ行き、廊下伝いに八畳の間へ一歩足を踏み入れた途端、真正面にそれこそ何万燭光とも知れぬ、電光が私の目を射しました。「危い」と思った瞬間、反射的に廊下より庭へ飛び降り、二、三歩走ったところへ、ドーンと大きな地響きと共に、屋根が崩れ落ちて、一瞬の内に下敷となってしまいました。どの位経ったのか、気がついて見ると、真暗で何も見えません。腰から下は全く動けないのです。
 
胸や肩の方は多少動くので、その中、もがいていると手も動くようになって来ました。
 
「助けて」「助けてー」と叫びながら、もがきにもがきました。すると、上の方で主人が「お母ちゃんはどこに居るかー、生きとるかー」と云う声が聞えて来たので、「こゝよ、助けて」と叫びましたが、その声は直ぐ聞こえなくなりました。
 
もう駄目かと思いながら真暗の中でもがきながら、声の限りを出して助けを求めました。すると、又遠くの方からだんだん近くに声が聞えて来たので、一所懸命助けを求めました。が又してもその声は遠くなり聞えなくなりました。今度こそ駄目かと思いながら、ふとあの爆弾は私の家を直撃したのだなア、と考えました。それから尚も、もがいていると、上の方に一ミリ程度の透き間が出来て美しい青空が見えたのです。その青空の美しかったことは現在でも忘れられません。
 
その時、これなら助かるかも知れないと初めて思いました。その透間を目当てに、一所懸命かき分けて居たら、腕が出る程開いて来たので、手を出して大声で叫びました。
 
漸く主人が見つけて、上にある材木を取り除けて引っ張り出して呉れました。
 
下敷きになって居る時は、私一人が爆撃に遭っているのだと思って居ましたが、上に出て見ると二度びっくり、見える限りのところは皆んな火の海でした。直ぐ隣の部屋内さんの家も倒れて、燃えさかっているので、熱くて熱くて早く逃げなければ焼け死んでしまうので、夢中で其処を走って逃げました。
 
お客の佐々木さんも引っ張り出し、手を引いて一間ほど下にある前の道路に降りました。
 
どこを見ても火の海なので、比治山橋の下へ避難するより他はないと話しながら走り続けました。一丁目の四ツ角のところに、時計屋が有りましたが、その時計屋の一人暮しの奥さんが、助けて助けてと頻りに叫んで居られました。その家は洋館建てなので、コンクリートと金網の下敷では誰もどうすることも出来ず、悲しい声を聞きながら柳橋の袂へと走りました。そこの片隅には、二十人ばかりの人が傷ついたり、火傷の人達が破れたモンペ姿で、髪は振り乱し、まことに悲惨な情景で目を覆うようでしたが、多分歩けない人達ばかりだったのでしょう。歩ける人達は走って柳橋を渡り、平塚町方面へ行っている人も多かったので、あの方面にどんなよい避難場所があるのだろうと考えて見ましたがさっぱり判りませんでした。橋の直ぐ横に川へ降りる石段があるので、私達は急いでそこを降り、日頃使っていた小舟に乗りましたが、櫂が流されて有りません。仕方がないので流れて来た竹竿を拾って漕ぐことにしました。
 
時は丁度満潮時で、それに旋風が起きているように大波で、少し前へ進んでも後退する方がひどいのでいらいらするばかり、気が気ではありません。柳橋を見れば、橋の両端とまん中に同じ大きさの青い炎が三ヶ所に上っていました。まだそんなに大きくはないので一ヶ所に一杯づつ、水がバケツに三杯あれば、あの火は消せるのにと思っても、そんなバケツ等、ある筈もなくたゞ見る丈けでした。
 
あれ程毎日、防火訓練をしていたのに本番になれば何一つ掬うものはありませんでした。そんなことよりも、今の自分達は波に翻弄されるばかりで生きた心地も無く必死でした。
 
土手町の対岸の平塚町は一面の黒煙に覆われて、家なんか一切見えません。その時、沖の方より上って来た、割合大きな船が私達に近づいて来て、「そんな小さい舟は危ないから此の船に乗りなさい」と云われて、地獄で仏に会うとは此の事だと拝みたい気持で助け船に乗せて貰って、生き還った想いでした。
 
上の方は危いからと云って、私達の希望通り下の比治山橋下に避難することにしましたが、右側の平塚町の川の岸辺には、川へ逃れようとする人達で黒山のような人でした。
 
その人達が、私達の船を見て「その船をこっちへ寄こせ、日本人では無いのか、アメリカ人か」と叫ぶ声がよく聞えました。
 
船を着けると、あの黒山の人達が、我先にと船へ乗り込んできたら一たまりもなく転覆するに決っているから、と云って聞き流して、比治山橋下へと急ぎました。左側の土手町もよく燃えていて、助けて助けてと云う声もよく聞えて来ました。途中、私の顔をさすって見ますと、眉毛が固まっているので、引っ張って見ると血の固まりでした。上衣の袖が破れて腕から沢山、血が流れたあとがありましたが、無我夢中で全く無神経になってしまって気が付きませんでした。髪に手を当てゝ見るとガラスの粉が一杯出て来ました。
 
佐々木さんを見ると、顔は焼けたゞれて、真丸くなっているので、様子を聞いてみると「熱くて熱くて仕様が無い。顔がピリピリする」と云って、船に有った網を拾ってかぶって居られたが、着ている木綿絣の着物の袖は、ボロボロに焼け焦げていました。
 
比治山橋下に漸く着いた途端、上の方で早くも、救援部隊が大勢来て「重症患者を上に上げえ」と云って叫んでいるので、主人が佐々木さんの手を引いて石段を上に登って見ると、沢山のむしろが敷いてありました。佐々木さんは、軍の人がすぐ引取って自動車に乗せられました。よろしく頼むと云って別れました。それが最後で佐々木さんの消息は未だに解らず仕舞いになりました。多分お亡くなりになったと思います。
 
それからまだ敵機が来ると思ったので、急いで橋の下に降りて避難しました。時計が無いので時間はさっぱり判りませんでした。
 
その中、潮が引いたので主人が家の近くまで帰って見ようと云うので帰る事にしたのはよいが、余りにも潮が引き過ぎて小舟がなかなか動かないので、水のある所を引っ張ったり押したりして苦労して移動しました。
 
その時、砂の上には沢山の学徒勤労動員の女学生が皆な顔が焼けて風船のようにまん丸く腫れ上っているので眼が見えず、側に水が流れていても「水を頂戴、水を頂戴」と全員が云っていました。国防色の服を着て死んで居られたのは多分先生だったと思います。どうしてあの人達は沢山砂の上に居られるのか判りません。が大方水を求めて川に降りて来た人達だったのでしょう。一人の娘さんが「私は佐伯郡の医者の娘ですが家に伝えて下さい」と云われたのが現在でも耳に残って居ます。お気の毒な人達でした。漸く我が家の側まで川伝いに帰って、川から見上げて見ると、もう家も無く煙も消えていました。柳橋は焼け落ちて、橋桁だけがポツンと立っています。
 
暫く砂の上に立って茫然として声も出ない時、ひょっこり、暁が帰って来ました。
 
三菱へ学徒動員されていましたが、帰りの橋が全部焼け落ちたので橋を渡る事が出来ず、泳いで帰ったとのこと。どうしてよいのか成す術がありません。川の中にいても仕方が無いので、岸へ上って見ようと話し合い、石段をあがって見ました。何と見渡す限り瓦礫の山、所々に白煙が立ちのぼり、広々とした荒野に居る思いでした。「比治山へ行こう」と話がまとまり、比治山へ行きました。
 
麓に着いたのが午後四時過ぎではなかったかと思います。着いて見ると、そこにはもう救援のトラックが食糧を積んで来ていました。一度に沢山の人だかりでした。
 
どの人も、どの人も疲れと恐怖で唯々ボーとしています。衣類はボロボロ、体中血だらけ、その上、女の人は髪の毛が乱れているので、此の世の人とは思われません。
 
私達も、握り飯を一つ貰って漸く食べ物にありつき、やっと生きた心地がしました。
 
その日は、この道路端で寝る事にしました。こゝに居ると食べ物にありつけると誰かが云って居ました。ぞくぞくと人が集って来ます。空いた所を見付けてやっと横になりました。夜が明けてみると、私の傍に居た五十才位の男の人が死んでいました。隣りに死人が居ても、普通の人のように思えて無神経、無感動です。人間は衝撃が極限に達すると、物の善悪、理性の判断もつかなくなるものだと思いました。
 
比治山の上の方にも沢山の人が寝ていると聞いたので、様子を見に行きました。そこには、ぎっしり道に病人が並んで横たわり、お化けの行列を見るようでした。
 
怪我をした人は赤チン、やけどの人は白い油薬を塗られ、どの人も黒く丸く腫れ上った顔や手足等に、ベタベタと赤と白の薬が塗られています。それこそ、本物のお化けの行列の様で、夢の国へでも来たかのような錯覚をおぼえ、映画でも見ているような気になりました。更に登っている中に、突然「土本さん」と呼ばれたのでびっくりしました。声の主は、見ても瞬間誰だか判りません。「立木です」と云われて漸く思い出しました。顔は黒く、風船のように丸く、その上に白い薬がベタベタと塗ってあり、人相が全然変り果てゝ、以前の立派な風采の面影は全く見出せません。
 
立木さんのお母さんとは日頃より懇意にしておりましたが、そのお母さんは即死でしたと聞き、その時始めて我にかえったようになり、気の毒でもう上の方へ登る気になれず、前夜寝た所へ降りました。丁度、食糧を積んだトラックが来ていたので、おにぎりを一つ貰って、今日はじめての食事にありつきました。
 
でもこれから何をしてよいのやらさっぱり判らず、取敢えず我が家の焼跡へ帰って見る事にしました。帰る途中、どこかのおばさんが上半身は素裸で、お乳をブラブラさせながら、口からはよだれをダラダラ流し、夢遊病者のように歩いて居られたので「おばさんはどうしておられたの」と聞くと、勤労奉仕に出ていて、黒いものを着ていた人は、みんな背中に火がついたとのこと、「おばさんも黒いのを着て居られて上衣が焼けてしまってひどい目に会われたのだなア」と思いました。
 
誰を見ても悲惨極まる有様です。焼跡へ帰って見ましたが、まだ熱くてとても入れるものではありません。二日目はもと使っていた防空壕へ寝る事にしました。隣組の人達も次々と皆な防空壕へ帰って来ました。全員が青ざめて生気なく立っているのがやっと位で、皆な血便が出ると云い、健康な人は一人もなく疲れ切って居ました。壕に居ても不安ばかりでやり切れないので、柳橋のところへ行って見ました。驚いた事に、川一杯に大木やら、家庭用品、タンス、下駄箱、位牌までも有りとあらゆる物が川一杯に流れています。
 
中に人の死体も沢山見えます。対岸の平塚町では、軍隊が死体を引き上げては焼いていますが、その死臭が鼻をつきます。柳橋は橋桁だけが残ったので、その焼残った橋桁に大木が一杯引っかゝりました。その中の大木の一本に死人とは思えぬ如何にも作業をしているかの様に国防色の服をきちんと着て、ゲートルを巻き、大木を跨いでいる兵隊さんも流れ着いていました。死体を沢山、上に上げても潮流に乗って又流れ着きます。あちらでもこちらでもまだ死体が沢山有る中で、三日目からは隣組の人達はみんな潮の引いた時を見て木材を拾いに降りました。幾らでも拾う事が出来ました。以前、私方に使っていた事のある伊藤と云う人が、自分の勤めていた三菱より、釘と金槌を持って来て、川から拾い上げた材木で、橋の袂に小屋を建て畳もどこからか拾って来て四、五枚敷いて、穴倉ばかり居ては気の毒だからこれに入りなさいと云って呉れたので、五日目からはこの小屋に住む事にしました。とても穴倉生活とは違って、気持よく嬉しかったです。防空壕に住んでいる隣組の人達は、此の小屋に来てはこゝに来ると別荘へ来たようだと羨やましがりました。
 
食物は、毎日配給があったので、どうにか飢を凌ぎました。その頃から主人は体が悪くなり、苦しみましたが、病院なんか有る筈もなく、たゞ苦しいから寝せて、起して、と再三云れるので、側にいる私も辛くて苦しみました。こんな事が三日ほど続きましたが、手当ての仕様も無かったのに何時の間にやら治りました。
 
九日には、長崎にも爆弾が落されたと聞いて、もう日本は負けた事がはっきり判りました。十五日には、天皇陛下より重大放送があり、日本は負けて降参したのだと聞いて泣く人もありました。アメリカ軍が上陸して、この方面へも来るので、女はどんな辱めを受けるかも判らないので、女だけは集団でどこかへ逃げかくれなければいけないとの話も出ましたが、何時の間にかその話も消えて、学童疎開の子供達もみんな帰って来ました。私は配給だけでは生きて行けないので、あれこれと食糧の確保に心を砕いて、毎日よく働きました。元気になっていた主人が、昭和二十三年の末頃より六ヶ月間患って亡くなりました。
 
初めは肩に握りこぶし大の大きな腫物が出来たので、当時、近くの稲荷町に藤田医院が開業されたので、診察を受け手術をして貰いましたが、ちっとも快くなりませんでした。その中又続いて同じ大きさの腫ようが出来ましたが、真赤で固く絞りようもありません。先生に聞くと糖尿病から来ていると云われます。又も手術を受けましたがよくはならず、先生も手におえない様子でした。又してもその下に、又その下にと肩から腰まで四つ縦に並んで、とても痛そうでしたが、先生の力ではどうにもならないらしく日に日に悪くなるばかり、その中、背中全体に広がって病人は痛い、痛いと云いながらも長く生きたい、何とかならぬものかとよく云いましたが、何と云っても先生に縋るより他ありませんでしたが、二十四年四月始め、サジを投げてしまわれて後二ヶ月の命だとはっきり宣告されましたので、諦めてそれからは何でも欲しいと云うものを望み通りにしました。先生の云われた通り、二ヶ月経って二十四年六月三日永眠しました。その頃、藤田医師は原爆症である事は気づかれず、判らぬまゝの治療をして下さったのですが、死の直後よりさかんに原爆症の記事が新聞に載るようになったので、私は特に気に止めてこんな記事をよく読んだり、聞いたりして初めて原爆症であった事を知りました。そして原爆の悲惨さを身を持って知り戦争の起らないよう、平和な世の中でありますよう祈るばかりです。
 
長男は医師として三十五年目、次男は当時中学三年生でしたが、高等学校に進み、東大法科を卒業して社会人として人並みに過して居ります。私も早や八十路を迎えて感慨無量です。原爆から四十年の歳月が流れたとは長いようでもあり、短かいようでもあり、何と思い起すことの多き事よ。地獄だった日を忘れるかのように、現在の世の華やかさ豊かさ、恵まれた日日の幸せを感謝一杯で過しております。
 
想像の地獄絵図でなく、全く真実の地獄を見て、そして味わった私は、もう私達丈でよい、これからの世代を背負って行く若者達に此の惨禍を味合わせたくない平和の有難さを心より叫びたいと思います。
 
おわり
 
昭和六十年七月二十一日記 

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