当時、私は広島女専(今の広島女子大)に入ったばかりで宇品の学校で被爆した。戦況が逼迫して本来なら5年制の女学校を4年でうちきられ、しかも卒業しても4ヶ月あまり、川内村に疎開した学校工場で被服廠の野戦蚊帳をミシンで縫う仕事を続けた。進学者だけ8月に女専に入学し、間もなくして、また学徒動員に出る、その間のわずかな日をすごしていた。
8月6日、丁度朝礼が終り、校長先生が講堂を出ていかれた瞬間、原爆の閃光を浴びたのである。ピカッと光ったとたん一瞬、気を失ったような気がしたけれども、気がつくと皆、本能的に身をふせて四つんばいになって出口の方へ、ゾロゾロとはい出して行った。おびたゞしいガラスの破片、切り傷、血を流す友もいて、先生も生徒も、てっきり女専の北側に爆弾が落ちたと思ったものである。
その頃、市の中心部では火の手があがり、幾台ものトラックが、多勢のやけどの人を乗せて宇品港に向って走って行った。トラックの上では大部分の人が手を上にあげており、手の先きから、まるで手袋をぬいだように皮膚がぶらさがっていた。老若男女もわからない、こげ茶色の人達であった。船で似の島や瀬戸内の島に続々と運ばれたのである。
帰れない人は学校にとゞまり、帰れる人は帰ることになった。私の家は舟入川口町で橋を3つ渡らなければ帰れなかったが、火災の為橋は渡れなくて、友達と2人、川の中をざぶざぶと歩いて帰った。不思議と干潮だったのか、もんぺの裾を、ひざまで、つかりながら、所々では渡し舟に乗り、男の人が、押したり漕いでくれて、やっと家に帰りつく事ができた。
吉島のあたりでやけどをした人が「水…」「水…」と、ひそかに、つぶやいていたけれどどうする事も出来なかった。唇が、ひどくはれあがり、やはり、老若男女もわからない焼けたゞれた人はあまりにも無惨で目をあてる事が、できなかった。
家は焼けなかったけれど倒壊寸前で、もはや中には入れず、防空壕の中で寝た。ラジオも何もなかったが、どこからともなく「今度の爆弾は電雷といって物凄い破壊力があるらしい」という噂が流れて来た。
幸い家族(母)は無事だったが、母が教鞭をとっていた広島市女の生徒が、建物疎開作業に出て、被爆し、その対応に休むひまはなかった。
従姉も隣組から疎開作業に出ていて亡くなった。
翌々日、気になって学校へ行ってみた。所々で煙があがっていたが見渡す限り瓦礫の焼野原となり、川にはおびたゞしい死体が浮かび、身内をさがす人達が一生けんめい川の表をみつめていた。
その頃、女専から倉敷の工場へ学徒動員で行っていた姉が帰り、母娘3人で車に少しばかりの荷物をつんで長束の荷物の疎開先きへ向かったが、十日市辺りでは、まだ煙がくすぶり、人の焼ける臭いが鼻をついた。
長束に着いてから、はげしい下痢が続き、どくだみを、煎じて飲んだものだった。 |