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我が家の被爆体験 
豊永 恵三郎(とよなが けいさぶろう) 
性別 男性  被爆時年齢 9歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 府中国民学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一九三六年三月二九日に私は横浜で生まれた。当時父は警察官で皇居に勤務していた。二・二六事件で家に帰れず母は心配していたようである。その時私は母の胎内にいたことになる。その後父は警察官を辞めて広島に帰ってきた。当時私は三歳であったので当時の記憶は全くない。父の故郷の安芸郡府中町にしばらくいたようだが広島市尾長町(現在東区山根町)に住むことになった。この頃の記憶はおぼろげにある。尾長国民学校の三年生の時に集団疎開で田舎に行くことになった。私は行きたくなかったし母も行かせたくなかったので縁故疎開を考えた。郡部に住む者は疎開に行かなくてよかったのである。私は府中町の祖父母の家に住み府中国民学校に転校した。しかし友達もいなく祖父母との生活も嫌になり我が家に帰り府中国民学校に通学した。我が家から府中までは七~八キロで子どもの足で一時間足らずで歩けた。当時の府中は田畑が多かったがその中にキリンビールの大きな工場があり、側の溝にはメダカや鮒や鰻がいたのを覚えている。家の近くの子どもは疎開に行っていないので一人でけん玉やボール遊びをしていた。その頃 弟が生まれたが父が肺の病気で亡くなった。母子家庭となり母が大変だった。母は横浜にいた時に洋裁学校に行き洋裁教師の免許をとっていたので、近所の女性に洋裁を教えたり、服を縫ってあげたりして収入としていた。


私の被爆体験

八月六日当時私は中耳炎で学校を休んで安芸郡坂町の鍼灸院に行くことになっていた。朝早く家を出て広島駅まで歩き、呉線に乗り坂駅に着いたのは八時過ぎだったと思う。鍼灸院に行くため坂の町を歩いている時後ろの方で物凄い轟音がしたので家の下に入った。しばらくして爆風で砂や埃が上にあがった。光は分からなかった。鍼灸院に行くと広島に新型の爆弾が落とされたというのを聞いた。私は治療をやめてすぐに坂駅に帰った。早く家に帰りたいと思ったからである。しかしすぐに列車は来ない。広島の方を見ると入道雲のような物凄い雲が上に上にと上がっていた。私には盛り上がる雲の中にルーズベルトとチャーチルの顔が見えた。当時の軍国主義の教育のためではないかと思われる。「鬼畜米英」「米英撃滅」という言葉を教師から聞いており爆弾投下への怒りだったと思う。何時間待ったか分からないが広島方面からの列車がきた。降りてくる人たちは火傷で頭の髪はちりぢりに焼け、顔は真っ黒にはれあがっていた。ひどい人はどこに目があって鼻があるのかわからない。着ている物はぼろぼろで、手を前に垂らしている。手の先には腕の焼けただれた皮膚がたれさがっている。そんな人たちが列車から降りてきた。私は幽霊のようで怖くてたまらなかった。

広島行きの列車を待ち続けやっと来た列車に飛び乗った。列車は広島駅から二つ手前の海田市駅で止まった。広島駅は崩壊し炎上していたからだ。広島の街がある西の空を見上げた。街は真っ赤に燃えている。九歳の私が歩いては帰れないと思った。しばらく考えて二〇分くらい行ったところに祖父母の家(安芸郡船越町現在は広島市安芸区船越)があるのを思い出した。そこは母の実家であり何度か行ったことがあるので、走って行った。多分六日の午後だったと思う。祖父に家族を探しに一緒に行ってくれと頼んだ。祖父は「ダメだ。広島は火の海だ。お前はここにいなさい」と言われ、祖父母の家にいることになった。家族が心配でほとんど眠れなかった。

翌七日朝早く起きて祖父と中学生の従兄弟と三人で大八車を押して行った。家族を乗せて帰るためだった。我が家までは七、八キロくらいである。途中で昨日と同様に火傷してぼろぼろになった多くの人が歩いて祖父母の町の方に避難して来るのに出会った。初めは怖くてたまらなかったが、人間怖いものだけ見続けると感覚が麻痺するのかしまいには怖くなくなった。一時間半くらいで我が家に着いたが焼けてしまって何も残っていなかった。爆心地から一・五キロくらいのところである。あちこちと夕方まで探しまわったが家族は見つからず、祖父母の家に引き返した。祖父は明日も探しに行こうと言ってくれた。

 


母と弟の被爆体験

八月六日の朝母は建物疎開作業に動員され、昭和町(爆心地から約一・七キロ)に出かけた。当時広島では空襲を受けた時の火のひろがりを防ぐため、道の両側の家を取り壊して道路を広くしていた。これを「建物疎開」といっていた。戦争が激しくなり男手が足りなくなり広島市内、郊外の人が動員された。私たちの町の人は六日が当番だったのである。どの家からも一人は出なければならない。我が家で母が行くことになった。当時弟は三歳だったので一人では留守番はできないので母が連れて行くしかなかった。

朝七時ころ家を出て町内の約一五〇人が水筒と救急袋をさげて行った。町内会長が隊長だった。途中でB29が飛んできて空襲だというので近くの防空壕に入った。間もなく解除になったのでまた現地に向かった。比治山橋を渡ったあたりだった。「子供は危ないので集めなさい」ということで五メートルくらい離れた大きな柳のしたに連れて行った。一〇数人いたようだ。
その日は快晴で暑かった。母がいうには隊長が点呼をとりはじめた時にすごい閃光が走った。きれいな色だったが雷鳴の何十倍という光だった。音はよく分からなかった。頭から熱湯をかけられたようで「熱い!」と思ったが意識を失ってしまった。
しばらくして「おかあちゃんいたい」という声に気が付いた。子供がどこにいるのかと見たら、母が弟の上に腹ばいになっていた。母が弟の所へ行ったのか、弟が母の所へ来たのか分からない。弟は無傷だった。一五〇人くらいいた中でたった一人無傷だった。母は肩から上は全部火傷した。右腕も少し火傷をした。母はその時のことを「体も焼けたが心も焼けたと思う。心が完全になくなっていた」と言っていた。

一五〇人もいた町内の人はどうなっているのか見たらほとんどが倒れていた。真っ黒になった体の上に爆風で土が降りかかっていて誰が誰か分からなかった。少し動いている人もいたが「助けて」と言われても自分が重症なのでどうしようもなかった。軍人のような人が「皆さん、逃げましょう。今に火が廻ってきます。水は飲んではいけません。飲んだら死にますよ。川に入ったら死にますから入らないように」といって歩いていた。

逃げようと子どもに手をひかれながら比治山橋を渡り、後ろを振り返ったら広島中が真っ赤になっていた。橋から川を見ると水面がよく見えない位に人が折り重なるように流れていた。橋を渡ったあたりの家屋はほとんど崩壊していた。比治山に登る途中に沢山の死体が横たわっていた。背中が裂けて血を吹きすこし行っては転び、とうとう息絶えてしまったようだった。手がもげたり、目の玉が飛び出した人がいて地獄のようだった。母が弟の手を引いて歩いたり、休んだりしている時赤ちゃんを背負っているお母さんがいた。二人とも大やけどをしていて赤ちゃんはもう死んでいた。お母さんは大きな声で「今におっぱいあげるから泣かないで」といってその辺をぐるぐる回っていた。発狂していたようだった。比治山に登って弟をもんぺの紐でぐるぐる巻きにして反対側の段原町におりた。

そこから家まで約二キロくらいだが八時間くらいかかったようだ。途中の道の両側には沢山の人が倒れていた。死んでいるのかなと思ったがその時は気の毒ともかわいそうなとも思わなかった。「水をチョウダイ、水をチョウダイ」と虫の息で叫んでいた声が忘れられない。母も弟も水筒の水はなくなり喉が渇いてたまらなかったようだ。家にたどり着くと爆風で半壊していた。当時は家にある多くの容器に水を入れていた。空襲で火事になった時に消火するためだ。お風呂の中を見るときれいな水がいっぱい入っていた。水を飲むと死ぬと言われていたが我慢できないで弟と一緒に飲んだ。その時の水のおいしかったことは一生わすれられないと母はいっていた。

そのうち母の顔ははれてきて目がよく見えなくなったようだ。弟が窓を開けて「おかあちゃんそこまで火事が来ているよ」というので外に出て弟に手を引かれて裏の畑に行って座り込んだ。そこに救護班の人が来て二人を山の中の救護所になっていた火葬場に連れていってくれた。その後わが家は消失した。翌朝起きたら「夕べ七人亡くなりました」と言っていた。そこで二〇人くらい亡くなったようだ。


母と弟を探して

八日も前日と同じ三人で家族探しに行った。祖父が何か聞いたのか家の北の方にあった二葉山の中に行こうと言ったので大八車を引いて行った。そこには焼けただれてぼろぼろになった人が何十人も地面の上に寝ていた。顔が真っ黒にはれ上がっているので顔の見分けがつかない。祖父が母の名を大きな声で叫んだら遠くで「おじいちゃん」という声がした。弟だ。怪我をしていないのですぐに分かった。傍に行き祖父が「おかあちゃんはどれだ」というと「ここに寝ているのがおかあちゃん」と答えた。私は母の顔をのぞきこんだ。真っ黒にはれ上がっていて着ている物はぼろぼろ。もし弟がそばにいなかったら、それが母だとは分からなかったかもしれない。

二人を大八車に乗せて祖父母の家に帰った。その頃には船越の町には沢山の被爆した人が避難して来ていた。苦しさに耐えられずうめくような声が聞こえる。しかしつける薬も飲み薬もなく、重症の人から次々亡くなっていった。そうした中で私たち三人は運がよかった。祖父母が元気だったし同じ町におじやおばの家もあり援助してもらった。母の火傷にはキュウリやジャガイモをすってつけてもらった。当時キュウリもジャガイモも貴重品であまり食べたことはなかった。弟は怪我も火傷もなかったが急性放射能症で下痢が始まった。一〇日くらい続きみるみるうちに衰弱して寝たきりになり眼がぎょろぎょろしていた。母の横に寝ていたが先に死ぬのではないかと思った。

しかし二人とも祖父母の家で布団を敷いて親類の人に看病してもらい、食べ物のない時だったが少しずつでももってきてもらった。お陰で二人は時間はかかったが何とか回復した。私は八月七日、八日と広島に入って残留放射線を受けているので入市被爆者として認定されている。一一月頃に弟と同じように下痢で苦しんだ。

いつまでも親類の援助を受けるわけにはいかないので、同じ町に小さな家を借りて生活を始めた。私たちは原爆で全ての物を焼失し、親類の援助で三人とも生き延びたことを考えると多くの被爆者の中では幸せな方だと思う。

母は家を洋裁学校にして近所の人に洋裁を教えたり、洋服を縫ってあげたりして私たちを育ててくれた。しかし病気がちだったので収入も少なかった。私たち兄弟は小学校の上級生になると新聞配達をしていた。その後もいろんなアルバイトをしていた。つらいこともいろいろあったが三人で何とか生き抜いてきた。

母は健康を回復し八八歳までは元気だった。一人で平和公園に行き修学旅行の生徒たちに体験を話していた。一〇年位はやったように思う。九〇歳近くになって色々な病気になり九五歳で亡くなった。弟は小学校時代までは病気がちだったが中学生になってからは元気になり、建築工事やタクシーの運転手をやっていた。現在七八歳だが大きな病気はしていないようだ。私は高校の教員を三五年やった。四〇歳過ぎてから修学旅行の生徒などに体験を話している。被爆後六〇年以上経って前立腺がんと胃に悪性リンパ腫ができ手術をした。現在も治療を続いているが八四歳で何とか生きている。以上が我が家の被爆体験である。

二〇二〇年 五月

付記
修学旅行生などには次のようなことを話しています。
一.憲法九条の大切さ今後伝えていってほしいこと
二.時間がとれれば福島の原発のこと
三.時間がとれれば在外被爆者問題など
  

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