校舎内で被爆
八月六日は授業が行われるので爆心地から二キロの千田町の学校に登校し、八時には既に一時間目の数学の投業が始まっていました。木造校舎二階の教室には七十名くらいいたと思いますが、私は最前列南側の窓際の席でした。
窓から青い空を見るとB29が二磯くらい見えましたが高空であり、「又か?」くらいであまり気にもとめませんでした。でも次の瞬間、眼を射る物凄い閃光と爆風、それに「熱い!」と言う感じの熱波が同時に「ポッ!」と全身を襲いました。今から思うとこの瞬間に私達市民一人一人の運命が決まったのでした。「爆弾じゃ!」と思ったので目と耳を覆って、机の下に飛び込んだら「ドカーン!」という大音響で、真っ暗闇になりました。血だらけのまま暗黒の中を「恐ろしい!死ぬんじゃ!お母さん!」と這いずり回ったのですが、今度は気味悪いくらいに静かになりました。その理由は未だに分かりません。何とか這い出すことができましたが、あたりの校舎が全壊で、そこらじゅうが怪我した学生で一杯なのを見て驚きました。直撃弾をくらったと思ったのに、様子は全く違っていたのです。
幽鬼のような人々の行列
頭に切り傷を負った友人をつれて校門を出てみたら町中が全滅、電車線路も電柱や架線が破壊され、とりわけ中央部からゾロゾロ歩いて行列になって南下している負傷者の有様が凄まじかったのです。広島電鉄前附近では、頭髪が爆風で直立していたり、丸焼けの坊主に近い人、頭から足までひどい火傷で煤け、着衣もボロボロに焼け爛れた人、火傷で皮膚がめくれたり、顔も分からないくらいの人たち。女子挺身隊の車掌さんだったのでしょう、切符カバンで分かりましたが服もほとんど焼け爛れ、大火傷で歩いておられたのが可哀想でした。痛みのせいだったのでしょうか、皆さんが両手を前に突き出してそろそろ歩いていました。このような無残な被爆者の行列は一日中何処でも見られたのでした。日赤病院に行きましたが、ひどい被爆情況で、火傷や怪我人で一杯、友人は連れ帰る他ありませんでした。鉄兜を被って治療にあたっておられた軍医の方はこめかみから血を滴らせておられました。私の友人は後刻、御幸橋のところで救助トラックに拾ってもらって宇品へ送ることが出来ました。幸い、私の傷も大量の出血はありましたがガラス片によるもので軽症と言うべきだったのです。
瀕死のヒロシマ
この後、私は御幸橋を渡って専売局の横からひどく破壊された皆実町、段原を経由して西蟹屋町の寮に帰りました。橋から眺めると、京橋川の両岸から全市が燃え盛り、黒雲が天に昇っていました。当時深い思慮も無い十六才の私でも「広島が死による(注1)」と思って悲しくなりました。寮も全損で、汽車も勿論止まっていましたので、仕方なく大州街道を棄¥東へ海田市駅まで歩きました。
八本松駅から歩いて東広島市志和町の母の疎開先に帰りつくことが出来たのは真夜中でした。私は本当に多くの幸運に救われたのでした。学校がすでに八時に始まっていて、爆心に近い通学電車に乗っていなかった事、校舎内だったことなど…。あの後私は一週間くらい高熱と下痢の後遺症に罹りましたが幸いに回復出来ましたし、その後時々の病気はありましたが現在も何とか生き永らえています。有難いと患っています。
幸いに生存できて
私が当日目撃した無残な火傷や負傷を負っておられた方々、中には明らかに中学生も沢山いました。今思えば建物疎開作業の生徒達だったのでしょう。平和な広島に生れていたら、あんな無慈悲な殺され方はしなくて済んだであろうにと思い、涙を禁じえません。多くの人々があの後も苦しみの中に死んで行かれた事を思うと追憶の涙を禁じ得ないのです。
静かな夏の朝、一瞬のうちにかくも残虐な方法で殺されなければならなかった人達の無念、世界に訴えたい原爆反対の思い、声なき声を少しでも世界の人々に知って頂くように努めるのが私たち生存者の責務だと今も強く患っています。
(注1)
「死による」
広島地方の方言で、「~しよる」は「~している」(進行形)の意。
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