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原爆はもう二度と 
寺本 良子(てらもと ながこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島駅(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 広島駅 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●家族について
我が家は横堀町(現在の中区榎町)にありました。現在の榎町の辺りは乾物屋や漬物屋、つくだ煮屋などが集まっている地区で、お菓子の製造元も多くありました。私の家もお菓子を製造する寺本勉強堂という店を営んでいました。
 
昭和二〇年当時、私は一八歳で、東観音町にあった西高等女学校を卒業したばかりでした。父の寺本賢二(明治二二年生まれ)と弟の敏行(昭和四年生まれ)と暮らしていました。母・スマ子(明治二八年生まれ)は体が弱い人で、私が生まれる前の妊娠七カ月から入院して、私が生まれる時も難産でした。私が女学校一年の夏休みから母は寝たきりになり、二学期が始まって二日目の朝に亡くなりました。
 
戦前の思い出は、父と弟と乗馬をしたことです。広島では馬に乗れる場所がないので、時折大阪や京都の乗馬場まで出掛けました。子ども時代から女学校を卒業する頃まで続けました。
 
●戦争中の生活
私が女学校一年の頃には、もうお菓子を自由には作れません。お菓子製造業の組合からメリケン粉や砂糖の配給があり、何日までにどんなお菓子をいくつ作ってどこに配達しなさい、と指示がきます。職人さんが戦争に行っていて父一人なので、組合から三~四〇個注文が入るたび、私が学校を休んで手伝っていました。
 
父は担任の先生から、いくら勉強ができても出席日数が足りなくて留年してしまうから休ませないでほしいと言われましたが、そのうち配給も来なくなり、お菓子を作ることはなくなりました。
 
昭和一九年に女学校を卒業したあと、亡くなった母の代わりに私は家で家事をしていました。一カ月ほどすると、そうしていると徴用をかけるという手紙が国民勤労動員署から来たので、私は鉄道局の試験を受けることにしたのです。私が働き始めたら父と弟では不便だろうと、母の出身地の福岡県の大牟田から永田みゆきさんというお手伝いのお姉さんが来てくれました。
 
●広島鉄道局に勤める
私は広島鉄道局の試験に合格しました。就職してすぐに、広島駅で出札という現在の窓口業務に就きました。男性が戦争に行って少ない時期でしたから、一緒に働いたのは私と同世代の女の子たちばかりでした。私はもともと人懐こい性格でしたので、原爆が落ちるまで一年ほど勤めた間、同僚と一緒にご飯を食べたり、貰い物をしたり、とてもかわいがってもらいました。今も手紙でお付き合いしている人もいて、電話で話す友達もいます。
 
入職二日目には夜勤もすることになりました。当時、広島駅には憲兵隊の出張所がありました。夜は切符を売るわけでなく、訓練の厳しさから脱走した兵隊の写真を持った憲兵が、「こういう人が切符を買いに来なかったか」と、聞きに来ることがあるので対応するのです。
 
私たちは当時「鉄かぶと」と呼んでいたヘルメットを背に負って仕事していました。駅の中の明かりが漏れないように、灯火管制の黒いカーテンを引いた夜の駅はうす暗かったです。トイレに行こうにも真っ暗でした。職場の規則で夜八時から一二時まで寝るようにと言われるのですが、初めのうちは、寝ることができなくて、窓のところで月を見て泣いていました。
 
休みの日も、人が足りず昼まで帰らせてもらえません。線路のごみを拾ってから帰りました。また、広島駅の北側は列車の操車場になっていて燃料に使った石炭の灰が山になっていましたので、半日掃除をしてから帰っていました。
 
原爆が落ちる少し前には、切符を保管するための防空壕も駅前の西側に掘らされました。戦時の緊急時に使用するための、補充乗車券や罹災者乗車票などという特別な切符もそこに納めました。職務だけでなく、訓練もありました。一〇日間訓練と言って、その間ずっと駅で寝泊まりするのですが、特に何を訓練するでもなかったように記憶しています。
 
●日本舞踊の慰問
私は三歳のときから日本舞踊を習っており、東京の踊りの家元へ勉強に行かせてほしいと母にせがみ、女学校に行くよう諭されるほど熱心でした。
 
戦争中、鉄道局の仕事が休みの日は、月に二回ほど陸軍病院などあちこちに慰問に行って踊りました。衣装やカツラを持って七人か八人で出掛けていったものです。私は演目を七つも八つも踊っていたので、踊ったらすぐに裏手で着替えて大忙しでした。患者さんが多く張り合いがあるので、広島第一陸軍病院が一番人気でした。
 
八月四日に江波山の大砲隊の慰問で踊ったので、田舎へ疎開させていた衣装などを横堀町の家に持って帰っていました。五日の夜勤の後、六日の朝にまた田舎へ疎開させようと思っていましたが、六日に原爆が落とされてみんな焼けました。
 
●八月六日
夜勤明けの六日の朝、交代する前でした。窓口の所で外を見ていたら、ピカッと光ったのです。写真を撮るときにマグネシウムがパッと光るような光です。朝早くから何の写真を撮ったのだろうと思ったら、爆風で瓦礫が吹き飛ぶ様子が見え、逃げる間もなく、私は部屋の端から端、窓際から一番奥の階段の下まで吹き飛ばされていました。頭も顔も手も血まみれになりました。おでこの傷跡はその時のものです。辺りは真っ暗で、階段の下で吹き飛ばされた窓口担当の六、七人くらいの女の子たちが固まっていました。「お父ちゃん」「お母ちゃん」と泣いている子もいました。
 
そこに消防の人が来てくれて、私は体が小さかったので、両方から抱えられて助け出されました。事務室の方では出番の人たちが朝の点呼中に被爆したのですが、そこの人たちがどうなったかは分かりません。
 
鉄道病院に行きましたが、病院はぺちゃんこにつぶれていました。それで駅の北側の東練兵場に向かっていると、集札の所で三宅助役に出逢い、安芸郡中山村にある助役の家に女の子たち一〇人くらいで避難することになりました。東練兵場へはたくさんの人が避難のため歩いていました。
 
途中、大内越峠で顔が土色でシワシワになった人を見ました。「水をください、水をください」と言います。警防団の人が、「水飲んだら死ぬるけぇ、水飲んだらいけん」と言いました。でもどこかで飲んだからなのか、峠を降りた所でまた会ったときには、顔がパンパンに腫れていました。その後亡くなったのではないでしょうか。
 
私の前を兵隊さんが歩いていました。服が破れてぶら下がっているのかと思っていたのですが、ちょっと近くに寄ったときに、背中の皮膚がみんな破れて、ブラブラと垂れ下がっているのだと分かりました。
 
●父とみゆきさんは横堀町で
父とお手伝いのみゆきさんは、横堀町の自宅にいました。家の下敷きになったそうですが、かわいがっていた猫が瓦礫の隙間から外に出るのを見て、その後を追って隙間を広げ、うまく外にはい出しました。幸いけがはなく、まだ火の手も回ってきていませんでした。西に向かって逃げようと、二人は川土手から板につかまって向こう岸に渡りました。裸同然だったので己斐の知人の所で服や靴をもらって、横川のほうを通って家の方に戻ろうとしました。しかしその時には家の辺りはすでに火の海だったそうです。
 
その後、父とみゆきさんは東練兵場に私を捜しに来て、中山村の三宅助役の所に避難したと聞き夕方には迎えに来てくれました。その夜は、父とみゆきさんは戸坂村の知人の家に、私は仁保町堀越(現在の南区堀越町)にある友達のお姉さんの家に泊めてもらいました。翌日、私は安芸郡瀬野川町(現在の安芸区中野)の友達の所に泊まり、三日目からは、鉄道局の同僚の高田郡向原(現在の安芸高田市)にある二階もある大きな家に、三人でお世話になりました。
 
●被爆後の景色
二日目までは火災のため広島市内中心部に入れず、三日目にやっと入ることができました。その日から数日間、朝向原駅から広島駅まで汽車に乗り、広島駅から家の焼け跡までは歩き、日が暮れる頃まで焼け跡の整理と弟の捜索をしました。
 
市内を歩いた時、お母さんが赤ちゃんを抱いて死んでいるのを見ました。死んだ馬や、熱いから入ろうと思ったのか、防火水槽に入った片足と手を挙げた格好の男か女か分からない真っ黒な死体も見ました。
原爆ドームから少し行った辺りに、何か所も穴を掘って、どこの誰かわからない死体を三体くらいずつ入れて、油をかけてトタンをかぶせて焼いていました。トタンの上にお骨が並べてあるのを毎朝見ながら通っていました。
 
●弟・敏行を捜しに
弟は被爆時一六歳でした。弟は赤ちゃんの時から体の弱い子で、兵隊に志願はできないけれどお国のためにすることはいくらでもあると言って、昼は左官町(現在の中区本川町一丁目)の大下鉄工所に勤め、夜は夜学に通っていました。大下鉄工所には弟と同い年の幼稚園から幼馴染みの双子の男の子もいました。夜学は市立第二商業学校と呼んでいましたが、本川国民学校の二・三階にありました。
 
原爆の時、鉄工所にいた他の人は即死でしたが、弟は吹き飛ばされて、服もつけず裸の状態で道路に倒れていたようです。それを朝のお参りから戻ってきた鉄工所の家のお婆さんが見つけて、揺すって起こしてくれました。気がついた弟はどこかにはって行こうとしたようですが、また意識を失って倒れました。黒い雨に降られて目が覚め、トラックに乗せられて山陽本線大野浦駅の先にある大野西国民学校(現在の大野西小学校)に運ばれたのです。
 
弟の居場所は、弟が通っていた工場の焼け跡で、墨で板木に書いた連絡先を八月一一日に見て知り、翌日の一二日に迎えに行きました。父は具合が悪いので来られず、広島鉄道教習所に勤める教官がついてきてくれました。山陽本線大野浦駅で汽車を降りた時、空襲警報が発令され、周りの人に「早く防空壕へ入りなさい」と言われました。でも、私は弟に会いたいあまり、駅前の道を駆け出しました。するとアメリカ軍の飛行機が見えたので、私は慌てて近くの家に逃げ込んで隠れました。
 
大野西国民学校に尋ねて行くと、弟は教室の板の間に、丸裸でおむつだけを付けて寝かせられていました。弟は「お父さん、お姉さん」と呼びます。薬も何もなく治療は受けられず、転がして放置されているだけでした。部屋の中は弟の他にも負傷者がいっぱいで、真夏の熱気でひどい匂いでした。
 
私は弟を廊下に連れて出し、水が欲しがるのであげると少し飲み、小さなトマトも半分食べました。弟を背に負って駅まで出ようとしたのですが、鉄道教習所の生徒さんがトラックで通りかかり、運よく乗せてもらうことができました。私がトラックの荷台に乗り弟を抱えて、向原の避難先に連れて帰りました。
 
●弟の死
トラックで帰る途中、地御前辺りで弟が水が欲しいというので飲ませましたが、それきり、向原に着いてからは水ものどを通りませんでした。
 
弟を向原国民学校(現在の向原小学校)の講堂に運びました。弟の体は真っ赤でとても熱く、体中に穴が開いて真っ黄色に膿んでいるので、触れることもできません。担架がないので縄を編んだものを担架代わりにし、傷まみれの弟を乗せて担いでいきました。弟は生きた心地がしなかったでしょう。講堂には、負傷者が五,六〇人はいました。半分が傷痍軍人で、毎日送られてきては、毎日一〇人二〇人と亡くなっていきました。
 
弟は放射線の影響なのか、下痢の血便が止まらず、おむつを洗うのが間に合いません。診てくれた看護師さんが、私より一歳上で今もおつきあいしていますが、弟があまり苦しむので、軍医さんに頼んで注射してくれました。弟は八月一三日の晩に亡くなりました。水ものどを通らなかったのに、死ぬ前に弟は「お父さん、親より先死ぬるのは親不孝だけどこらえてね」「お姉ちゃん、ようしてくれたねえ」と言いました。弟は「絶対、日本は戦争に負けない、皆さん、頑張ってください。私は死んでも、魂で勝つ、絶対日本は負けない」と言って、死ぬときにも「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳」と言って死んでいきました。傷痍軍人たちが、弟の寝ているところを囲んでそれを見てびっくりしていました。
 
一晩たった一四日、お葬式はできないので火夫の方にお願いし、畳一枚に弟を寝かせて布をかぶせて、焼き場まで運んでもらいました。狭い田舎の焼き場で遺体を焼くのは大変です。五人を川の字に並べる焼き場の一人分のスペースに弟を寝かせ、頭のところに名前を立てました。もう亡くなっているから痛くないとはいえ、割ったまきを遺体の上に投げて入れていました。新聞で火を付け、焼き場が火事になるかというくらいの勢いで燃やしました。
一五日に弟のお骨を拾った後、戦争が終わったと知りました。弟が戦争に負けたことを知らずに死んでよかったと思いました。弟を迎えに行った時についてきてくれた教官は、弟が死んで焼いてもらうまで、ずっと付き添ってくれました。
 
●近所や親戚の人たちの被爆
同じ横堀町内の伯父の家では、伯父は既に亡くなっていましたが、伯母さんと長男の寺本英一が家にいて、家の下敷きになったまま焼け死にました。遺体は半分ほど焼け、半分は焼け切らずに残っていたので、もう一度焼いたと聞きました。長女の茂子は、県立広島第一高等女学校(通称第一県女・現在の皆実高校)を出て、天満国民学校(現在の天満小学校)で先生をしていて、勤め先で原爆に遭い、可部の親戚の家まで歩いて帰りましたが九日の朝に亡くなったそうです。
 
同町内の増村さんの家でも、弟と同学年の男の子が被爆して壁の下敷きになったまま焼かれました。男の子は先に脱出して息子を助けようとしている父親に「お父さん早う逃げてくれ」と言ったそうで、戦後、父親は川土手で家の方向に向かって手を合わせて拝んでいたそうです。
 
すぐ右隣の家では、済美幼稚園(基町・現在の中区八丁堀)に通っていたお子さん二人とお婆さんが、左隣の家は老夫婦が天満橋の上で原爆に遭って亡くなっています。
 
わが家のお墓は材木町(現在の中区中島町)にあった妙法寺の墓地にありましたが、原爆で角が欠けて、爆風が当たらなかったところはツルツルのままなのに、当たったところはザラザラになりました。戦後、お寺は移転して現在は千田町の方にあります。
 
●放射線障害
家が焼けたので跡地にバラックを建てようと思いましたが、父の具合が悪く作業ができません。父は避難する時にも八月六日以降に焼け跡を掘った時にも放射線を浴びているからか、下血するようになりました。医師がいないので診てもらうこともできず、作業が出来ないまま、毎日体調の回復を待つ日が続きました。
 
私も高熱が出て歯茎から出血し、髪の毛も抜けました。急性の腎臓病にもなり、一年程よくなかったです。薬もない中、父も私もよく助かったと思います。
 
みゆきさんは、福岡からお父さんが捜しに来て、故郷に帰りました。結婚して子どもを二人産みましたが、昭和四七年か四八年ごろ、子宮がんや尿道がんになって亡くなったと聞きました。
 
●戦後の生活と闇市
向原で一〇日間世話になった後は、古市の知り合いの家で四〇日間お世話になり、そこから家の焼け跡まで毎日歩いて通って整理をしていました。その後、仁保町東青崎(現在の南区東青崎町)に部屋を借りることができました。生活が苦しく、着物を質でお金に換えて食いつなぎました。女学校のときに踊りを教えに行っていた安佐郡深川村下深川(現在の安佐北区下深川)に、戦前に商売をしてお金があった頃のいい着物を入れた行李を二つほど疎開させてもらっていて助かりました。
終戦直後は食べ物を売ろうとすると警察が回ってきて没収するので、父と私はお菓子を売ることは出来ませんでした。被爆後一年ほどは父は具合が悪かったのに、夜行列車で大阪へ行き、アルミニウムの鍋や釜を仕入れてリュックに背負ったり手にも持てるだけ持って帰りました。それらとレコードや履物などを闇市でゴザを敷いて並べて売るのですが、一八歳の私はそれが恥ずかしいのです。知らない人ならいいのですが、顔見知りの人が通ると隠れていました。
 
夕方から父が仕入れに大阪に出掛けていくと、私は一晩一人で心細いので、先隣の娘さんに泊まりに来てもらっていました。彼女を呼びに家を留守にするのはほんの一時間程ですが、その日も玄関に鎖を巻いて厳重に鍵をかけて出掛けました。しかし、家に戻って奥の部屋に入って電気をつけると、裏庭から入るガラス戸二枚がはずされていました。泥の靴跡と米の代わりの配給の砂糖の袋にドスを立てた跡があり、箪笥の中身もきれいに取られていました。
 
父が庭に植えたカボチャも、いい具合に熟れた頃に人に盗られてなくなっていました。サツマイモもハクサイもです。サツマイモは掘ってみるともう人に掘られた後でした。当時は食べるものがない時代でしたので、泥棒が入ったという話をたくさん聞きました。
 
●結婚
闇市で商売をしたあと、夕方からは芸事が盛んだった安芸郡中山村(現在の東区中山)で日本舞踊を教えていました。中山村に実家があり踊りの稽古に来た同じ年の主人の隆とそこで知り合いました。私が闇市で商売していると知ると、店を手伝ってくれるようになり、昭和二一年に結婚しました。
 
主人は県立広島第一中学校(通称一中・現在の広島国泰寺高校)を出て、いわゆる予科練として茨城県の土浦海軍航空隊で訓練をしていたところ終戦になり、八月二〇日に広島に戻ってきて鉄道局に就職しました。
 
我が家は弟が亡くなってしまったので養子に来てもらったのです。主人の父も警防団で勤務中に原爆に遭って、八日の晩に亡くなったそうです。
 
●家業の再開と父の死
昭和二二年からは東青崎の家で父とお菓子作りをはじめました。煉瓦を積んで炭の火を入れ、昔のもみじ饅頭を焼くのです。私の仕事は集金をしたり、売れ行きを確認して次の日に作るお菓子の種類と数を考えたりすることでした。四年間つづけましたが、父は歳で無理がきかなくなり、私の主人は鉄道局に勤めていましたから、お菓子屋は父一代でやめました。
 
昭和二六年に商売をやめてから父は病気がちで、やけどをするとケロイドのように皮膚がつり、なかなか治らず半年はかかるような体でした。ABCCに検査に行ったり、入院していたこともあります。昭和三一年七月二四日に亡くなりました。東青崎では昭和三五年までの一五年間暮らし、その後は段原に引っ越しました。
 
●家族で支えあって
子育て中、主人は若くて給料が少なく男の子の子ども三人に食べさせると私が食べる分はないので、私はあばら骨が出るほど痩せていました。それで私がよく質屋へ行くので、長男がときどき箪笥をあけて、「お母さん、着物がないけど、また行ったん?」と言いました。末の子が一〇か月の時に、子どもを背負って自転車で雑誌の配達の仕事を始めました。社長がお金を負担してくれて昭和三〇年に自動車の免許を取ってからは、バイクで仕事をしました。
 
長男が新聞配達のアルバイトで初めての給料をもらった時、私にスカートと靴下と毛糸の帽子を買ってくれました。帽子は今でも大事にしています。長男の名前は死んだ弟と同じ名前です。私の父がつけました。貧乏もしましたが、子ども三人はみんないい子に育ってくれました。
 
私は二一年半会社に勤め、給料はだんだんよくなりました。役職をつけるから残って欲しいと言われましたが、主人が急性心筋梗塞で危篤状態になったので、会社をやめました。バイクには八〇歳まで乗りました。
 
●夫の死
私がまだ会社に勤めていた頃、主人は白血球が四万もあり、鉄道病院に入院していたこともありました。主人はいろいろな病気をし、晩年はがんの手術もしたり認知症にもなり、平成二三年に亡くなるまでまる七年看病しました。主人は八月二〇日に広島に戻り入市被爆していますが、被被爆者健康手帳は持っていませんでした。
 
●次の世代へ
今は大学生になった孫もひ孫も、みな高校生のときに私の原爆の話を聞きました。学校で話を聞いてきなさいと言われたのでしょう。
 
原爆には反対です。絶対に戦争はいけません。今でも国と国がいがみ合いをしているので、いつ戦争になるかとびくびくします。家族でも国同士でも、言いたいこともあるでしょうが、お互いが我慢し思いやって平和になってほしいです。もう二度とあのような目に遭いたくない、自分の子どもも孫も、決して遭わせたくありません。世界中が平和になることを祈っています。 

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