●神戸から広島へ
私は昭和六年三月一〇日に神戸で生まれそこで育ちました。小学校六年の時に父の古谷昇(明治三五年生まれ)が亡くなり、母の古谷ます代(旧姓・秋本、明治四三年生まれ)の実家がある広島に、母と二人で帰ってきました。伯父たちが末っ子の母を心配して帰ってこいと言ったようです。最初は、寺町に住んでいた母の一番上の兄と一緒に暮らし、広瀬国民学校に転入しました。学校は天満川の土手沿いにありましたので、いつもその土手を歩いて通いました。私が女学校に入ってからは、千田町で金物屋をやっていた三番目の兄、秋本勇吉の所で暮らしました。
広島で空襲はありませんでしたが、いつ何が起きてもという覚悟はしていたように思います。小学校に入った時には日中戦争が始まり、昭和二〇年に入ると呉での空襲が激しさを増すといったように、戦争、戦争の時代でした。小学校では兵隊さんに慰問文を書きました。「しっかりしなきゃいけない」という意識は常にありました。
●学徒動員
私が進学した広島市立第一高等女学校は、母の母校でもあります。母が教わった先生も二人残られており、孫が来たようだと言ってもらいました。
一年生の頃は授業もあり、和裁や薙刀も習いました。和裁は、母親が手伝うかもしれないということで、持ち帰りは禁止されていました。
二年生ごろから学徒動員が始まり、今日は印刷工場、明日は別の工場へといった具合でしたので、鞄を学校に置いて行かされました。授業を受けることはほとんどありませんでした。
三年生になると、私は西蟹屋町にあった日本製鋼所の工場に動員されました。市女の生徒たちは朝勤、昼勤、夜勤、暁勤と四交代で通っており、六時間ずつ働くのです。夜勤と暁勤は、夕方同じ時間に出勤します。工場に寝る所があって、暁勤の人はすぐに就寝、夜勤の人は勤務に入ります。そして夜中に交代するのです。朝になると、竹の筒の器に入った味噌汁をいただいて、朝食をすませて帰ります。
工場は二四時間稼働しており銃弾のような物を作っていました。何を作っていたか正確には分かりません。教えてもらえませんでしたし、自分でも知ろうとしませんでした。工員さんが先生となり、ベルトコンベアで回ってくる製品の大きさを検査しました。手が油だらけになりますが、石鹸も手に入りづらい時代だったので、油を落とすのが大変でした。代わりに竈の灰で拭ったりしていました。
子どもが集まれば、楽しみはあります。おやつは大豆ぐらいしかありませんでしたが、皆それを隠して持っていて、消灯後に見回りの先生が来た時は寝たふりをして、足音が遠のくと、真っ暗な中であちこちからポリポリと大豆を食べる音がしたものです。
●八月六日
八月六日は日本製鋼所が休みだったので千田町の家にいました。お米がなくなったので、母は朝早くから可部の奥にある安佐郡三入村(現在の安佐北区)まで買い出しに行きました。私は家にいたのですが、伯母に寺町の野地の伯父(母の二番目の兄)の所へ行くお使いを頼まれ、電車に乗って寺町に向かいました。
別院前停留所で降りて、その近くの細い路地を通った所にある伯父の家で用件を済ませ、もう一軒の伯父の家に寄ろうと思いながら電車道に出ると、横川の方から電車が来るのが見えました。停留所の近くにいたので、伯父の家には寄らずに電車で帰ろうとした時、「わあっ」という声がして、足を速めた瞬間、ぴかっと光ったのです。
まわりには国民学校の児童がいたような気がします。直接、光の方向は見ていませんが、稲妻がぱっと光り、そしてしばらくして、ドンという音がしたように感じました。音は光に比べて遅いと学校で習いましたが、こういうことかと思いました。
何が起きたのだろうと辺りを見回すと、電車通りの向こう側にある二階建ての家の瓦が飛んでいました。瓦は、わら半紙や新聞紙が風に飛ぶときのように、ひらひらと浮かんで飛んでいました。それを見た時に、アメリカ軍が落としたビラのことを思い出しました。見てはいけないと言われていましたが、誰かが持っていたビラに、空襲にやられている街の絵が描かれていたのを見たことがあります。その絵と同じだと思いました。すぐに学校で指導を受けたように一、二、三で目と耳を押さえ、足を伸ばし、平たく伏せました。この時下駄は脱げていました。爆風で、ぱらぱらと瓦礫が落ちてきました。腰の上にブロック塀のかけらか何かが落ちてきたので、そのまま、しばらくじっと伏せていました。
私は運命を感じました。私が乗ったのは、爆心地を通るルートの電車でした。家を出るのが三〇分遅かったら、また三〇分早かったら、私が乗った電車は爆心地辺りにいたということになります。五分前だとしたら、私は伯父の家付近の狭い路地にいて、家の下敷きになっていたはずです。五分後なら、電車の近くか電車に乗って、光とガラスの破片を浴びていたでしょう。私はちょうど別院の大きな建物や商店の陰になる所にいて、無事だったのです。
辺りは真っ暗で静かでした。このままここにいてはいけないと思い立ち上がると、家は倒れていて何もありません。顔の腫れた人が四、五人走って逃げていくのが見えました。
自分も逃げなくてはと思い、とにかく田舎の方を目指そうと、横川方面に橋を渡って行くと、赤銅色でつるんとした感じの、おそらく子どもが焼けたと思われるかたまりが、道路に転がっているのを見ました。打越町辺りでは火があがっていたので、これでは田舎へ向かえないと思い、また橋を渡って引き返しました。するとそこに伯父の知り合いの人たちがいて、一緒に広瀬北町の河原へ降りました。
●黒い雨
河原には、大勢の人が避難していました。お昼過ぎまでは、街の様子を見に行った人が「寺町はまだ焼けてない」と言っていましたが、十日市町から段々と火が広がり、最後には寺町も焼けてしまいました。ちょうどその頃、雨が降ってきて、私たちは誰かが探してきてくれたトタンを頭にかざしてしのぎました。ぽたんぽたんと黒い雨が降ってきて、それはまるで、神戸に住んでいた頃、家の近くの線路で、枕木の防腐剤として塗られていたコールタールが滴るように見えました。
日も落ち始め、いつまでもここにいてはいけないと、北へ向けて皆と一緒に行列になって、ぞろぞろと旧国道を歩いていきました。
一方、母は三入村で原爆のきのこ雲を目撃し、私たちのことが心配になり、広島市内へ向かって歩いていました。当時の国道は一本道だったため、私たちは群衆にまみれながらも、すれ違いざまに運よく出会うことができたのです。それから母と二人で安佐郡古市町(現在の安佐南区)の知り合いを訪ねました。そこで、「みんなに泊めてほしいと言われ困っている。一泊したらどこかへ行ってほしい」と言われ、一晩だけ泊めてもらいました。
●被爆後の生活
その翌日からは、祇園町長束の長和久(現在の安佐南区)で、そこに住む人から離れの部屋を借りて半年ほど暮らしました。私の知らない人でしたが、母の知り合いだったかもしれません。長和久は田舎だったので、食べられる植物などを採ってきておかずにしていました。台所代わりに、庭に石を並べ、その上に鍋を置いて、拾ってきた木を燃やして調理しました。
父の死後、戦時中にもかかわらず、母は手に職をつけようと洋裁を習っていたので、長和久の家で洋裁を教えて、生計を立てるようになりました。
長和久滞在中に終戦を迎えましたが、生きることに精いっぱいだったので、特に何も感じませんでした。
足に膿が出るようになったので、しばらくの間、私は市内に戻ることができませんでした。蚊に刺された跡が赤くなり、そこから膿が出ているのだと思っていたのですが、そのうち、下半身が膿だらけになってしまいました。薬もないので、生えていたドクダミを採ってきて、塩でもんで、足に貼りつけて治そうとしました。毎日、河原にドクダミを取りに行くのが日課でした。それを一一月ごろまで続け、その後ようやく学校に戻れました。
私は足が治っていなかったため行きませんでしたが、市女の校舎は半壊したので、九月ごろにはみんな集まって片付けたりしていると、同級生の一人から聞いていました。しかし、一一月になって私が学校に行くと、その同級生は亡くなっていました。やけどもなく無傷で元気そうな人が亡くなる話を、風の便りにたくさん聞きました。当時二〇歳くらいの学校の先輩で実相寺の娘さんだった人も私と同じ寺町で被爆しました。ほぼ無傷で、家に戻って建物の下敷きになっているお母さんを助け出したり、介護をしたり、市内に残って忙しく動き回っていたのですが、八月の終わりに原爆症で亡くなられたそうです。
同級生の中には、両親と四人きょうだいのうちの二人も亡くなったという人もいます。学校では、戦後も防空頭巾をかぶり続けている生徒や先生を見掛けました。原爆症で髪が抜けてしまうのを隠すための帽子もなく、防空頭巾をかぶるしかなかったのです。そんなことが当たり前なので、誰かが倒れたり亡くなったと聞いても、不思議に思わなくなっていました。
●市女の碑
一学年下の市女の一・二年生の生徒たちは、建物疎開に出て皆亡くなりました。私は三月生まれですが、あと二〇日遅く生まれていたら、私もそちらに入っていたのだと思うと、本当に運命を感じます。紙一重の差で生き延びました。
身内では同じ学校に通っていたいとこが亡くなりました。同い年ですが、私が三月生まれで三年生、従妹は五月生まれだから二年生でした。ほぼ爆心地で亡くなっています。私たちが一、二年生の時に教わった恩師の方たちも、皆亡くなりました。
市女では六クラスのうち、一クラスが体の弱い生徒を集めた『弱組』と言われるクラスでした。私は小さい時から普段は元気でも検査になると引っかかり、神戸の小学校でも、市女でも体の弱い生徒のクラスに入れられていました。その弱組だけで、大野浦(現在の廿日市市)へ合宿に行ったことがありました。夜になると、お腹が冷えないようにと、先生が生徒たちに布団をかけてまわってくれました。とてもやさしい先生でした。水槽につかって亡くなった市女の生徒を守るように、先生が覆いかぶさって亡くなっていたという話を聞いた時に、その先生の姿と重なりました。
●戦後の風景
長束を出てからは、母が三篠町に家を買ったので、そこから歩いて学校に通いました。一年ぐらいは街に瓦礫がずっと残っていました。土橋のあたりの瓦礫からは、夜になると火の玉が出ると言われていました。
戦後、私は友達に誘われて絵画部に入りました。先生や部のみなさんと一緒にスケッチをするのですが、瓦礫の街の向こうに福屋のビルが見え、そのまた向こうに安芸の小富士まで見渡せました。瓦礫だらけの焼け野原で何もない光景が印象に残っています。学校へは三年の一一月から四年生が終わるまで通い、卒業しました。
母が、文化洋装学園という洋裁学校を三篠町に開校したので、卒業後は母の手伝いをしました。借金して土地を買った母は大変だろうと思い、自分にできることは全部やろうと手伝いました。その母は七〇歳を超えた頃に亡くなりました。
私は結婚後岩国に行き、夫が亡くなるまでそこで暮らしました。現在は娘と息子がいる広島へ戻り、祇園に住む長男の近くで一人暮らしをしています。
●次世代への願い
私は本当に運がよかったのです。爆心地に近い所で原爆に遭っているのに、火の海に呑まれることもなく、数分、数メートルの違いで難を逃れました。母も無事で、伯父たちも被爆で亡くなることはありませんでした。ただ後にいろいろ病気にかかったのは、もしかしたら原爆症の影響だったのかもしれません。私自身は、国民学校でも女学校でも体の弱い子のクラスだったので、被爆のせいとは思いませんでした。体がだるい時もありますが、いろんなことがあっても、私の体質なのだろうと思ってやってきました。
しかし最近、被爆当時に広島女子高等師範学校附属山中高等女学校の生徒だった人から、白血球に異常が出たという話を聞いたのです。そのほかにも、私ぐらいの年齢の人が白血病で亡くなったという話を身近によく聞きます。やはり、未だに原爆が尾を引いているのだと感じます。そのようなことを、森重昭先生の奥さまと話していた時、「そうやって気づいたときが、その時なのよ」と背中を押してもらって、体験をお話しすることにしました。
自分の子どもたちにはこれまで体験談を話したことがありません。東京にいる三男の子どもが来た時に、資料館に行こうと誘われましたが私は嫌でした。展示されているのは広島で起きた出来事のごくわずかだけですが、まだまだ悲惨な記憶がたくさんあります。直視したくないのが普通だと思います。本当に、子どもが下敷きになって、火に包まれて、親が助けたくてもできなかったというような話も身に染みて分かるので、見るのも聞くのも怖くてしたくないのです。
娘婿の両親は、原爆投下当時、赤十字病院の皮膚科の医者と看護婦だったそうです。生きていたら、もっと貴重な証言ができただろうにと思います。
孫の小学校の運動会の際に、いろんな話をしたことがあるのですが「原爆って遭った人でないと分かりませんよね」と言われました。その一言に尽きます。戦争はちょっとのきっかけで起きてしまいます。日中戦争も、ささいなことから始まりました。ニュースで現在の国際情勢などを見るにつけ、とても心配になります。もし戦争になったら、核が使われることでしょう。戦争だけは避けてほしい、それが私の切なる願いです。 |