●被爆前の生活
わが家は金屋町にありました。段原国民学校のすぐ近くで八百屋を営んでいましたが、戦争の終わり頃は、個人で店が開けなくなったので共同でどこかでやっていたと思います。自宅は建物疎開の対象になり、壊されることになったので、原爆投下の一週間くらい前に、数軒先の空き家に引越ししていました。もとの家は平屋で引越し先は二階建てでした。
家族は父の松浦喜七(四六歳)、母のシズノ(三九歳)、姉の幸子(一八歳)、私、妹の百合子(一四歳)、弟の要(九歳)ともうひとり国民学校入学前の弟の史郎(六歳)の七人です。当時、私は広島女子商業学校の四年生(一五歳)でした。
一八歳の姉は東雲の工場に通っていました。一四歳の百合子は進徳高等女学校の二年生でした。九歳の要は、母の実家がある安佐郡安村大町(現在の安佐南区)に疎開して、そこの国民学校に通っていたので、家では六人が暮らしていました。
●学徒動員
広島女子商業学校では、一、二年生の時は授業がありました。担任の岡村先生は若い女性で英語の先生でした。私は最初、英語が全く分からなくてショックを受けましたが、一生懸命勉強して定期試験はいつも一〇〇点をとるようになりました。そのうち英語が大好きになり、岡村先生と英語で会話したりしていました。国民学校のときにそろばんの塾に行かせてもらっていたので、そろばんも得意でした。級長もやりました。
二年生の時は、ときどき被服支廠や兵器補給廠に勤労動員に行くこともありましたが、その日は授業がないので喜んでいました。しかし、三年生になると、毎日、吉島の中国塗料(株)に勤労動員に行くようになり、学校での授業もなくなり寂しかったです。
中国塗料では、仕事の詳しいことは教えられませんでしたが、長さ三〇センチ直径一〇センチくらいの酸素ボンベのような物を流れ作業で作っていて、私はハンダづけをしていました。戦争に勝つぞと思って、朝早くから暗くなるまで一生懸命仕事をしました。「神風」と書いたハチマキを締めて、夜道をクラスのみんなで軍歌を歌いながら歩いて、市内電車に乗って帰っていました。
吉島の工場には一年以上通いました。その後、吉島は危ないからと、鈴が峰の山を切り開いた所に中国塗料が工場を建てたので、四年生になると、そこに通うようになりました。広島駅から五日市駅まで列車に乗って通いました。列車に乗って通うのが初めてだったので、ものめずらしい気分でした。五日市で降りて歩いて工場まで行きました。
●八月六日
鈴が峰の工場に通うようになって一カ月が過ぎた頃です。工場の広場で朝礼を終えて、各部屋に向かって坂を下りていた時にピカッと光りました。男子の学生もいたので、誰かが鏡でいたずらをしたのかなと思った光が、実は原爆によるものだったのです。
私達がいた所は全く被害はありませんでしたが、部屋の窓から見ると広島市内が燃えていて、その燃えさしが飛んでくるのです。焼夷弾が落ちて福島町の方が焼けているのかと思ったくらいで、まさか段原の方まで焼けているとは考えられませんでした。
でも家が心配で帰ろうと思い、段原国民学校の同級生と一緒に歩いて草津の辺りまで行くと、兵隊さんが、「燃えているから帰られんよ」と言うので、また工場に戻り、飲まず食わずで、夜は椅子を並べて寝ました。鈴が峰の上からは広島市内が燃えているのが見えて、不安で心配な夜を過ごしました。
七日の朝、段原国民学校の同級生と二人で、市電の電車道を通って帰りました。電車道は広いから、いっぱい物があったけれど、何とか歩けました。稲荷橋の鉄橋(稲荷町電車専用橋)を「こわいね、こわいね」と言いながら渡ったのを覚えていますが、あとはあまり記憶がありません。ただただ必死に歩いて、戻ったら家は燃えてありませんでした。
友達は親戚の所に行くというので、自分は金屋町の避難先になっていた矢口まで行き、安佐郡矢口村から太田川を舟で渡り安佐郡緑井村まで行き、母の実家の安村大町まで行くと、そこに両親も姉もいました。姉は東雲の工場にいて無傷でした。
●妹、百合子の死
妹の百合子はあの朝、建物疎開作業へ行くために進徳高等女学校の校庭に並んでいたそうです。その時トイレに行った者は、建物の陰になって助かったようですが、妹は運動場にいて被爆して、気付いた時には身に着けていた救急袋もズボンも焼けているから引きちぎって捨てて、比治山に逃げたそうです。
母が見付けた時には、妹は裸足で、上着もズボンもなくてパンツ一枚でした。途中で兵隊さんが薬をつけてくれたそうですが砂が付いて土まみれ、顔はきれいだったので母も見付けることができたのですが、全身やけどでした。
あの朝、母は荷物疎開をするために、安村から大八車を引いてきてくれた伯父伯母と一緒に、防空壕から出した荷物を積んで出発して、途中の白島で原爆に遭い、髪の毛がボロボロになりました。大八車はその場に置いたまま、伯父伯母は安村に帰りましたが、母は家が心配で、燃えていない縮景園の裏の方から帰ってみると、わが家は焼けていました。近所の人が「百合ちゃんが比治山神社の所にいたよ」と言うので、走って向かったそうです。
妹は比治山を越えて、反対を回ってわが家へ戻ろうと思ったのでしょう。比治山は私らの遊び場だったので、西側の麓にある比治山神社までは来られたものの、そこで力尽きたのでしょう。
やけどした人を運ぶ大きなトラックが来たので、お願いして乗せようとしたのですが、体はずるむけでパンツしかはいてない状態で、お尻を持ってようやく乗せて、母も同乗して、青崎国民学校に行ったそうです。
夜の講堂には被災した人がいっぱい寝かされており、兵隊さんが救護してくれていました。母は妹に「百合ちゃんや、ここには兵隊さんがいて見てくれてじゃから、明日の朝お母ちゃんは史郎やみんなが心配なけん捜しに行くので、あんたはここで留守番しとりなさいね」と言い、夜を迎えました。妹は、次の日母が捜しに行ってしまうのが寂しかったようで、小さい子の泣き声が聞こえると「あれ、史郎ちゃんじゃない?」と何度も言っていたそうです。
あくる朝、妹は亡くなりました。母は、「朝、死んでしまうのなら、次の日、百合子を残して捜しに出掛けるなんて言うんじゃなかった」と、戦後何度も何度も呟いていました。寂しい思いをさせ死なせてしまったと、母はずっと悔やんでいました。
死んでも母一人では焼くことができないので、母は、はさみを借りて妹の髪の毛を切りました。妹の遺体は兵隊さんに任せるしかありませんでした。お墓には母が切った髪の毛が入れてあります。
●弟、史郎の死
原爆投下の日の朝、父は八百屋組合の用事で、宇品に行くことになっていました。弟の史郎が、荷物疎開をする母について行くと泣くので、母は史郎の一番好きなよそ行きの服を出して、これを着てお父ちゃんのリヤカーに乗って一緒に宇品に行きなさいと納得させたそうです。
弟をリヤカーに乗せて待たせている間に、父は家から数軒先の郵便局に行き、そこで被爆しました。父が倒れた建物からはい出してわが家へ戻ってみると、二階建ての家がぺしゃんこになっていたそうです。そして、リヤカーに乗っていたはずの史郎の姿は見えませんでした。捜しても見つからないので、近所の人に連れられて逃げたのかと思ったそうです。
父はけがを負っていましたが逃げて、なんとか大町まで帰ってきたわけですが、史郎の消息は分からないままでした。それから毎日、母の実家でむすびをつくってもらい、両親と姉と私とで、金屋町の焼け跡まで史郎を捜しに行きました。近くの救護所なども見て回りましたが、見付かりません。一週間ほどたった頃、原爆が落ちた時、弟は二階にいて、「今度のぼくのお家、二階があるから上がっておいで」と、キミオちゃんという近所の男の子を誘っていたことが分かりました。それまで平屋で暮らしていた史郎は、建物疎開で二階建ての家に引越しして、珍しかったのでしょう。父が郵便局に行っている隙に、家の二階へ上がったのです。
ペチャンコになった家の焼け跡をはがして捜すと、階段の下でうつ伏せで焼け死んでいる弟を発見しました。腹の部分は生焼けの状態で、母が着せたというよそ行きのチェック柄のシャツが焼けずに残っており、それは間違いなく史郎の遺体でした。「史郎ちゃん、ここにおったんじゃね」と、父母、姉、私の四人は、悔しい、悲しい、腹立たしい、見つかった安堵など、いろんな感情がこみ上げ泣きました。史郎の遺体は、そばにあったもえさしの木で荼毘に付し、遺骨を持ち帰りました。
以前住んでいた平屋は、原爆でも倒壊していなかったので、建物疎開で引越しさえしていなければ史郎も死なずにすんだかもしれないのにと、悔しい気持ちでいっぱいになりました。
●原爆の惨状
金屋町の近所の人から聞いた話です。家が倒れて子どもが家の下敷きになったが、助け出せないところに火が来る。「お母さん。お母さん」と子は叫ぶのに、火の熱さから母親は逃げてしまったというのです。「私はあの子を置いて逃げた。あの子はあそこで焼け死んだ」とその女性は後悔の念にさいなまれながら泣きくずれたそうです。この話を聞いた私たちも皆泣きました。そんな人がたくさんいたのです。
毎日金屋町まで来て夕方まで史郎を捜しました。今の原爆ドームの辺りでは、川から引き揚げた死体が山のように積まれていました。死体が滑るのを鳶口で引っ掛けて上げる様子を見ながら帰っていました。暗くなったら石油をかけて焼いたのだと思います。川一面は死体だらけ、牛も死んでいました。横川橋の所では、お母さんが子どもを抱いたまま川に浮かんでいるのも見ました。
戦争はいけない。もう、あんな死に方はいけない。原爆で死ぬなんて、むごいことがあってはいけない。生き残った者も、目で見て耳で聞いて心に深く残るのです。たまらないです。
家族の行方が分からない方が大勢いらっしゃる中で、百合子は母親が看取ることができ、史郎はお骨を拾うことができたので、私たちはまだ幸せです。
史郎を捜して市内を歩き回っていた頃、縮景園の辺りで、空襲警報が鳴ったことがありました。焼け野原で隠れる所もなく、とても恐ろしい思いをしました。しかし、親がそばにいたのでとても心強かったです。家も焼けて弟や妹を失いましたが、姉と私には両親がいたので幸せでした。けれど、家族二人を原爆に奪われ、家も焼けてしまったというのに、「まだ幸せな方だ」と思ってしまわざるを得ないことこそが、ヒロシマの底知れない悲劇を物語っているのではないかと思います。
●戦後の生活
白島で被爆した母は、髪が焼けていました。父はけがをしていたと思いますが、しっかりしていました。
戦後一カ月ほどたった頃、母の実家にも家族皆で長くはいられないので、弟が亡くなった金屋町の二階建ての家の跡にバラックを建てて住むようになりました。焼け残っていた五右衛門風呂を使って、屋根も囲いもなかったので、夜中に近くの水道水を使って水風呂に入るような生活でした。
私は戦争中、勉強もせずに暗くなるまで働いたのに、どうして戦争に負けたのか、全く納得ができませんでした。学校は、向洋の兵舎跡を借りて再開しましたが、もとの校舎から机や椅子を運ぶのが大変でした。卒業まで二カ月ほどでしたが、教科書などはなくプリントで勉強しました。社会科の授業だったと思いますが、全く理解できないので先生に聞きにいったら、新聞を読んだりラジオを聞いたりすれば分かるようになると言われました。バラックに住んでいて電気などなく、暗くなると新聞も読めずラジオも聞けないと先生に言うと、まるをくれました。市内の生徒は焼け出されて、皆、着の身着のまま、靴もはかず下駄で学校へ通いました。
両親は八百屋を再開しました。段原には家も多く残っていたので、空き家を借りて始めた店は繁盛しました。店が忙しかったので、私も女子商を卒業した後は、家の商売を手伝いました。和裁洋裁、お花など、習い事もいろいろさせてもらいました。商売が順調だったおかげです。
戦後は広島には草木も生えず、被爆者は結婚もできないと言われて不安な気持ちになりましたが、昭和二七年、夫と比治山神社で結婚式を挙げ、昭和二九年には息子が、昭和三四年には娘が生まれました。
夫は戦争中、兵隊で喜界島にいました。土木作業をさせられたようです。そこで埃が目に入って角膜をやられました。しかし、もとから悪かったのだろうということになり、恩給もありません。片目は失明状態で、もう片方も視力が悪くて普通の会社に勤められず、親族がやっていた材木会社で働いていました。
●健康問題と家族のその後
私は被爆後一年間、生理が止まりました。しばしば貧血を起こすようになり、四三歳の時には子宮筋腫になり子宮を摘出しました。白血球異常にもなりました。
戦後、日系の人とお見合い結婚した姉の幸子は、アメリカに渡りました。子どもが二人生まれましたが、下の男の子が二年ほど前に五〇代で亡くなりました。原爆の影響からか、その子は生まれた時から体が弱く、脳に水が溜まる病気がありました。頭から管を入れて腎臓につなげる手術で、成長に合わせて管を取り換えなければいけないので大変でした。最後は全身がんに侵され亡くなりました。九二歳の姉は今も五〇代の娘とシカゴで暮らしています。
今年(二〇一九年)の春、二人が広島に帰郷した際に、一緒に比治山にお花見に行きました。私や姉の幸子にとっては子どもの頃の遊び場ですから、それはもうなつかしい気持ちでいっぱいになりました。
弟の要は東京の大学に進学しましたが、その後、八百屋を継ぐために広島へ戻りました。近くにスーパーができると商売は徐々に難しくなり、父が亡くなり、店を手伝っていた母も八〇歳で脳梗塞で寝たきりになり、五年後に亡くなりました。その頃、段原の再開発もあり、店を閉めました。ほどなくして弟ががんで亡くなりました。
●現在の暮らしと語り継ぐ原爆
当時は修学旅行もなかったので、広島女子商の同級生と六〇歳過ぎて皆でハワイに行き、楽しい思いをしました。今年の同窓会も、九〇歳になる二〇人近くが集まりました。
私は今もきちんと家計簿を付けています。漢字も忘れないように、子どもたちからプレゼントされた辞書を引きながら、書くようにしています。
五年くらい前、夫は片方の目も見えなくなってきて、失明も覚悟(かくご)して手術しました。おかげさまで成功して視力が回復し、食事も自分でできるようになりました。娘や息子はよく来てくれて、介護をしてくれます。大学生の孫が、何かアルバイトないかと家の用事をしたり、夫の爪を切ったり、散髪までしてくれるのがうれしいです。
子どもや孫たちには折に触れ原爆(げんばく)の話をするようにしてきました。昭和三七年からアメリカに住む姉は、被爆体験証言者をやったこともあるようです。むごい話をたくさん見聞きし、私たちは心から、原爆などで死ぬものではない、あんな恐ろしいことは決してあってはならないと思います。核兵器は絶対反対です。
核兵器だけでなく、原子力発電も危険だと思っています。福島県の実情を思えば、核が人間の手に負えないことは火を見るよりも明らかです。
私は、孫には自分の想いを伝えてきたつもりです。孫はきっと、自分の子どもたちに伝えてくれると信じています。けれど、唯一の被爆国である日本においてさえ、ヒロシマ・ナガサキの体験が共通認識されているとは思えません。私はもう九〇歳になり、とても自身で証言することは出来ません。ですが、この私の体験をまとめていただいたものが、だれか一人にでも伝わればうれしいです。
日本の若い人たち、できれば世界にまで、ヒロシマ・ナガサキの体験が正しく伝わり、世界平和に一歩でも近づくことを心から願っています。
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