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家族に助けられて 
西山 初江(にしやま はつえ) 
性別 女性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 三菱重工業(株)広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●戦時中の生活について
私の家族は八人で、父・土井義夫、母・照子、私が大正一〇年生まれの長女で下に四人の弟、一人の妹がいました。大正一四年生まれの長男・五太郎、昭和三年生まれの正典、昭和五年生まれの巌、昭和八年生まれの里子、昭和一〇年生まれの一成という順です。
 
安芸郡中山村(現在の東区)に家があり、父は鉄道関係の仕事に就いていましたが、元々は農家で、母も農家に従事し、日曜日には家族全員で手伝っていました。戦時中には父は鉄道を退職し、安芸郡坂村(現在の坂町)にある石油販売の会社に勤めていました。農業をしていても、田畑が広くはなかったので、自分たちが食べることができる量は少なく、毎日の食事はお粥や、おじやばかりでした。
 
私は安田高等女学校を卒業後、裁縫やお花の稽古をしていました。そして昭和一五年、一九歳のときに西山力夫と結婚し、段原新町で暮らし始めました。夫は大正三年生まれで、私の七歳上です。安佐郡福木村馬木(現在の東区)の出身でしたが、段原新町で接骨院を開業していました。その後、夫は昭和一八年に衛生兵として上海へ出征しました。夫が出征した後、自宅が建物疎開区域に入ったので、隣に住んでいた吉野さん宅の二階を借りて生活していました。
 
当時私は、近畿電気工事という電気工事をする会社に勤めていました。私が通っていたのは、昭和一九年三月南観音町に開所されたばかりの三菱重工広島機械製作所の中にあった事務所でした。従業員は皆、三菱が出していたバスに乗って通勤していました。私は自宅最寄りの的場町から天満町まで市内電車に乗り、天満町からバスに乗り換えて通っていました。
 
製作所入り口近くに近畿電気工事の事務所兼倉庫があり、従業員は所長をはじめ五、六人ほどでした。工場の建築に伴う電気工事などを行っていたと思います。朝鮮人の労働者もいました。
 
平屋の倉庫の中には電線などの工事機材がたくさん入っている以外は、机が並んでおり、防空壕が掘ってあるだけでした。
 
私の業務は、毎朝日報を書き、三菱の動力課へ持って行くことでした。また、私の事務室には電話がなかったので、それぞれの連絡を取り次ぐ仕事をしていました。
 
●八月六日
いつもは、同僚のちかちゃんと八時過ぎのバスに乗って、遅刻寸前に会社に着いていたのですが、八月六日の朝は私だけが一つ早いバスに乗り、普段より一〇分か一五分早く、八時ごろには会社に着いていました。その頃、ちかちゃんは天満町にいて、化粧をしていたと聞いています。それが運命の分かれ目になりました。
 
私は早めに事務所に着いたので、会社の人たちとおしゃべりをしている時でした。突然今まで見たことのない、ものすごくきれいな光で、辺りがぱあっと明るくなりました。ピカドンと言いますが、私はドンの音は聞いた記憶がありません。
 
窓辺にいた人はその瞬間「熱い」「痛い」と言っていました。やけどをしていたのですが、その時はやけどしたことが分かりませんでした。私は光った瞬間、窓に背中を向けていたので、熱かっただけで顔はやけどしていません。
 
閃光を浴びてすぐ、事務所の中にあった地下の防空壕へ従業員二、三人と一緒に避難しました。他にも人がいたのですが、その人たちはどこへ避難したのか分かりません。事務所はバラックだったので爆風で潰れかかり、電線など中にあった道具が崩れて落ちてきそうだったので「ここにいたら潰れて出られんようになる。早く出よう」と言って事務所を出ました。
 
観音の三菱重工広島機械製作所はまだ完成しておらず、埋立工事中でした。工場がまだ建設されていない砂の広場があり、そこに防空壕が掘られていました。そこに事務所の人たちと逃げ込みました。そのときバラバラになったので、窓際にいてやけどした人たちがそれからどうしたかは分かりません。
 
●黒い雨
事務所からその広場の防空壕へ走って逃げているときに黒い雨に遭いました。ぽたぽたと大きな雨粒で、黒くざらざらとしていて、煙硝みたいな粉が入っていたのかと思っていました。顔が真っ黒になり、一緒に逃げていた同僚で大阪から来ていた西田さんが「西山はん、べっぴんを損なうから、これで拭きなはれ」と言ってタオルを渡してくれ、顔を拭かせてもらったことを覚えています。
 
どこが安全な場所か誰も分からず、皆が右往左往していました。工場にいた人のほとんどが防空壕へ避難したと思います。防空壕へ入っても話す人は誰もいませんでした、その頃になると、天満町の方から観音へ向けて、人がぞろぞろと避難して来ていました。
 
●観音から鷹野橋へ
昼過ぎごろまで防空壕の中にいました。その時は原爆とは分からず、三菱が攻撃されたと思っていたので「ここにいて、またやられては大変。危ないから逃げよう」と防空壕から出ました。
 
天満町方面へは家が燃えていて行けないので、何人かで連れ立って、鷹野橋方面まで避難しました。
 
一緒に歩いているとき「あそこが刑務所じゃ」と、誰かが教えてくれて「囚人はどうしたのだろうか。出してもらえたのかね」と話をしながら歩いたのを覚えています。観音から鷹野橋へ向かう道の周辺は家が燃えてまだくすぶり、水がじゃあじゃあ出ていました。鷹野橋の方から馬が駆けてきました。やけどしていたみたいで、ヒヒン、ヒヒヒンと鳴いて苦しんでいましたが、誰も助けなかったし、助けることもできませんでした。
 
一緒にいた人たちともどこかで別れてしまい、その後は分かりません。自分が逃げるのが精いっぱいで、人のことまで考える余裕はありませんでした。
 
●中山村の実家へ
私は段原新町の家に帰るため、鷹野橋から比治山の方向へ真っすぐ向かいました。家は焼けてはいませんでしたが、かなりひどく壊れており、二階へ上ることもできない状態でした。吉野さんも近所の人もいませんでした。ここにはいられないので、中山村の実家に帰ることにしました。
 
広島駅は燃えていて、愛宕町の踏切も燃えて通れないと人づてに聞いたので、広い道があった、元騎兵第五連隊(当時、第二総軍司令部)と東練兵場の間を通り、二葉山の山裾の道に出て帰りました。女学生のときに通い慣れた道だったのでこの道を選んだのだと思います。その時避難する人や倒れた人をたくさん見ましたが、知り合いの人はいませんでした。実家に帰るまで長い間歩き、実家に着いたのは夕方だったと思います。父が、驚いて足を震わせながら「あんた、生きとったか」と私に飛びつくようにして喜んでくれました。
 
●家族の被爆状況
父は八時一五分に原爆が投下されたとき、通勤のため広島駅に停車中の、呉線の汽車の中にいました。発車前だったので、すぐに降りて自宅に引き返したそうです。
 
母は町内の当番で建物疎開で出た木くずを拾う作業に的場町まで出掛けていました。原爆により顔半分と肩から肘、足首の方までの半身をやけどして戻ってきていました。夏場で襦袢一枚程度の薄着だったので、やけどがひどかったのです。勤労奉仕に一緒に行って亡くなった近所の人もいました。父も母も歩いて帰ってきていました。
 
実家は、大内越峠の所に当時あった火葬場のそばで、今は的場幼稚園ができている辺りになります。実家も原爆で家の扉や雨戸、台所の窓ガラスが吹き飛んでいました。家は被害を受けましたが、家族は無事でした。家にいたのは広島女学院高等女学校一年生だった妹の里子と、弟の一成です。里子のクラスはたまたま休みだったので家にいて命拾いをしましたが、他のクラス一,二年生の生徒三五〇名は、雑魚場町の建物疎開作業に動員されほぼ全滅となりました。
 
弟の巌は県立広島工業学校に通っていました。八月六日は、学校は休みでしたが、知り合いに頼まれ勤労奉仕に出られない人の代理で、幟町方面に手伝いへ行き被爆しました。「蔵の中にいたので、やけどはせず生きているが、頭に落ちてきたものでけがをしていた」と、弟と一緒に勤労奉仕に行って戻ってきた知り合いが教えてくれました。知り合いとは別の避難所に運ばれ、はぐれたためどこへ行ったか分からないということでした。
 
父が心配して、巌を毎日捜し歩きました。収容所の中を一人一人捜しても見つからず、似まで捜しに行っても見つかりませんでした。捜し始めて五日目くらいにやっと宇品町で見つかりました。陸軍船舶練習部にあった救護所の中を父が捜しに行ったら、頭に包帯を巻いてもらった弟が避難してきた人にバケツに入れたむすびを配って救援活動をしていたそうです。
 
●実家で目撃した惨状
私の実家は、峠を越えて最初にある家だったので、街から逃げてくる人たちが押し寄せ、足の踏み場もない状態でした。「水を飲ませてください」「ちょっと休ませてください」と、人が次々にやって来て、庭も座敷も見知らぬ人でいっぱいで、道路の方へ寝転んでいる人も大勢いました。座敷に横たわって大やけどした人が「痛いよ、痛いよ」と言っていて、それに付き添っている人、付き添いのない人もいました。まるで地獄のようでした。井戸の水をくみ上げるポンプが壊れてしまい、つるべでくんでから、水を飲ませたり、冷やしたりして大変でした。
 
避難してきた人たちは、行くところがなく逃げてきた人たちだったので、放り出すことはできませんでした。
 
やけどを負った母も、どこで寝ようかという状況でした。やけどした部分のあちこちがただれて汁が出ていました。包帯がないので、寝間着や古い着物、ぼろきれを割いてぐるぐる巻いていました。汚れて臭くなるので、包帯代わりのぼろきれを替える度、痛みを我慢しきれず母は泣いていました。父は母を看病したくても、他に大勢の人が助けを求めていて、つきっきりで看病することができませんでした。
 
原爆が落ちて何日かしてから、どんどんと救援が始まりました。段々と人が家から引き揚げるようになった頃、東練兵場に多くの遺体を集めて焼いていました。山の上の方で人が死んでいるという話を何度も聞いたので、それらの死体を集めてきて処理したのだろうと思います。
 
名前の分からない死体がたくさんあり、家族を捜しだせない人が沢山いました。娘を捜しに来ていた知り合いの女性は、私の実家に寄って「服の切れっ端でもええけん、残っとったらええのに」と悔やみながら帰っていきました。
 
●原爆症
私は被爆して二、三日後、原爆症が現れ生死をさまよいました。体には紫色の斑点が出始め、腕にできました。手と足、体の方にも出ていたような気がします。助けてもらいたかったので「見て、見て。こんなんになっとるんじゃ」と家族に言って見せました。特にかゆいとか痛いということはありませんでした。八月六日に歩いて帰ったのが悪かったのかな、と私は思いました。
 
家族は私が死ぬのではないかと思ったのか、皆が私の頭を膝にのせて座り、看護をしてくれました。嘔吐しそうになったときには、背中をさすってもらいました。一度診察に行こうと、父がむしろやござを敷いた大八車に私を乗せ、府中町の病院へ連れていってくれたことがあります。母は大やけどしていたのに気丈に付き添い、こうもり傘を私に差し掛け、大八車の後ろを押して一緒に来てくれました。
 
以後、府中町の病院へは何カ月も通いました。病院はいつも大勢の患者が並んで待っていたので、診察の順番はなかなか回って来ませんでした。治療として足にリンゲル液を打ってもらったところ、足が大きく腫れてしまいました。恐ろしくて家に帰ると家族に冷やしたりさすったりしてもらいました。
 
父は汽車(芸備線)に乗って三田より南にあった親戚(父・義夫の弟・信一の妻・アヤメの妹)の家まで、わざわざ梨をもらいに行ってくれたこともあります。食べるものがなく、その家が自分の家用に取り置きしていたものを頼んで三個分けてもらい、私に食べさせるために持ち帰ってくれました。こうして生きているのも皆にお世話してもらったからです。
 
当時はそれほど長くは生きられないだろうからと、夫の実家に預けていた嫁入り道具を私の実家に戻しました。嫁入りのためにあつらえた着物も一度も着ることなく、ほどいてもんぺにして着ていました。一張羅の良い着物も、もんぺにしてよそいきにしていました。
 
●終戦
実家でラジオの前に座り、天皇陛下が何か話をしているのを聞き、「ああ、日本は戦争に負けたのか」と知りました。この先どうなるかまではまだ考えませんでしたが、全く深刻なことはなく、残念というより良かったという感じでした。
 
終戦後、母のケロイドがひどくても、薬が無いため、道ばたのヨモギをもんで貼り付けたり、その汁が消毒になるからと塗ったり、つばをつけてはさすっていました。しかし母は我慢強く、独り言のように「痛いのう、痛いのう」と口にするくらいでした。私は原爆症で弱ったとき、家族に「早くさすってくれ、もんでくれ、冷やしてくれ」と文句ばかり言っていました。それでも母はケロイドで大変な痛みだったでしょうが、周囲に泣き言を言わず、本当に頑張っていました。
 
●夫の帰還
夫が戦地から戻ったのは昭和二二年ごろで、遅い引き揚げでした。どの船で戻るのかもどこへ着くのかも分かりませんでした。
 
引き揚げ船で、夫と大阪へ帰る人の二人が天然痘になり、山口県大津郡仙崎町(現在の長門市)の沖に船が着くとすぐに夫は仙崎町の病院へ収容されました。船には他に一〇〇〇人ほど乗っていましたが、天然痘に感染している可能性があり、病気が蔓延するのを防ぐため二週間ほど船から降ろしてもらえませんでした。付き添いの兵隊さんが手紙を書いて夫の収容先を知らせてくれたので、面会に行きました。その後、宇品町の病院に移動し、一週間ほど入院してから賀茂郡西条町(現在の東広島市)の国立療養所へ移り、何カ月か後に退院しました。
 
私たち夫婦は、夫が元気を取り戻すまで私の実家にいましたが、回復した後は愛宕町で接骨院を再開し、その二、三年後に東荒神町に移りました。
 
●その後の生活
東荒神町の引っ越し先は、あばら屋のようにボロボロの家でした。雨漏りがひどく、夫が何度直してもすぐに漏れていました。雨の日には雨漏りする場所に、私がバケツや雑巾を並べていました。
 
家を建て直してからは、夫が柔道整復師という国家資格を持っていましたので、一階で接骨院を営みながら、二階を道場にして柔道を教えていました。私は夫の仕事を手伝っていました。道場の教え子の中には、のちに全国的に有名になった西城秀樹も通っており、御対面番組やコンサートに招待してもらったことがあるなど思い出は尽きません。そんな夫も昭和六一年に七二歳で亡くなりました。その後は、接骨の資格を持っていた妹の里子が仕事を手伝ってくれました。接骨院は今も続いており、里子の娘夫婦が跡を継いでいます。
 
私は八五歳の時に心不全になりましたが、それまでは大きな病気にかかりませんでした。七〇代の頃までは町民運動会のリレーに年齢別の代表として活躍し、九〇歳になるまで白髪も生えていませんでした。
 
●平和について
八月六日は毎年必ず家族を連れて慰霊祭や灯籠流しに行っていましたが、ここ数年は体調がすぐれず行くことができません。
 
核兵器は本当に恐ろしい兵器です。核兵器を使うような日本や世界にはなってほしくありません。核兵器が無くなり、世界が皆豊かになるように助け合ってほしいです。 

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