原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町
女専講堂内(朝礼の時)
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
父 四六才で原爆死。出勤途上であったため、行方不明。骨もない。親戚であった原民喜は幸い生き残って「夏の花」を遺し、父は「大谷」の名でこの本の中に出て来て私達家族と再会を果した。
母 四二才 炊事場で窓ガラスの破片をあび、頭から血が吹き出す。その後、髪が大半抜けて危ぶまれたが、立ち直って八七才まで生きた。
弟 一五才 たまたま病欠で附属中学校を休んでいたため助かった。五〇才で肺腺癌のため死亡。
弟 一三才 疎開していて助かった。孤児になったと思いこんで広島駅に降り立ったのは八月半ば。現在は医師。
私 一六才 広島女専(宇品町)の講堂で、朝礼が終った途端に原爆。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
貧血にはじまって、変形性脊椎症や胃かいよう。坐骨神経痛(今、これに最もなやまされている)など人並みに体は痛んでいるが、致命的な病気でないから今生きている。忘れてならないのは、ひどい苦しみを受けた人の多くは物も言わず死んでしまったということ。その人たちを思いやる心の痛みの方が辛い。
もし、あのころテレビがあったなら、どんなにひどい事がこの地上で起ったかをうつし出していたなら、と思わずにはいられない。世の中少しは変っていたかも知れない。
個々人の体験記は、折角書かれながらも、ごく内輪の、つまりヒバク者や、その周辺の人、又は関心のある少数の人にしか読まれない。本当によんで欲しい。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
多くの人たちへの広がりに乏しく、もどかしい。国の積極的な教育もない。せめて原爆に関するあらゆる分野での選びぬかれた作品を、遺産として文化として、多くの人、特に若い人たちに見てほしい。
例えば新藤兼人の自主製作第一作の「原爆の子」など、もう一度、日の目をみるように上映されないものか。今なら歴史として若い人も観る気になりはしないか、と思っている。
又たとえば昭和四〇年に朝日新聞社から刊行された、なまなましい「原爆体験記」。(三六才の大江健三郎が、この本のために書下しエッセイを寄せている)今、もう一度刊行されたなら、手にとってみる人は多いのではないか。
東友会のリーダーの方々の働らきかけで実現したら嬉しい、と思っている。
|