原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町
暁(二九四〇部隊)船舶司令部
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
私は十九才の夏、宇品の船舶司令部に学徒動員中司令部の建物の中で被爆。自分自身は負傷しなかったが、その直後市内から続々運ばれて来る被爆者を、軍の医療チームと共に救護に当たり、その時、頭蓋骨は割れ、目がとび出し、やけどの皮膚はたれ下がった被爆者に只々息をのみ、体はふるえました。母や子の名前を呼びつゝ息絶える人が続き、充分な手当てをしてあげられない悔やしさ、申訳なさ、米軍の非道さに今も無念さは消えません。
其の後の被爆中心地の無惨な廃墟、空をつかんで倒れた無数の人。肉親の名を呼び倒れた人を確めてよろよろ歩く人。まさに地獄でした。今も太田川に浮かぶ人間とも思えないふくれ上がった被爆者、この方にも大切な人生があったはずです。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆直後、高熱と歯茎から出血や抜け毛におびえた日々があり、死を覚悟したが、田舎での療養のせいか体力回復。その後結婚(昭和二十一年)。二人の子供に恵まれたが、常に子供への被爆の影響に心配は人知れず続いた。
私自身、若い時期(三十代)白血球減少とも言われた時は、被爆の事実が重く心にかゝった。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
広島での被爆のまさに地獄としか言いようのない惨状のさ中に身をおいた者として、何の罪もない老若男女が、人間の尊厳を否定された死を迎え、一瞬のうちに人生を絶たれた無念の思いを、私達生き残った者が平和の大切さと、核兵器廃絶を被爆体験と共に伝えなければと思うのです。
「あやまちは繰り返さない」と、原爆犠牲者に誓ったのですから。
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