原爆投下時にいた場所と状況
広島市皆実町皆実小学校
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
「毎年の八月六日」は私にとっては感謝と誓い、即ちその年の出発の日としている。昭和二十年の当日、私は学徒兵として広島市内の兵舎にいて人類初の原爆の洗礼をうけた。
午前八時十五分、強烈な閃光と共に何千度という物凄い熱風が窓ガラスや瓦礫を吹き飛ばして家屋が倒壊し十万人の人がその下敷きとなり、やがて火災が加わり、史上にその例を見ない極めて残虐な大量殺りくが私の眼の前で行われた。当時私は一八才「戦争とはいえ何んてひどい事をするんだ」と自分の身体中の血が逆流する怒り、まさに怒髪天をつく思いであった。
爆風で皮膚が焼けただれ、たれさがり、ガラスの破片が突きささって血だらけの子供・婦人らが「兵隊さん助けて!」、「水を下さい!」かそぼい声で叫びながら私の目の前で幼い生命が、母親が次々と亡くなっていく……。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
私は倒壊した兵舎から必死に這い出し、かろうじて九死に一生を得たものの戦後十年の間、放射能による後遺症に悩まされたが幸い今は支障はない。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
核爆弾(核兵器)が大国の特権所有から中小国にまで所有、誇示されるこの頃、何らかの手違いからいつ又核戦争が始まるかもしれない。私は今日迄被爆体験者の貴重な一員として機会ある度に、体験を語り核戦争のむごさを話してきた。時が流れやがて被爆体験者が居なくなった時、誰が核の恐ろしさを世界の人に知らせ、平和の尊さを訴えるのだろうか。ようやく国連でも少しではあるが核兵器廃止運動が高まりつゝある事に希望をつなぎ乍ら、私は世界平和を願い生ある限り自分の体験を語り叫び続ける。 |