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広島で被爆した日系人家族 
福島 恒子(ふくしま つねこ) 
性別 女性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 大芝国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●はじめに
私は7歳のときに広島で被爆しました。一緒に暮らしていた両親、父方の祖父母、姉、妹、弟も被爆しました。

祖父はアメリカのハワイに開拓者として移住した後、戦前に帰国しました。父はハワイで生まれた日系二世です。父は幼少期をハワイで過ごした後、祖父母とともに広島に移り住みました。父はメカニックとしての技術を磨くため、戦前に再びアメリカで過ごした時期があり、アメリカの優れた点を知っていました。姉は、戦後、ハワイの男性と結婚しました。そして、私も、妹も、弟も、戦後はアメリカで暮らしました。

私は、令和元年(2019年)、大好きだった姉を広島で看取りました。原爆が投下されたとき18歳だった姉は、当時のことを鮮明に記憶しており、過酷な体験の多くを話しませんでしたが、父の苦労や自分の人生について、少しずつ私に語ってくれました。
 
●みなさんに伝えたいこと
今の世の中には、「hate ヘイト(憎しみや憎悪)」が多いと感じています。世界にはいろんな人がいて、さまざまな国や地域、歴史や文化の違いがありますが、異なる人種も、動物も協調しなくてはなりません。差別はいけません。

戦争をしていたアメリカと日本、2つの国で暮らした私たち家族の被爆体験を通じて、みなさんに平和の大切さについて考えていただきたいと思います。
 
●日系二世の父
私の父は、福島福市といいます。明治35年(1902年)に、ハワイで生まれました。日系二世です。福市の父、私の祖父である福島彦次郎は、開拓者としてハワイに移住しましたが、1930年代、世界大恐慌のころには、既に広島にいたようです。詳しい経緯は聞いていません。

父はさまざまな銅製品をつくる優秀なメカニックでした。大人になって再びアメリカに渡り、進んだ技術を身に着けて広島に帰ってきました。家には、分厚い英語の専門書があり、父がよく読んでいました。

姉から聞いた話ですが、父は、よく周囲の人たちに、アメリカの進んだ技術について話していたようです。また、父は、「アメリカは戦争をするつもりがなかった」ということも言っていたようです。詳しいことは分からないのですが、被爆直前、誰かからの密告により、父は憲兵に連れていかれ、投獄されていました。父は、投獄中、広島上空にB29が来るたびに、「アメリカさんのプレゼント」と言われながら、木刀でたたかれていたそうです。父は、黙々と仕事をし、一人でいることが多い人でした。こうしたつらい経験がそうさせたのかもしれません。
 
●被爆前後
私たち家族は、宇品に住んでいました。祖父・福島彦次郎は被爆当時73歳、祖母・福島ミズノは被爆当時68歳、父・福島福市は被爆当時43歳、母・義子は被爆当時36歳、11歳年上の姉・恵美子は被爆当時18歳、妹・幸枝は被爆当時4歳、弟・哲男は被爆当時3歳でした。父は、現在のカルビー株式会社の前身である松尾糧食工業所で機械の仕事をしていました。

日本の多くの都市が空襲されるようになり、軍港がある宇品は危ないことから、母、私と妹と弟の4人は、山県郡壬生町(現在の北広島町)に疎開していました。また、父が投獄されたことが周囲に知られ、祖父母と姉は宇品では暮らしにくかったようです。そこで、港から離れた楠木町四丁目に借家を借り、一家で暮らすことになりました。昭和20年(1945年)、原爆が広島に投下される直前のことです。大芝公園が目の前にありました。この体験記を書くために妹と歩いてみたのですが、現在の楠木町四丁目の1番街区、ステーキハウスがある辺りだと思います。

私は大芝国民学校に転校することになり、8月6日の朝、姉に手を引かれて、近くのお寺に登校しました。お寺の名前や場所は覚えていません。原爆が投下されたときは、まだ授業の前で、子どもたちはみんな外で遊んでいたのですが、私には初めての学校で、まだ友達もいないため、一人お寺の本堂の軒下にいました。原爆がさく裂したとき、外にいたみんなは「光った」と言っていました。私は、屋根のおかげで、やけどや大きなけがはありませんでしたが、爆風により本堂の中に飛ばされました。私は、泣きながら、すぐに自宅に帰りました。女性が赤いドレスを着ているのかと思ったら着物が血に染まっていたことや、ひん死の兵隊さんから水を求められるままに汚れた川の水をついだことを覚えています。

祖父は、横川の精米所で被爆しました。

父は、8月6日、裁判所に出廷することになっていて、自宅にいました。祖母、母、妹と弟も自宅で被爆しました。父は、家財を大芝公園に持ち出しましたが、自宅は全焼してしまいました。今も大芝公園にある大きな石碑「戦没記念碑」に、父がトタンをかけて仮小屋をつくり、家族はそこで2、3日を過ごしました。父は、出廷することになっていたことを心配し、弁護士を訪ねたところ、「このような状況だから帰りなさい」と言われたそうです。
 
●広島貯金支局で被爆した姉
私の姉・道面恵美子は優しく、しとやかで素敵な女性でした。被爆当時18歳、千田町にある広島貯金支局に勤めていました。

8月6日、姉は楠木町の自宅に帰ってきませんでした。翌日から、父と、弟を背負った母が市内を捜し歩きました。母は被爆直後の惨状をあまり語りませんでしたが、お腹がパンパンに膨れた馬が倒れたのを見たと言っていました。

数日後、父は、弟を連れて歩く母を気遣い、母には家で待つように言いました。そうして、ようやく、姉が似島にいることが分かりました。父は似島を訪ねましたが、姉はおらず、現在の広島市佐伯区湯来町に移されたことを聞きました。父は、自分の父親を捜す見知らぬ10歳ぐらいの男の子と出会い、一緒に湯来町を目指しました。すると、姉は佐伯郡八幡村(現在の広島市佐伯区)にいることが分かりました。父は、男の子と別れましたが、後々もその子のことを気にしていました。

姉は、広島貯金支局の3階で被爆しました。爆風で飛ばされ、階段の欄干に押し付けられ、さらに何人もの人がその上に覆いかぶさっていたそうです。やけどはありませんでしたが、腰を痛め、自分一人では動けない状態でした。救助に来た兵隊が負ぶって、欄干から降ろしてくれたそうです。姉は似島に送られました。似島では、B29がよく飛んできたようですが、姉は腰のけがのため避難することができず、死を覚悟していたそうです。

父は、どこからか大八車を借りて姉を乗せ、八幡から楠木町まで連れて帰りました。10キロメートル以上の道のりをごろごろと、腰を痛めていた姉にはとてもつらかったと思います。姉は、生涯腰の具合がよくありませんでした。

姉は、当時のことをあまり話しません。話をすると、フラッシュバックしてじんましんが出るのです。
 
●被爆後の暮らし
私たち家族は、大芝公園で何日かを過ごした後、近くの土手下にあった牛乳屋さんの建物を借りることになりました。原爆により鉄骨だけとなった建物でしたが、父が住めるようにしてくれました。穴を掘っただけのトイレで、のぞくのが怖いぐらいたくさんの血便が出ました。家族みんながそうでしたが、髪の毛は抜けませんでした。

私は、子どものころ、放射線の恐ろしさを知りませんでした。がれきの中の溶けたガラスで遊んだり、原爆ドームで雨宿りしたりしていました。

戦後は、大芝国民学校ではなく、三篠橋を渡って、幟町国民学校に通いました。

被爆から数年後、家族みんなで、基町に建てられた木造の市営住宅に移り住みました。父は、銅細工を生業とし、姉は洋裁で家族の暮らしを支えていました。
 
●姉の結婚、そして渡米
戦前、父が渡米した際、道面さんという方にとてもお世話になったそうです。ハワイにいた道面さんの息子さんが、朝鮮戦争のときに東京に来ました。そして、広島に父を訪ねてきたときに、姉を見初めたのです。昭和30年(1955年)、道面さんと姉は東京に所帯を持ち、後にハワイで暮らすことになりました。

私は、広島女学院中学に入学しましたが、高校生になると、姉がいるハワイに行くことになり、高校を中退し、手に職をつけるため三本松(現在の広島市安佐南区長束)にあった洋裁学校に入りました。そして、昭和35年(1960年)、私はハワイで姉夫婦と一緒の生活をスタートさせました。

私は、洋裁の技術を生かして、アロハシャツやムームーをつくっていました。勤務は1週間に5日。沖縄では1日360円、アメリカでは1時間360円と言われた時代です。アメリカはなんていい国なんだと思いました。
私は、カリフォルニアやニューヨークでも生活しました。日本食レストランのウエイトレスをしたときの収入がよかったです。チップをたくさんもらいました。

“I am a survivor of the atomic bomb”私が被爆者であることを周囲に話すと、とても驚かれましたが、“Tell me! Tell me!”と、誰もが興味深々で聴いてきました。私は、昭和55年(1980年)まで、アメリカで暮らしました。
妹と弟もアメリカで生活するようになりました。妹もウエイトレスとなり、働いたお金で家を建てました。

姉が暮らしたハワイでは、被爆者同士のつながりがありました。私も姉も広島県医師会が行った検診を受けたことがあります。

姉夫婦は2人で助け合い、ハワイで幸せに暮らしました。姉は、60歳の定年まで家具店に勤めた後、夫婦で旅行を楽しもうとした矢先、乳がん、大腸がん、尿管がんを患いました。姉夫婦に子供はいませんでした。平成26年(2014年)、姉の夫が亡くなり、ハワイに住む妹が世話をしていましたが、認知症の姉を支えるのは難しくなりました。そして、ハワイの高齢者施設に入所すると、1か月に100万円もの費用がかかると言われました。

そこで、私は、戦後に生まれた妹みどりと一緒に、姉を広島に呼ぶことにしました。また、私は、姉が被爆者への手当を受けることができるように役所での手続きなどに奔走しました。

妹みどりは、広島市南区本浦町にある両親の家の隣に夫婦で住み、両親を支えていました。みどりの夫は、原爆が投下されたとき、現在の広島県三次市に学童疎開していて、いわゆる原爆孤児となり、私たちの両親を実の親のように思ってくれていました。両親とも既に亡くなりましたが、原爆の症状はありませんでした。

姉は、晩年、広島の施設でおだやかに過ごしました。私や妹に、少しずつ、姉の思いや体験を話してくれました。姉は、令和元年(2019年)7月に亡くなりました。
 
●おわりに
父はアメリカで生まれ、アメリカで技術を学んだというだけで、日本で投獄されました。当時、2つの国が戦争をしていたからです。姉は、父がアメリカで築いた縁で生涯の伴侶を得て、幸せに暮らしました。私たち家族は、アメリカと日本の2つの国で暮らしました。それぞれの国の良さ、そして違いを知っています。暮らす国は違っても、絆の強さは変わりません。

世界中の誰もが、争うこともなく、差別もなく、仲良く、平和に暮らせるとよいと思います。
  

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