●被爆前の暮らし
私は、昭和2年(1927年)12月1日に生まれました。被爆した時は17歳でした。実家は、広島市西部の中広町で、両親と妹の家族4人で暮らしていました。
家族は以前、満州に移住していたことがあり、父・幸夫は、現地で伯父(父の兄で長男)と一緒に歯医者として働いていました。父は、薬が目に入って視力が落ちたため、帰国後は歯医者を続けることができなくなりましたが、母・光代がやりくり上手だったので、貧しい中でも三度のご飯は欠かさず出してくれていました。着る服も器用に手縫いで作ってくれ、不自由を感じたことはありませんでした。
私は3人姉妹のまん中で、長女・和子は結婚後、寺町にひとり娘と暮らしていました。姉の夫は出征しており、終戦後、無事帰国しました。末っ子の満枝は、満州で生まれました。
私は、生まれた直後に両親と一緒に満州に引っ越しました。小学校6年生くらいの時に帰国したのですが、満州での生活はあまり覚えていません。女学校に行きたかったのですが、勉強しなければならない大切な時期に、1カ月あまりかけて船で帰国し、その後もろくに勉強する時間が取れなくて、結局、女学校への進学は断念し三篠尋常高等小学校へ進むしか道がありませんでした。納得がいかなくて、何度も両親に不満を言ったほど残念でした。
●逓信局での勤務
三篠尋常高等小学校を卒業し、15歳か16歳くらいの時に試験を受けて、広島中央電話局で公衆電話の交換手として働き始めました。当時は、公衆電話をかけるのも、交換手を挟まないとできなかったのです。その後、基町にあった広島逓信局へ異動になり、そこでも交換手として働きました。逓信局宛の電話を部署に繋げたり、局内からの電話を外部に繋げたりしていました。勤務時間は朝8時から17時までで、お給金は全額親に渡していました。
逓信局での勤務部署は、経理部庶務課の庁舎係で、局の2階に職場がありました。
●8月6日のこと
8月5日の夜は、警報が何度も出て睡眠時間が十分とれませんでした。それが原因で、8月6日の朝、寝坊してしまいました。8時に出勤すべきところ、遅刻して8時14分に逓信局2階の職場に到着すると、同僚たちが「敵機が来よる」とざわめきだしていました。自分の机の椅子に座るやいなや、職場が強烈な光で満たされ、左のおなかのあたりが急に熱くなったことを鮮明に覚えています。自分の机から左側に5メートルほど離れたところに、南東向きの窓がありました。熱いと感じた時には、私は既に椅子から落ちて、床に倒れていました。
幸い自分にけがはありませんでした。廊下に飛び出すと、湯のみ洗いに行っていた他の部署の女性が倒れていて、既に意識はなさそうでした。その時の自分は逃げるので精一杯で、彼女を助けることはできませんでした。
まず3階に駆け上ると、窓からの景色が変わっていました。横川方面を一面に見渡すことができたのです。普段は手前の建物の裏に隠れている横川駅の屋根も見えていて、中広町の実家はどうなっているのだろうと不安になりました。
日々の訓練で、非常時には中庭の真ん中に掘られた防空壕へ逃げるようにと指導を受けていたことを思い出し、同じ課に勤める、1歳年下の女性Aさんと一緒に中庭へ下りました。そこから逓信局の建物を見上げると、東京から出張で来ていた男の人が屋上から助けを求めて手を振っていました。気の毒なことに、身を乗り出しすぎた彼は、滑って屋上から落ちて亡くなったのです。その光景が目に焼き付いて、今でも離れません。
その後防空壕にいた人に「飛行機がまた来るからここにいてはダメだ!」と言われたので、Aさんと一緒に逓信局の近くの、大きな庭で有名な縮景園へと避難しました。川べりのあたりでひと息ついていると、兵隊が来て「川を渡って二葉の里へ逃げろ」と言いました。それで、川に入ったのですが、Aさんは泳げないのです。困っていると、知らない男の人が桶を渡してくれました。まず彼女が桶につかまり、私がその桶を引っ張って対岸まで渡りました。
やっとのことで二葉山へ登ったところで、また兵隊が来て「ここにいると敵機がまた爆弾を落としにやって来るかもしれないので、家に帰るように」と言われました。
それで、常葉橋を西に向かって渡ろうと半分ほど過ぎたところで、別の兵隊に「ここから先には行けない」と言われたので、まず横川駅を目指し、何度も川を泳いで渡りながら進みました。当時、広島は7つも川が流れていて、橋が渡れないとなると、泳ぐしかありません。泳げないAさんを連れての道中は、大変でした。
黒い雨には、川を泳いでいる最中に遭いました。自分には原爆症の症状はほとんど出なかったのですが、放射能が川の水で洗い流されたからではないかと思っています。
こうして、実家を目指して川沿いの被害が少ないところを主に歩いていましたので、街の悲惨な状況はあまり見なくてすみました。
横川町を通り過ぎ、打越町を通っている時に知り合いのおばさんに会いました。おばさんは「照ちゃん、元気じゃったか。すぐに家に帰りんさい。」と言ってくれました。
夕方前には中広町の実家に着きました。避難した道筋は家が建て込んでいなかったことと、避難していた最中は延焼がまだ少ない時間帯だったので、比較的早く家にたどり着くことができました。通常なら歩いて30分で通っていた道のりでしたが、この日は何倍もかかりました。
私が実家に着いた時、家は燃えてはいませんでしたが、ぺしゃんこになっていました。しかし、家族は全員無事だったのです。当時、国民学校3年生くらいだった妹は、近くの塾で勉強していた最中に被爆したとのことですが、頭にコブができた程度のけがで済みました。寺町に住んでいた姉とその娘も、爆風で吹き飛ばされたそうですが、2人とも元気で、私が帰宅した後に実家にやって来ました。爆心地から1~1.5キロ以内にいたにもかかわらず、家族全員が助かったのはとても幸運でした。
当時まだ若かった父は、すかさず川の土手にトタンなどを使って仮小屋を建ててくれました。その後は、実家のあった場所に新しい家を建てて、しばらく一家全員そこで暮らしました。
中広町まで一緒に避難したAさんは、実家のある宇品町の被害がそこまで大きくないことがわかったので帰って行きました。彼女は結婚を機に、パラグァイへ移民しました。渡航の際に挨拶に来てくれたのですが、彼女とはそれっきりになってしまいました。
●その後の生活
被爆後すぐに黒い便が一週間ほど続きましたが、程なく元気になりました。それ以降大きな病気にかからなかったので、もしかすると毒が便として出たのかもしれないと思いました。
終戦を迎えた時、ショックと悲しさで涙が出ました。しかし空襲の頻度が増し、原爆投下前に呉の大空襲も聞いていたので、広島にもいつ爆弾が落とされてもおかしくないと思っていました。そして原爆が投下された時は「日本は負けたね」と直感しました。
8月の終わり頃、近所に住む逓信局勤めの男性が私を訪ねて来て「照ちゃん、死んだと思ってたよ。元気になったんなら仕事に復帰してくれんかいね」と言われました。母からも「交換手は大事な仕事じゃけ行きんさい」と言われ、早速、勤めを再開しました。結局、逓信局は定年まで勤めました。
20歳くらいの時、逓信局に勤める男性と結婚しました。被爆したことで差別されたと感じたことはあまりありませんでしたが、子どもができなかったのは、横腹に原爆の光を浴びたせいかとも思います。
●戦争について
8月6日の式典へは出席したことがありません。式典のテレビ中継が流れると、思わず消してしまいます。家で静かに仏様に拝むことで、原爆で亡くなった方々の供養をすることにしています。
これからの若い人たちには、戦争や空襲が一体どんなことなのか理解することができないかもしれません。しかし、一旦戦争が始まると、それはもう大変なことになるということを知ってほしいです。とにかく戦争だけはやってはいけない、それを伝えたいと思っています。 |