▼「赤い金魚」
真っ黒に染まった空を赤い金魚が泳いでゆく。
そんな不思議な夢を何度みただろうか。
一九四五年八月六日。目に焼き付いた異様な空と、黒い雨が影響しているに違いない。
当時、私は小学六年生(十一歳)。広島市の山間に疎開していた。生まれつき足に障害があり、二、三年生からコルセットをはめていた。そのため、遠方の山奥に集団疎開した同級生について行くことができず、ひとり親戚宅に縁故疎開していた。
八月六日は夏休みで疎開先の親戚宅にいた。
「ピカ、パッチン」。
八時一五分、茅葺きの家屋の中にまで閃光が走り広がった。間髪を入れず突風に襲われ、障子も襖も吹っ飛び、家は揺れ続け、畳にうずくまった。揺れがおさまり、庭に出て見上げた空には見たこともない不思議な雲が現れ、広がってゆく。空は次第に薄暗くなっていた。
「はよう、中に入りんさい!」
裏山に掘った防空壕に逃げ込んだ大人たちからは、そう叫び続けられた。
にもかかわらず、私と叔母の二人だけは、庭から空を見上げたままだった。
「雲」は空いっぱいに広がり、うねるように広がっていく。
私を呼ぶ大人の怒鳴り声などは耳に入らなかった。
小さい頃から近隣で火事だと聞くと、走って見に行くような好奇心が強かった私。
燃え上がる火の手に歓声をあげるたびに、周囲の大人に叱られたのを覚えている。
そんな私にとって、あの日、目の前に広がる光景は見たこともない「綺麗」な光景だった
しばらくすると、焼け焦げた多くのチラシ、書類などが空から降ってきた。
手に取った大人が「江波と読める」「こっちは紙屋町」「これは広島駅じゃね」と言い合う
私はそこかしこを走り回り、そんな紙を一つずつ集めてまわっていた。
どのくらい経っただろうか。突然、空が暗くなり、雨が降ってきた。手のひらで受けた大粒の滴は、どす黒い色をしていた。物珍しさに心を躍らせた私。雨の中、この正体が何か分からないまま、近くの畑を走り回り、全身に浴びた。
雨が急にやむと、空の一点が鮮やかな赤色に染まり、それが次第に広がっていった。
気がつくと、油のように粘り気があった雨が髪にべっとりと付いていた。
風呂につれていかれ、洗い落とそうとしたが、なかなかとれない。こっぴどく怒られた。それが原爆投下による爆風で巻き上げられた粉塵とともに、強い放射能を帯びて降った、後に「黒い雨」と呼ばれる恐ろしい雨などとは、誰も思わなかった。
▼優しかった兄
兄の縄岡英雄は当時、旧制の中学生。草津の自宅から学校に通い、八月六日は学徒動員で建物疎開の作業に出ていた。物腰が柔らかく、性格は私と真反対。わがままな私にいつも優しい兄だった。戦時下、あらゆる物が不足しており、ノートや鉛筆も手に入らない。そんな中、勤労奉仕先で紙を拾って帰ると、その半分を、疎開先と自宅を頻繁に往復していた私にそっと分けてくれた。跳ねっ返りの私に家族は厳しくあたったが、兄だけは違った。足が不自由だった私に「千代子はかわいそうだから」と、ことあるごとに気にかけてくれた。
その兄が家族の中で唯一、直接被爆で命を落とした。
戦後、生き残った人から聞いた話しによると、兄は六日朝、爆心地近くの市役所周辺で建物疎開の作業をしていた。一瞬にして火の海になった市内。「付いてこれるものは付いてこい!」と声をかけた教師の背を追い、焼けただれた体を引きずりながらも、比治山まではなんとかたどり着いたという。だが、山頂に向かう道の途中、山腹にかかる橋の下で息絶えた。
父は焼け野原となった街をリヤカーをひいて歩き、兄を探した。だが、日没で探しきれず、いったん自宅に戻った。翌七日、あらためて向かった比治山で見つけた時には、息をひきとっていた。全身を焼かれた兄は最期まで水を求めていたのだろう。損傷がひどく、すぐには我が子と確証がもてないまま、他の骸とともにその場で荼毘に付されたのを見届けた父は、焦げたシャツと、手の部分だけ焦げていないベルトを持ち帰り、家族に確認してもらった。
遺品となった焼け焦げたシャツ、ベルトは、戦後しばらく一斗缶に入れてあった。私がいたずらをする度に、母が戒めるようにそれを出して見せた。「お兄さんはこうやって亡くなったんよ」と泣きながら何回見せられたことか。それが今はない。「放射能は何年たっても危ない」と聞き、捨てたのだろうか。それでも兄の記憶は年を経ても消えることはない。
▼地獄絵
あの日、原爆投下後の異様な空を私と一緒に見上げていた叔母は、しばらくして嘔吐を繰り返すなど、原爆症の症状が続いたという。そして、その後、原爆については一切、口を閉ざしてしまった。つらいことは忘れた方がいい。そう考えたのだろうか。その叔母が晩年、認知症を患ってから奇行を繰り返し、周囲を困らせたと聞いている。真っ赤な夕焼けを見る度に「ピカドンじゃ、はよう逃げよう。連れて逃げてくれ!」と叫び、暴れたという。自宅でも高齢者施設でも。心の底に抑え込んでいた記憶が蘇り、地獄が戻ってきたに違いない。
地獄絵は私も何度も目の当たりにした。被爆直後、帰宅した草津の実家は障子、ガラスなどのすべてが爆風で吹き飛ばされていた。近くの小学校には、逃げてきた瀕死の被爆者がところ狭しと並べられていた。満足な治療も受けられず、たった一人で息をひきとる幼い子をはじめ、次々と人が亡くなる凄惨な風景がそこにあった。さらに、その骸を校庭の片隅にあった倉庫内で切り刻んで調べているような風景を目することさえあった。
▼憤り
八月一五日、家族とともに正座をしてラジオの玉音放送を聞いたが、雑音ばかりで内容はよく分からなかった。周囲の大人から「戦争が終わった」とだけ聞かされた時、「なぜ、もっと早く終わらせることができなかったのか」と思ったことを覚えている。
海外には「多くの人の命を救うため、戦争を早く終わらせるために原爆は必要だった」という見方が今もある。だが、これには激しい怒りを感じる。当時、日本は戦力・戦意を失い、事実上の降伏状態。なぜ、原爆を落とし、罪なき多くの市民を地獄に陥れる必要があったのだろうか。「だめ押し」の一撃というのは後付けの理由であり、本音は核実験をしたかったのではないだろうか。放射能の威力を試したかったのだろう。私たちはその犠牲になった。実験材料にさせられた。そして、世界は核実験の口火を切ってしまった。
戦後、原子爆弾による傷害の実態を調査記録するためだとして、原爆傷害調査委員会(ABCC、一九七五年四月に発足した放射線影響研究所の前身)が発足。一九五〇年には比治山の山頂に拠点が設けられた。その活動は被爆者を支えるように見せかけたが、実は被爆者をつらい目にあわせ続けた。私が洋裁の仕事をしていた時のこと。友人の女性がどれだけ拒否してもABCCが職場にまで踏み込み、ジープに乗せて連れて行く光景を何度も見た。ケロイドを見せても治療はいっさいしない。検査だけ。強制的に衣服を脱がせ、辱めを受けるだけだと泣いていた。戦争が終わっても、日本人はモルモットにされ続けていると痛感した。
▼消えぬ傷、終わらぬ痛み
私自身もそうだが、被爆者であること、そして、その体験を語ろうとしない人は少なくない。山歩きの同好会で知り合った友人もその一人だった。その彼女が、私も被爆者だと知ったことをきっかけに、ケロイドを見せながら、壮絶な日々を語り始めた。
私よりひとまわり年上の彼女はあの日、広島駅から市内にある会社に向かう途中、背後から閃光を浴び、吹き飛ばされたという。気を失い、どのくらいその場に倒れていたか覚えていない。うつ伏せに倒れ込んだことで、顔などに大きな傷はなかったが、背面には重い火傷を負った。意識が戻っても動けず、二晩くらいはそのままの姿勢だったという。絶望の淵にあった時、通りすがりの男の子が壊れた茶碗のかけらに水をすくい、飲ませてくれた。まさに「命の水」。これで元気が出たという。その後、市内を探し回っていた兄に助けられたが、引き取られた家では温かい介抱や治療を受けることはできなかった。歯を食いしばって一人で立ち上がり、兄の家を出て、知り合いに身を寄せた。その後、何度か手術を受け、働けるまでに回復したが、指や肩、背中には多くのケロイドが残ったままだった。職場に憧れの男性はいた。だが、結婚を望むことはできず、最期はガンを患い、ひとり生涯をとじた。
もう一人は、俳句の会で知り合った友人だ。
誰にも自分が被爆者という事実を語らなかったが、ある時、ふっと、私に語り始めた。被爆した際の状況は話さなかった。だが、一人逃げ惑う中、気がつくと、傷ついた見ず知らずの幼い女の子が自分の手をつかんでいたという。一緒に連れて逃げてくれといわんばかりの眼差しだった。いったんは一緒に歩き出したものの、この子を連れていては逃げられない。足手まといになる。そんな思いから、必死に手を払おうとした。が、なかなか離してくれない。それでも、なんとか振り払い、一人、歩き始めた。決して後ろをふり向かず。その子がその後、どうなったかは分からない。年月を経ても、あの時のことが心から離れない、しこりのように残っている記憶だと彼女は打ち明けた。「仕方なかったね」と一緒に泣いたのを覚えている。過去を吐露したことで彼女は少し、安らいだのかもしれない。ただ、彼女はその後も被爆について語ることはなく、関連する俳句を一首も作らなかった。一生、心に重荷を背負い続ける覚悟だったのだろう。
筆舌に尽くし難いつらい過去を聞いても、深い傷を負った心の奥底までは分からない。それでも、彼女らの悲しさ、憤り、怒りを、いつか、何らかの形で表現したいと考えていた。
▼伝えるということ
自らの被爆体験を含め、言葉や文字にして伝えることを考えたことはある。だが、つらい記憶を呼び戻すのが、どうしても耐えられなかった。さらに自分が被爆者だという不安も強く、口に出したくなかった。結婚する際も嘘をついた。県外出身の夫の母から「広島生まれなら原爆と関係があるのではないか」と疑われたからだ。夫は「広島に住んでいるすべての人が被爆者ではない」と言い切ってみせた。国から「被爆者健康手帳」を交付され、医療が無料になると、今後は周囲から「被爆者は特権階級だ」と冷たい目で見られた。
▼俳句と短歌に込めた思い
育児が一段落した後、ふとしたきっかけから人に誘われ俳句、短歌を詠むようになった。
そして、被爆にかかわる作品も手がけるようになった。
いつか、なんらかの形で被爆体験を伝えたいと心の底では思っていたのだろう。ただ、直裁的な表現を発するのは嫌だった。他人から根掘り葉掘り体験を聞かれるのは、もっと嫌だ。だが、俳句、短歌はそうではない。あからさまな言葉でなく、他人から悲惨な被爆体験を無理矢理、聞き出されることもない。さまざまな俳句、短歌を詠んだ。いくつか賞をいただいたのは平和を願う力が背を押したからだろう。「日本の平和は過去の多くの犠牲の上に成り立っている。さらにこの地上では今なお、どこかで戦争が続いている。若い人はそれを他人事とすることなく、自分の事と感じてほしい」。受賞式の挨拶でそう語りかけたこともある。
毎年、八月はもちろん、ことあるごとに、兄が亡くなった比治山、原爆ドーム、平和公園を歩きながら、あの日、あの時に思いをめぐらせながら、俳句、短歌を詠んだ。
八月六日には、原爆に倒れた兄を思い、平和公園内にある動員学徒慰霊塔の前で行われる追悼式典に参列した。周囲は当初、見るからに子を亡くした親、親戚といった人が多かった。だが、時が経つにつれ、腰が曲がり、歩くのもやっとという人が増え、時の移ろいを感じるようになった。原爆が投下された八時一五分、原爆ドームの足元では平和記念式典で打ち鳴らされる「平和の鐘」を合図に一分間、地面に横たわる「ダイ・イン」が行われる。私も息子とともに何度か参加した。静寂の中、聞こえてくるのは鐘の音と蝉の声だけ。急に地面に伏した母を心配に思ったのだろうか。傍らの少女が「お母さん、お母さん、起きて」と呼ぶ声が耳に入ったことがある。まるで、あの日、この場所で起こったであろう光景のように。ここに倒れ、亡くなった多くの被爆者に思いを馳せ、反戦の誓いをあらたにした。
■日の登るまでの静けさ原爆忌
第三一回平和記念俳句大会(広島市長賞/一九九五年)
■炎天や白髪植ゆる遺族席
第三四回平和記念俳句大会(平和記念賞/一九九八年)
■ダイインをせし爆心に降る木の実
第三七回列島縦断俳句スペシャル 全国九十九選(NHK、俳句王国平成二〇年放映)
■うつ伏してダイインしたる目の前を蟻が曳きゆく蟻の骸を
第四二回広島市短詩型文芸大会〈短歌、広島市長賞/一九九二年〉
■ダイインに臥す身を抜けてゆく五感地の中ふかき声にひかれて
第四〇回広島市短詩型文芸大会〈短歌、中国新聞社賞/一九九〇年〉
■「お母さん起きて」女の子の声すドームの陰に母はダイイン
■ダイインの土にしみ入る蝉のこゑ
翌八月七日。毎年、決まってこの日は母と二人、比治山の橋の下にここで息絶えた兄を訪ね、手を合わせ泣いた。体は焼けただれ、最期まで水を求めたであろう兄を思い、母は亡くなるまで、お茶を一滴も口にしなかった。その姿が忘れられない。
■約束をしているように逢にゆく八月六日の原爆記念日
■起きてすぐのむ慣わしの一杯の水をためらう原爆記念日
広島平和公園を歩くと「原爆の子の像」に出会う。被爆後、白血病により一二歳で亡くなった佐々木禎子さんをモデルにしたこの像は、成長することなく、永久に同じ姿でそこに立ったままだ。時間がとまり、その三つ編みは永久に解けない。そこで人生が止まっている。一方、平和公園をはじめ、全国のそこかしこには、被爆体験を若い世代に語り継ごうとする「語り部」の姿がある。彼ら、彼女らには、伝えることへの強い決意が感じられる。その姿は、自らも重い原爆体験を背負い続けているようにも見え、俳句を詠んだ。
■炎天や三つ編みとけぬ被爆像
(第一六回ヒロシマ平和祈念俳句大会広島市教育委員会賞/二〇〇七年)
■語り部のゆるむことなき夏の帯
(第二六回原爆忌東京俳句大会第五福竜丸平和協会賞/一九九五年)
原爆ドーム前を流れる元安川では八月六日夕、被爆者への鎮魂と平和への願いを込めて「灯籠流し」が行われる。無数の灯が水面を照らす。先を争わず、立ち止まることなく、そうありたいという願いを灯籠に託す。穏やかに生きたいという祈りであるとともに、被爆者にとってはそれでもなお、流され生きてゆくしかないと思いとも重なっている。
■おくれがちに爆心の川面流れゆくひとつ灯籠母かもしれぬ
(第三九回広島市短詩型文芸大会 短歌、中国新聞社賞/一九八九年〉
■流灯の先争わずとどまらず
息子が独り立ちした後、参加した山歩きの会で出会った友人は、髪を洗うたびに指に残ったケロイドから被爆体験を思い出してしまうと語っていた。同じように、手にケロイドを負った、ろうあ者の被爆体験に接することがあった。保育士をしていた時、手話を学んだのがきっかけだった。手話で原爆の悲惨さを伝えるのは簡単ではない。被爆、障害という二重の苦難を負いながらも、手話で自らの体験が伝わったことを喜んだ姿が印象的だった。
■ケロイドの汗をかかない手をつなぐ
(第一八回ヒロシマ平和祈念俳句大会広島県知事賞/二〇〇九年)
■ケロイドの手をいとほしみ髪洗う
■ケロイドの手話もて語る原爆忌
■縁蔭の手話もて語る爆心地
(第三三回原爆忌全国俳句大会大会賞)
▼むなしさ、もどかしさ
原爆を詠んだ俳句、短歌は数え切れない。機会を見つけては投稿し、多くの人の目に触れる賞をもらったこともある。しかし、何も変わらない。伝えても、伝えても、世界から核兵器はなくならない。次第に「私が伝えて何になるというのか」という思いにかられるようになった。むなしさばかりがつのった。
■炎天を来て被爆図の真っ暗がり
(第三四回原爆忌全国俳句大会大会賞/二〇〇〇年)
この句はその心を表現した一つだ。八月六日と同じように強い日が照っている平和公園内を歩き、平和記念資料館に入ると暗がりに被爆絵が掲げてあることが分かる。だが、すぐには暗がりに目が慣れず、そこにあるはずのものが、なかなか見えない。原爆の悲惨さも同じ。なかなか真実が伝わらない。そんな思いを込めた。
■わが影を隠す日傘のまるい影 原爆ドームの影に消えゆく
(広島東照宮の玉垣「被爆五〇周年にあたり五〇首を刻む」)/一九九五年
もう一つ、平和運動の「むなしさ」を感じ、詠んだのが、この短歌だ。
強い日差しのもと、さした傘は自分の影を消してしまう。その傘の丸い影でさえも、原爆ドームに近づくと、すべて飲み込まれてしまう。まるで、時が経てば、被爆者は原爆ドームの影にかき消されてしまうように。被爆者である私の影も、いつか消えるだろう。どんなに核廃絶を訴えようとも、核抑止力が必要だと声高に叫ぶ大きな力にかき消されてしまう。結局は人が人を滅ぼしてしまう。そんな思いを込めた。
■八月の平和の祈念式典が記念式典に変わりしは何時
(二〇〇四年度NHK全国短歌大会〈入選〉
■火の匂ひして八月の石畳
(第一九回ヒロシマ平和祈念俳句大会秀逸賞/二〇一〇年)
■はばたいて翔び立つ空はいまはなく千羽鶴には千の退屈
▼病の連続、そして今
山歩きに加え、旅が好きで、車を運転して全国をめぐったこともある。傍目には元気そうに見えただろうが、健康に不安がなかった訳ではない。長く喘息に苦しみ、白内障の手術を受け、指の筋が切れていると言われたり、子宮ガンを疑われたりしたこともある。その度に、かつて黒い雨を浴びた影響を考えた。股関節の一部が黒く壊死していると診断された際には、複数の医者に診てもらったが、原因は分からなかった。私が被爆者を告げると、執拗に繰り返し検査・手術を求めることに違和感を感じ、結局、治療は拒否した。戦後、多くの被爆者が満足な治療を受けることなく、研究対象として検査された姿を見続けてきたことが影響したのだろう。それでも大きな手術をすることもなく、なんとか生きてこれた。
昨年末、右肺にガンが見つかった。
高齢で体力的にも手術や抗がん剤治療には耐えられない。周囲には放射線治療を勧められたが、私は強く拒んだ。治療について詳しいことは分からないが、副作用の懸念に加え、「放射線治療」という言葉に被爆者を苦しめ続ける「放射能」の響きが重なって聞こえ、どうしても受け入れられなかった。今さら「放射能」で生き延びたいとは思わない。最期は穏やかに迎えたい。痛みを和らげながら有意義に時を過ごす「緩和ケア」を受ける道を選んだ。
そして、心境が変化し、封印していた被爆から現在にいたる体験を語ることにした。
先が見えたからだろう。さらに二〇二〇年春、三年ぶりに俳句と短歌を詠んだ。
■原爆ドームの空に向かいてオカリナを吹く平和の歌を
■オカリナを吹くあの日の空へ原爆忌
ここ数年は八月六日になると、平和記念式典にあわせ、電動車椅子に座って約一七キロ離れた原爆ドームの空に向かってオカリナで「ひろしま平和の歌」を吹く。原爆死没者、そして、生き延びたにもかかわらず消えることのないケロイドや、心に突き刺さった痛みに苦しんだり、屈辱を受けながらも生きていかざるを得なかった多くの被爆者に思いをはせながら。どんなに憤っても、手を伸ばしても安寧には届かないかもしれない。「それでもなお、平和を願う」という思いを込めて、俳句と短歌を詠んだ。これが最後になるだろう。
こうした私の思い、被爆体験の継承を息子の縄岡正英に託そうと考えている。
二〇二〇年六月、広島市可部にて 縄岡千代子 八六歳
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▼以下は過去、被爆を題材に詠んだ主な俳句と短歌
原爆忌雲真っ白になりきれず
炎天や何つかまんと被爆像
原爆忌河口で変わる湖(うみ)の色
白シャツはあの日のままに遺影の子
原爆のドームを抜けて蟻の列
つまづくは罠かもしれず原爆忌
消しゴムで消す一行詩原爆忌
消壺のひび縦横に原爆忌
雲の峰原爆ドームふところに
雲の峰原爆ドームがらんどう
手にのせて豆腐ひやりと原爆忌
遊船の大きく傾く被爆川
ヒロシマ忌終の電車の軋む音
灯籠の流れを海へ原爆忌
爆心の片陰に身を入れにけり
原爆忌立つ茶柱をいかにせん
今もなお原爆ドーム火の匂い
夕焼に怯える叔母の原爆忌
慰霊碑に来て熱風になりにけり
雪ぼたる被爆ドームに見失う
噴水の伏して被爆の空深し
計られぬ被爆ドームの木下闇
七桁の被爆番号夏遍路
ひろしまの八月の色空の色
ふり向いて被爆の川を去る真鴨
だしぬけに鳴る鳩時計敗戦忌
ヒロシマの片陰に身を寄せあへり
語ること語れないこと原爆忌
生きときし証の痛み原爆忌
ダイインをせし爆心の霜柱
先頭の真鴨ふり向く被爆川
爆心の岸を離れぬ散り紅葉
抽出の被爆者手帳雪催
原爆ドームに降りし星の数
原爆ドームまた塗り直す敗戦忌
被爆絵の虚ろな視線雪催
子を抱く原爆の像木の実降る
八月や語れぬ思い今になお
鉄板を走るバターや原爆忌
被爆の碑目指し銀河の流れ込む
被爆絵の前に置かれし夏火鉢
夕焼の原爆ドームまで二キロ
慰霊碑に吹き熱風となりにけり
呼ぶ声のもはや届かず原爆忌
被爆川また組み直す花筏(いかだ)
碑の影の手話もて語る原爆忌
足音のひそかに去りし原爆忌
車椅子もはやここまで原爆忌
原爆を語らずじまい走馬灯
雲の峰いくつくずれてきのこ雲
噴水の消えたり八時十五分
後もどり出来ぬこの道原爆忌
被爆地を鳴くになけない蚯蚓鳴く
炎昼やはたと風死す爆心地
十年を通す遺影や原爆忌
世界へとはばたくドーム原爆忌
原爆のドームを支え草萌ゆる
次の世へ遺すドームや雲の峰
(上記、三作ともに「原爆ドーム・厳島神社世界遺産登録記念俳句の作品特集号収録」
(広島俳句協会/平成八年)
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原爆のドームを見上げアフガンの空爆に怯える人らと空分かち合う
ウオーキングマシンの動きに歩かされ どこにもたどりつけない原爆記念日
おくれがちに爆心の川面を流れゆくひとつ灯籠母かもしれず
広島の街を呆けてさまよう叔母その手にひかれゆく爆死せし子ら
手遅れの癌にて逝きしわが母は被爆検診一度も欠かさず
被爆図の炎の中に母を呼ぶ声ひろしまの街は白く乾きて
ひろしまの川辺は平和の祈年祭ドラムを叩き流燈を煽る
流燈の川辺は平和の祈年祭何を煽りてドラムを叩く
被爆樹の青銅が曳く濃き影はいつしか伸びて地に横たわる
被爆せしわれを見下ろす八月の満点の星よ語り部となれ
原爆のドームはライトに浮きあがり闇の深みは計りきれない
八月の闇の深みより浮きあがりライトに照らさるる原爆ドーム
八月六日水を欲る兄の声きこえ深層水のペットボトルを
何処より来て原爆の碑にとまる喪章のようにとうすみ蜻蛉
八月の喪の一重帯締めて立つ川のほとりにいまも語り部
原爆被爆者特権階級と言われても歌いつづけるわれはすなおに
ケロイドの瞼に覆うアイマスク薔薇の花柄模様灯に浮く
骨だけが晒されている原爆ドーム窓に影立てる冷房のビル
核実験に抗議するダイ・インの若者を跨いで広場を急ぎゆく人
爆死させられし人間をおおよその数字に括られて五十年過ぐ
原爆に死にたる兄の葬祭金五十年経ていま申請する吾
被爆者という語はいつか死語にならん若き人つどう平和公園
申請書にわれの氏名に書き添うる被爆者番号五二六九〇〇
鉄柵に隔てられいる被爆ドーム孤独にて夕茜雲ひろがる
「あやまちはくり返しません」と刻まれし碑の前くり返す核実験は
ダイ・インする少女の髪にとまりし黄蝶はドームの影へと舞いゆく
原爆の黒い雨降りしこの街も雪降れば雪の清き鎮もり
遺族捜す死没者の名が貼られいる被爆より五十二年過ぎたる壁
八月の炎昼にひかる母子像の母は影となり子を胸に抱く
パンの耳黒く焦げしまま皿に置く八月六日の朝の食卓
冷房に冷えている原爆資料館案内していて手に汗滲む
ハシモト帰れの喚声だけがからっぽのドームに反響する今日の式典
(※当時、平和祈念式典に招かれた首相は橋本龍太郎氏)
式典の儀礼は滞りなくつづく目立つ空席には爆死者の影が
仰向けの蝉が足をもがきおり平和式典へ急ぐ公園の道
式典終わり透明な雨に濡れ帰るあの日の黒い雨を浴びし身
きらきらと照る八月の陽に眩みたり被爆ドームに近寄り過ぎて
夏草はほどよき高さに刈られいる原爆ドームの鉄柵の中
噴水は精一杯に立ち上がる八月の空をつかまんとして
八月の雲は鎮魂の姿して比治山に湧き天へと昇る
八月六日常のごと飲む火の色の錠剤二錠喉につかえる
黒い雨と知らずにわれの受けし手に今朝降る雨は酸性の雨
めぐり来し哀しい記憶八月の炎をほおり投ぐる夕焼
被爆せしことを語らずひろしまの街のはずれに友は逝きたり
八月六日動物園の鉄柵を信じてライオンの前に来て立つ
あやまちは繰り返されるあやまちは繰り返しません被爆の祈り
届きたる原爆健康管理証書終身という黒き刻印
天も地も灼くるこの道さまよいて出口を探す原爆の夢
夕焼けに染まりし雲の一片が原爆の鳥となり翼ひろぐる
原爆ドームの暗き影のなか耳鳴りに聴く死者の叫びを
原爆を生き来し青桐その影に樹霊を浴びて一歩踏み出す
八月の記憶を夜空に押し開く花火は万の雫をこぼし
平和とう公園に立つ被爆樹の幹の深傷色に濡れ
八月の風は河口で吹きかわるざわざわ潮の押し寄せる川
夕焼くる空に佇み鳩笛を吹く身の内にほどけぬ呪縛
消えそうな灯を抱き揺るる灯籠は被爆の川の橋をくぐれり
連なりて流るる灯籠火を噴いて川面の闇にまたひとつ消ゆ
公園の花時計は八時十五分わが持ち時間はあと幾ばかり
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