●被爆前の生活
昭和20年、被爆した当時は、父の藤田徳次、母の藤田千代子と3人で、段原日出町で暮らしていました。妹が2人いましたが、上の妹、藤田千恵子は昭和15年ごろ、柿にあたって小学校1年で亡くなりました。下の妹、藤田節子は当時8歳で、比治山国民学校に通っていましたが、佐伯郡浅原村(現在の廿日市市浅原)に疎開していたため、一緒に住んではいませんでした。
私は当時16歳で、進徳高等女学校に在籍しており、安芸郡船越町(現在の広島市安芸区)にあった日本製鋼広島製作所に動員されていました。日本製鋼では、製缶や鋳物の作業をしていました。広島駅から向洋駅まで、動員列車に乗って通いました。向洋駅で列車を降りると、「日本は勝つ」というような歌を歌いながら、歩いて日本製鋼へ向かいました。当時は、たとえ負けそうであっても「負ける」という言葉は絶対に口にしませんでした。
日本製鋼へは、学徒だけではなく、吉島の刑務所の囚人や、朝鮮半島出身の人たちも働きに来ていました。彼らとは使用するトイレが違ったのですが、朝鮮半島出身の人たちが使っていたトイレに、ハングルで落書きのようなものがあったことを覚えています。
●8月6日
8月6日は、動員先の日本製鋼が電休日(電力不足により操業を停止する日)だったので、私は母と一緒に家にいました。庭にいると、B29が飛んできて、銀色に光っているのが見えました。低空を旋回していたので、母に「あれ、見て」と声をかけて家の中に2,3歩入ったその瞬間、爆風に遭い、私は気を失いました。30分以上気絶していたと思います。
目覚めたときには、家の中はぐちゃぐちゃになっていました。光線(こうせん)を浴びたせいでしょうか、外側を向いていた背中側の服の色が変わっていました。私も母も幸いけがはなかったのですが、その日は黄金山のふもとに住んでいる知人の農家の納屋に避難させてもらいました。黄金山へ向かう途中、仁保のあたりで、進徳高等女学校の同級生が下級生を連れて歩いているところに出会いました。竹屋町の寄宿舎から逃げてきたのでしょう。2人とも、何も履かずにふらふらと歩いていました。「どこに行くん」と尋ねると、「どこに行くんか分からん」と言って、意識がもうろうとした様子で、またふらふらとどこかへ歩いていきました。その後、2人がどうなったのかは分かりません。私と母は2日ほど、知人の家の納屋で過ごしました。
父は当時、産業奨励館にあった、県庁の土木部の出張所に勤めていましたが、その日は出張で山口県へ向かっていました。その途中で、広島がやられたと聞き、引き返したのです。市内へ戻ると橋が崩落していたので、服を脱いで、頭の上にベルトで括り付けて、泳いで川を渡り、産業奨励館にたどり着きました。産業奨励館に着くと、川の中に3人の同僚がいて、「家内にここにいると伝えてくれ」と頼んできたそうです。父は、段原の自分の家のことが心配になり、一旦家へ向かいましたが、比治山に上ると、段原が焼けておらず、無事であることが分かったので、産業奨励館に引き返しました。けれども、すでに3人の同僚の姿はなくなっていました。彼らは今なお消息不明です。
●大やけどをした伯母
母の兄の妻である、私の伯母、増田イツコはその日、鶴見橋へ建物疎開に行っており、そこで被爆しました。7日に私と母が黄金山から段原へ戻ると、近所の人が「お宅のお嫁さんが今帰ってきちゃったよ!」と教えに来てくれたので見に行くと、全身大やけどをし、ひも1本以外何も身に付けていない伯母がいました。今思い出しても、よくあの身体で帰ってきたと思います。「嫁なのだから何としてでも家に帰らなければ」という思いで、2日かけて帰ってきたのではないでしょうか。特に顔のやけどがひどく、のどにはウジが沸き、蚊が吸い付いていました。
その後、伯母を段原の家に連れて帰りました。家の前の第一国民学校(現在の段原中学校)が救護所になっていたので、伯母を連れて行きましたが、救護所がいっぱいで入れなかったので、普通の教室で待機していました。伯母の顔がやけどでズル剥けになっていたので、ほかの人に見られないようにと、伯父が伯母の顔にタオルを被せていたことを覚えています。伯母を救護所に連れて行ってから3日目、伯母は、伯父の腕に抱かれたまま、息を引き取りました。当時は遺体を焼く場所がなく、焼く人もいなかったので、伯母の遺体は私の父と伯父が、比治山で焼きました。
●大けがをした叔母
被爆から1週間が経った頃、私は母に頼まれて、大須賀町に住んでいる、母の妹である叔母、佐々木シゲコの様子を見に行きました。大須賀町に着くと、叔母の息子の茂ちゃん(佐々木茂夫)と親戚のおじさんがいました。茂ちゃんは頭に大やけどをしていました。茂ちゃんが、叔母は東練兵場にいると言うので、一緒に叔母に会いに東練兵場へ行きました。叔母は自宅で被爆したのですが、爆風で座敷から炊事場まで飛ばされ、倒れてきた柱の下敷きになったため、腰の骨が折れて起き上がれなくなっていました。
私が東練兵場にいると、むすびの配給があるという放送があったので、東照宮へもらいに行きました。東照宮へ上がる階段には、火傷をした大勢の人々が座り込んでいて、その光景にショックを受けました。
麦藁の上に置かれたむすびを、一家族につき2つずつもらえました。白米のむすびでしたから、田舎から届けられたのでしょう。その後、私は段原の家へ帰って、叔母の様子を母に伝えました。そして、父と叔母の兄とで、借りてきた台車に叔母を乗せて、段原の家へ連れて帰りました。
●行方不明の叔父を捜して
叔母、佐々木シゲコの夫である佐々木栄は、大須賀町の町内会長でした。
8月6日は建物疎開に出かけた先で被爆しました。朝8時に大手町国民学校に集合していたようです。叔父は5日にも建物疎開に行っており、本来なら6日は建物疎開に行く日ではなかったのですが、当日行かれなくなった人の代わりに、町内会長だからと参加したのだそうです。
被爆から1か月が経とうとする頃、私と茂ちゃんとで叔父を捜しまわったのですが見つからず、叔父がどこで亡くなったのかはいまだに分かっていません。 叔父を捜して市内を歩き回っていると、被爆して傷つき、姿かたちの変わってしまった人や物をたくさん目にしました。
的場町に張られていたテントの中で叔父を捜していたとき、女の人に「藤田さん」と声をかけられました。その人は顔の火傷がひどく、だれだか分かりませんでした。「誰?」と聞くと、「私、柳川よ」と言うのです。私の小学校の同級生でした。「気を付けてね」と声をかけてその場を離れました。的場町では、全身が焼けて真っ赤になった男の人が、防火水槽の中でうつむいて亡くなっているのも見ました。あまりにも衝撃的で、いまだに思い出します。
京橋を渡ったときには、5人くらいの人が死体を焼いているところを見ました。死体を重ねて置いて、その上にトタンをかぶせて焼いていました。京橋川では、膨れ上がった血だらけの女の人の死体が、鳶口のようなもので引き上げられているところも見ました。
日本勧業銀行や福屋、西練兵場へも行きました。西練兵場の手前では、電車1台と馬が丸焦げになっていました。西練兵場の中を覗くと、死体の山や、腸の飛び出た死体の上にトタンがかけられているのが見えて気分が悪くなったので、「茂ちゃん、帰ろう」と声をかけて、段原へ歩いて帰りました。感覚が麻痺していたのか、不思議と「汚い」とか「恐ろしい」とかいう感覚はありませんでした。
一緒に叔父を捜しまわった茂ちゃんは戦後、親戚を頼って岩国に行きましたが、被爆したことが原因で数年後に亡くなりました。
●戦後の生活
被爆したことで、日本製鋼での学徒動員は解かれましたが、私は学校に行くことも、卒業式に出席することもありませんでした。
終戦の翌年、昭和21年の2月から、日本貯蓄銀行(のちの協和銀行:現在のりそな銀行の前身)に勤めました。多くの銀行は建物がすべて焼けていたので、建物が残っていた日本銀行の一部と机を借りて業務を行いました。働き始めて少ししてから、日本貯蓄銀行が旧店舗の後ろにバラックの仮店舗を建ててからは、そちらへ移りました。
日本貯蓄銀行に3年勤めた後は、中国財務局や協和木工、池庄司整形外科医院に勤め、73歳まで働きました。協和木工に勤めていた38歳のときには、広島市長さんから勤労感謝の表彰を受けました。
プライベートでは、中国財務局で知り合った夫と23歳のときに職場結婚し、一男をもうけました。息子は西区役所の土木課に勤めていましたが、下水道の点検をしていたところ、鉄砲水に流されて亡くなりました。平成17年、息子が52歳のときでした。原爆に遭った私が今こうして長生きできているのは、亡くなった息子が「自分の分まで長生きしてくれ」と私に言ってくれているからなのだと思います。息子の月命日の前日には電車に乗ってお墓参りに行き、月命日には、毎月必ず亡くなった現場を訪れて水をやり、お線香をあげています。
●次の世代へ
今は本当に平和ですね。スーパーに行けば何でも手に入ります。戦時中はとにかく我慢、我慢の、今思えば一番かわいそうな時代でした。戦争で戦って死ぬのではなく、食べ物がなくて飢え死にした人も多かったと思います。また、日本中が「日本は勝つ」という幻想に酔い、何か大きな波に飲まれているような、そんな時代でもありました。今になってみると、「あの時代は何だったのだろう」と思います。
私はこの世界が、とにかく平和であってほしいと思います。私たちのような目には、もうだれにも遭ってほしくありません。二度と戦争のないように、と願っています。 |